【シャニマス SS】P「プロポーズの暴発」夏葉「賞味期限切れの夢」 (61レス)
1-

1: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:15 ID:oj63shz20(1/58) AAS
「夏葉……いや、夏葉さん。俺があなたを幸せにします」

 きらびやかな夜景をバックにして、俺は意を決し、懐から用意していた小箱を取り出した。
 都内某所の高層ビルにある高級レストランにて。まともに予約を取ろうとすれば何年待ちともいわれる席で、俺は元担当アイドルと向き合っていた。夜景の中心には、東京の顔となって久しい電波塔が据えられている。
 
 彼女がアイドルだったのはつい三ヶ月前までのこと。九年のアイドル生活に円満な終止符を打ち、プロデューサーとアイドルという関係は既に解消されていた。この日は単なる知人として、しかし、単なる食事会ではないことを匂わせて彼女を呼び出していた。
 
 社長に憧れて用意した一張羅の白スーツに身を包み、俺はなけなしの勇気を奮い立たせる。ひとつ小さく息をつき、手の中の小箱を開けた。ペリドットをあしらったダイヤモンドリングが姿を見せる。
 
「どうか、俺と結婚してくれませんか」

 俺は彼女の目をみすえて迷いなく口にする。それと同時に、予定していた通り、電波塔のライトアップが色を変えた。通常の配色である紫から、放課後クライマックスガールズにちなんだ五色へとうつろっていく。赤に、黄に、青に、ピンクに、そして緑に染まって。
省2
2: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:16 ID:oj63shz20(2/58) AAS
   ◇

 実際のところ、夏葉がアイドルを引退したのは三週間ほど前のことだった。今月の頭――関東が梅雨入りする直前だったか――にユニットの解散ライブを行い、惜しまれつつも、約九年間のアイドル活動に幕を引いた。

 俺と夏葉との関係は、いまだプロデューサーとアイドルのままだった。書類上の話だ。夏葉と事務所の契約は月末まで。この六月いっぱいは、形骸化したとはいえ、その関係が維持されることになっている。

「遅めのモラトリアムかしらね」
 夏葉は現状を浮かない顔でそう評していた。俺はそれを「らしくない」とも思ったが同時に、「仕方がない」とも思っていた。

 やれ『トップアイドル』だの『いま一番勢いのあるプロデューサー』だの、そう持て囃されていた三週間より以前ことが、もうずいぶんと昔のことのように感じられる。
 
 夏葉がアイドルとしての活動を終えて、二人のスケジュール帳には空白が目立つようになった。端的に言えば、俺たちは急激な変化に戸惑っていたのだろう。慌ただしくも明確だった日常から放り出され、時間的なもの以上に、何か精力的なものを持て余していた。
 
省8
3: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:20 ID:oj63shz20(3/58) AAS
 俺は自分でわかるほどに目を丸くした。自身の口をついて出た言葉が信じられなかった。目をすぼめて、またたきを何度か繰り返す。対して、助手席に座っている夏葉はぴくりともしなかった。

 あべこべだ、と思った。婚約を切り出した側が狼狽していて、切り出された側が平然としている。盗み見た夏葉の横顔は、神妙な面持ちで車の進行方向を見つめているだけだった。

 もしかしたら聞こえなかったのかもしれない、と疑問が浮かぶ。今ならば発言をなかったことにできるのでは、と頭をよぎる。しかし首を軽く振って、その考えを打ち消した。夏葉に嘘をつきたくない。

「それも……いいかもしれないわね」

 しばらくしてから、呟くように夏葉が言った。ちょうど車が赤信号に引っかかった時だった。
 語調から否定的なニュアンスは感じ取れなかった。目元をよく見れば、わずかに緩んでいる。嫌がられてはいないようだった。だが、反応に乏しいというのはやはり不安になる。
省14
4: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:20 ID:oj63shz20(4/58) AAS
「別に、結婚するのが嫌なわけじゃないの。そんなはずない。好きな人と一緒になれるのだから、嬉しいことに決まっているわ」
「なら何が引っかかってるんだ?」
「見えてこないのよ。その生活の中で、私は何をしていて、何を目指しているのか……それが、見えてこないの」
 夏葉の声には抑揚がなくて、まるで自分自身に言い含めているようでもあった。

「……夏葉が、アイドルじゃなくなるからか」
「そう……ね。そういうことだと思うわ。アイドルじゃない自分なんて、今まで想像もしてこなかったもの」

 夏葉が目を伏せた。俺は外れて欲しかった推測が当たっていたことを痛感した。夏葉の戸惑いは、俺の想像よりもはるかに大きく、根深そうだった。

 逆の立場で、もし俺が明日にでもプロデューサーを辞めなくてはならない、となったらどうだろう。当面の金はある。住む場所もある。友人だっている。それでも、胸にぽっかりと穴が空いたような気分になるのは、避けられないのではないだろうか。

「想像、か」
 夏葉の言葉を反芻した。
省2
5: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:21 ID:oj63shz20(5/58) AAS
「ねえ、プロデューサー」
「なんだ?」

 大人しく夏葉の言葉を待った。俺は先の婚約の暴発を悔いていた。告白をしたこと自体に後悔はないが、気持ちが先走っていたのは疑いようがない。
 夏葉が口を開く。

「次の信号、右よ」
「……え?」

「再確認になるけど、曲がったところすぐに駐車場の入り口があるわ」
「あ、ああ……了解だ」

 運転に集中できていないことを見抜かれていたらしい。思考が切り替わる。漠然とした未来の想像を止め、現実的な運転における諸注意に集中する。
省7
6: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:22 ID:oj63shz20(6/58) AAS
 普段持ち歩いている手提げカバンは置いていくことにした。同様に夏葉も手ぶらで車を降りる。貴重品だけをポケットにしまって、俺たちは駐車場を後にした。

 それは暗黙の了解であるような気がした。結婚、将来、幸福……そういった直ぐには答えが出ない問いを、取りあえず車内に置いていこうという同意だ。どうせ一時間とかからずに車に戻るのだから、と。

「こっちよ」
 夏葉が一歩前に出て先導する。車で通って来た道を引き返していたので、行き先はすぐにわかった。

「わざわざ正門に回るのか?」
「昔はいつも正門で待ち合わせていたじゃない」
「それもそうか。……順序は大切だ」

 歩いて五分とかからずに正門に到着する。七年前までは夏葉を迎えによく訪れた場所だ。目の前の光景に対して、「あまり変わってないな」と感想を抱けるくらいには記憶が残っていた。
省9
7: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:22 ID:oj63shz20(7/58) AAS
「おっ」
「何かあった?」
「懐かしい物を見つけた。ほら、そこの掲示板だ。サークル勧誘のチラシが張ってある。……『アイドル研究会』のもあるぞ」

 かつて夏葉を迎えに来た時のことだ。早めに着いた俺は掲示板を眺めて時間を潰していて、後から来た夏葉と、掲示された勧誘チラシについて会話に花を咲かせたことがある。その時に話題に上がったサークルの名前が『アイドル研究会』だった。

「あら、本当に懐かしいわ。チラシのレイアウトとかはさすがに変わっているみたいね」
「レイアウトなんてよく覚えてるな。俺はさっぱりだ」
「大切な思い出の一部だもの。アナタだって全部忘れたわけじゃないでしょう。ここにあるチラシを見て、アナタが私に言ったことは覚えてる?」

 夏葉が指をさした。掲示板の上では、テニス、ラグビー、ワンダーフォーゲル、旅行……といった様々なチラシが、楽し気に青春の風情を醸し出している。今見ても心惹かれるものばかりで、当時の自分の言葉を思い出すのは容易だった。

「たしか『サークル、やりたいか』って聞いたと思う」
「それで、その後は?」
省9
8: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:23 ID:oj63shz20(8/58) AAS
「そうね。アナタは努力を『手段』と割り切れてしまうタイプだわ。必要だと思ったらどこまでも努力ができてしまう」
 夏葉が人差し指を立てた。

 その言葉の一部には思い当たる節があった。逆説的だが、いつかの夏葉が口にした、『これが努力の楽しいところよね!』というセリフに感銘を受けたのを思い出した。

「なら夏葉は努力そのものを楽しめるタイプだな。何に対しても真摯で、全力で……情熱的だった」

「別にアナタに情熱がなかったと言いたいわけじゃないのよ? むしろ逆だわ。アナタには誰にも負けないくらいの情熱があった。そうじゃなきゃ十数人、数ユニットを同時にプロデュースできたりしないはずだもの。ただ……」
「……ただ?」

「情熱とかいたわりとか、そういう感情が自分に向いてないんじゃないか、って思うことはあったわ。自分に対する割り切りがよすぎるのよ、アナタって」
省9
9: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:24 ID:oj63shz20(9/58) AAS
「そういうアナタがたまに心配だったわ。気持ちがわかる、ってそういうことよ。きっと私たちは、お互いのずれた部分を意識し合っていたんじゃないかしら」
「ずれた部分、か」

「だからこそ噛み合っていたとも言えるわね。少しのずれが在るおかげで私たちは噛み合っていた。アナタの黙々とした努力を見て、私だってまだまだ頑張れるはずよ、っていつも自分を鼓舞していたわ」

 脳裏にかっちりとした蒸気機関の歯車が浮かんだ。
 たしかに夏葉の言う通りかもしれない。俺も同じだ。夏葉の情熱にあてられて、それに見合う人間にならねばと自分を奮起させてきた。夏葉の論は的を得ている気がした。

 ならば夏葉の自分に対する評も、案外客観的な真実なのかもしれない。すなわち自分に対して頓着しない人間。努力を手段と割り切れてしまう人間。

「そういえば……」
省12
10: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:24 ID:oj63shz20(10/58) AAS
 学食は活気ある賑わいと彩りを見せていた。変わらずの懸念事項であるのは目立つことだが、それも杞憂に終わりそうだ。冴えないスーツ男とサングラスの美女が混じっていても奇妙ではない程には多種多様な人がいる。

 ぶかぶかのリクルートスーツを着た男女に、髪の天辺から爪先まで派手な色に染めている女性、よれよれの白衣に眠そうな目をした壮年の男性などなど。他にも一括りにできぬ人々が集団を成している。そして姿格好以上に、学食にいる各々が自分自身のことに手一杯であるという印象を受けた。無論、良い意味で。

 俺はカツ丼を、夏葉はサンドウィッチを注文して席に着いた。

「先に断っておくが、俺の昔話なんか面白くないぞ。別につまらない人生を送ってきたわけじゃないが……普通すぎて話にする分にはつまらない」

 嫌味を言うつもりは無かったのだが、暗に「君とは違って」というニュアンスが混じってしまったのは否めなかった。夏葉が可愛らしくむっとした。
省4
11: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:25 ID:oj63shz20(11/58) AAS
「生まれは……いわゆる中流階級ってことになるのかな。中学までは地元で過ごして、高校大学は成績に見合ったところに進んだよ。卒業と同時に一般企業に就職した。そこに二年間勤めた後に、283プロに転職して今に至る」
 こんな感じでいいのだろうか、と心の中で疑問符を浮かべた。人生の要約というのは案外難しい。

「成績はよかったの?」
「まあ、そうだな。トップクラスではなかったけど。要領だけは良かったから」
「目に浮かぶ気がするわ」

 学年一位を目指す、といったタイプではなかったが、勉学に対しては真面目な生徒だったように思う。厳密に言えば通知表の数字の方に真摯であった。数学の公式の美しさを理解することよりも、成績のための『ちゃんとした』努力に心血を注いでいたのだろう。おそらく周囲の大多数と同じように。

 自分にとっての通知表とは、五段階評価なら『5』を、優良可なら『優』を、ただ集めるだけのものにすぎなかった。

 俺は再度割り箸を手に取って、閉じ卵を切り裂くように二つに割った。
省10
12: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:26 ID:oj63shz20(12/58) AAS
「理由は働きすぎだ。休日返上、残業は当たり前で……周囲には過労死まっしぐらに見えていたらしい。それで『どうせ死ぬなら好きな仕事で死になさい』って諭されて、天井社長に紹介された」

 その上司は俺がアイドルの世界に興味があることを知っていた。何かと目をかけてくれた人だった。

「それで社長に会って……その時に言われたのが、さっきの『結果主義に囚われやすいものだ』って言葉だ。他にも厳しい言葉や難解な言葉をかけられたよ」
「例えば?」

「『視野は広いくせに盲点が大きい』とか『心の器は大きいのに穴が空いている』とか。極めつけは『今のままじゃお前が幸せになるのは難しい』だったかな。散々な言われようだった」

 天井社長と会ったのは貸し切りのバーだった。はづきさんもいたはずだ。社長は初対面でいきなり俺をトランプゲームに誘った。そして、俺という人間を値踏みし、底にある思考回路を見切り、あっさりと下した。それからプロデューサーをやらないかと名刺を渡してきたのだった。
省10
13: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:26 ID:oj63shz20(13/58) AAS
「……マフィンの話になるんだが」
「ええ」
「マフィンってお菓子の中では簡単に作れる方でさ。手軽なんだ。だけど生地を混ぜるときだけは注意が必要で、そこを『ちゃんと』できてないと全てが駄目になってしまう」

「そうなの」
「大事なのは薄力粉を入れた後の混ぜ具合なんだよ。混ぜ方が甘いと粉がだまになってパサパサとした出来上がりになる。けど混ぜすぎると生地の粘りが強くなりすぎて、今度は焼いた時に膨らまなくなる。その加減が難しくて……なんというか、混ぜているときは不安でしょうがない」

「そういう不安はわかる気がするわ」
「誰だってそうなんじゃないか。自分のしていることが正しいのかどうか、そんな不安はいつだってつきまとう。どんな趣味でも、どんな仕事をしていても、何もしていなくても。……その点がマフィンはよくてさ。焼けばわかるんだ。『ちゃんと』していたかどうか、はっきりと」

 上手にふんわりと焼きあがれば『ちゃんと』できた。そうでなければ『ちゃんと』できていない。単純明快な判断機構だ。

 マフィン作りの『ちゃんと』は状況によって様々だ。薄力粉の保存状態、気温と湿度、作る生地の量などで、混ぜ加減の正解はころころと移り変わる。『ちゃんと』という言葉は曖昧だ。それはマフィン作り以外でも同じこと。ケースバイケース。霧の中にしかないもの。
省3
14: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:27 ID:oj63shz20(14/58) AAS
「アイドルに憧れたのは、彼らに『ちゃんと』がなかったからだ」
 誤解を恐れずに口にした。アイドルに定まった正解はない。夢を叶えるために道なき道を進もうとする勇者だと、若い時分にはそう思えたのだ。夏葉は「わかるわ」と頷いた。

 どんぶりの最後の一口をすくって、俺は懐かしむように笑った。

「……まあ、昔話だな。思い返してみれば、俺も青年らしく葛藤していたらしい。新発見だ」

 努めて笑ったつもりだった。思いのほか暗い話になったので空気を和ませようとした。だがそんなことを考える必要はなかった。自然と笑えている。「そんな頃もあったなあ」と肯定できるくらいに葛藤は過去のものになっていた。

「でも今は違うよ。上手く言えないけど」
省9
15: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:28 ID:oj63shz20(15/58) AAS
「最初に会った頃は、そんなクセ無かったわよね。……そのクセ、二年くらい前からかしら」
「二年前」

 そう言われて強烈に思い当たる節があった。二年前、有栖川夏葉に心底惚れ直す出来事があったのを思い出した。その時の強い印象が、知らず知らずのうちにクセを作っていたに違いない。

 夏葉に「覚えていないのか」と聞こうとした。だがそれは藪蛇だと思い直した。自分の青春語り以上に恥ずかしい思い出だ。そして何より綺麗な思い出だ。可能ならば大切に胸の内にしまっておきたい。
 誤魔化そう、と決意した。

「……それで、学生の頃から、かれこれ二十年近くアイドルというものを見てきたわけだが」

 慎重に夏葉の顔をうかがう。無理のある話の切り替えかと思ったが、夏葉は気にしていないようだった。
省6
16: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:29 ID:oj63shz20(16/58) AAS
「学生の頃は日高舞が一押しだったんだ」

 さも当然のように言い放った。夏葉は腕を組み、その視線はたちまち凍てついた。上目遣いだったはずなのに、見下ろされているかのような重圧を覚える。

「……へえ、そうなのね、ふぅん」
 声色も随分と低くなっていた。しかし賽は投げられている。

「俺が学生の頃はとっくに引退していたけど、それでも作品とかは結構残っててさ。曲も名曲ぞろいなんだ。特に惹かれたのは、あの型破りなキャラクター性で………」
「あのね、プロデューサー」

 無理にまくしたてるような自分の語りを、夏葉は重くゆっくりとした声で阻んだ。視線は鋭かったが、頬はほんのり赤く染まっていた。
省6
17: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:29 ID:oj63shz20(17/58) AAS
 車に戻りエンジンキーを回すと、夏葉の顔が強張った。
 カーナビの液晶ディスプレイには次の目的地が表示されている。事務所を出発する前に設定しておいたものだ。すなわちそれは、俺が「結婚しないか」と口にする前に設定された目的地ということになる。

「……あー、行き先変えるか? この近くならショッピングモールとかあるけど」
「いいえ、行くわ。一度決めたことだもの」
 夏葉は毅然として言った。

 二番目の目的地は海辺の教会だった。かつて仕事で訪れた場所であり、夏葉が初めてウェディングドレスを着た場所でもある。仕事の内容は雑誌に使う写真の撮影で、結婚式をイメージしてのものだった。
 
 夏葉のウェディングドレス姿は鮮明に思い出せた。夏葉にとっても印象深い仕事であっただろう。あの教会に着いてしまえば、俺も夏葉も『結婚』というものを意識せずにはいられなくなる。

「出してちょうだい」
 夏葉はそう言って窓の外に目をやった。遠くを見ていた。いつのことを思い出しているのかは予想がつかなかったが、邪魔すべきでないことはわかった。
省2
18: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:30 ID:oj63shz20(18/58) AAS
 その教会に着いたのは午後三時をまわった頃だった。
 結局、到着するまで夏葉は一言も発さなかった。一時間ほど車に揺られて、その途中の十五分ほどの間に強い通り雨もあったのだが、それでも彼女は沈黙を貫いていた。

「着いたぞ」

 俺がそう言うと、夏葉は我に返ったかのようにはっとした。短く礼を言って夏葉も車を降りる。駐車場には小さな水たまりができていた。

 真っ先に海が見えた。教会は海に面した高台の角地に建っていて、否応なしに洋上の景観が目に入ってくる。裏手から付設の庭園に回れば、記憶の通りカリヨンの鐘があった。立地も景色も変わっていない。ここもまた当時から変わっていない場所だった。

 礼拝堂に入ると、少ないながらも先客がいた。歩きまわりながら感想を言い合っている若いカップルが一組と、杖を立てかけて長椅子に座り込む老人の男性が一人。撮影も結婚式も行われていない。
省7
19: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:31 ID:oj63shz20(19/58) AAS
 それは同じ質問だった。かつては答えられなかった質問だ。あの当時は、鐘に込められた意味など、考えたこともなかった。だけど、

「……不幸を追い払って、幸福を呼ぶために。そして遠くの人にも想いが届くように。そういう平和の鐘だ」
「憶えていてくれたのね」
「まあ、な」

 忘れられるわけがない。その後に続く彼女の言葉だって、その一字一句を憶えている。

『だからね、プロデューサー。私――……』
『……』
『今は……あの鐘みたいに、幸せを海の向こう側まで届けられるような』
『……そんな、アイドルでいたいわ』

 それほど彼女の言葉に惹かれていた。アイドルとして確固たる理想を持つ彼女に、それを迷いながらも笑顔で語れる彼女に、俺は焦がれていた。今にして思えば、俺にとって有栖川夏葉は誰よりも『アイドル』だった。
省9
20: ◆/rHuADhITI [saga] 2019/08/18(日)02:31 ID:oj63shz20(20/58) AAS
「迷うのも、満たされないように感じるのも……結局のところ、夏葉が誰よりもアイドルだった自分を大切にしてきたってことじゃないか」
 俺は心からの言葉を口にした。

「夏葉はよくやったよ。今の苦しみも虚しさも、決して悪い物じゃない。むしろ成し遂げたからこそあるものだ」

 しかし、俺の言葉は空回りするおもちゃのようだった。夏葉の目から鈍い光が消えることはない。夏葉の成功を肯定することはできても、虚しさを生み出す根本のスキマを埋めることはできなかった。

 言葉に意味と説得力を与えるのは行動だ。だから、今必要なのは行動なのだ。何かをしてあげたかった。俺が二年前の夏葉の行動で救いを得たように、今の夏葉の痛みを軽くする何かをしたかった。

「俺、は……」
 だが思いつかない。言葉ならいくらでも重ねられる。それらに確かな輪郭を与える一つの最適な行動ひとつが出てこないのだ。俺は自分の無力さに深く辟易した。
省9
1-
あと 41 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.122s*