沈黙 (11レス)
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1: 2017/01/09(月)00:38 AAS
沈黙について
2: 2017/01/09(月)00:38 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆1、衛星テレビの「沈黙」

 平成元年一二月二一日午後一〇時からNHKの衛星テレビで、遠藤周作氏の「沈黙」の映画が放送されるという番組のお知らせがあった。その知らせをみて、わたしは悲しく思った。

 この問題作が出てから間もなく、昭和四七年(一九七二年)一月二日付の「カトリック新聞」第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事が出た。いうまでもなく、「沈黙」の中の踏絵の場面を正当化するためだった。

 これに対して、ドン・ボスコ社の「カトリック生活」(当時バルバロ神父編集長)の中に、わたしもバルバロ神父も、これに対する抗議的な反論をのせたことがある。当時、多くの読者から、勇気をもってこの反論をのせたことに対して、感謝と賛成の手紙や電話をうけた。
省9
3: 2017/01/09(月)00:39 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)

「弱い人のためにキリストは、この世にきた」

 昭和四七年一月二三日のカトリック新聞第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事がある。

 この記事で、まず目にとびこんでくるのは、「弱い人のためにキリストは、この世にきた」というキャッチフレーズだ。
省19
4: 2017/01/09(月)00:40 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-2、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)

 遠藤周作氏が「自分がそんな強者ではないゆえに」といっても、キリストはゆずられない。また、かれは、「おのが弱さや拷問への恐怖、家族への配慮、そんないろいろの理由で足をかけたのでしょう」と、いちおうもっともらしい口実をさかんにもちだしているが、真理は真理、絶対にどんな場合にも、これを裏切ることは許されないのだ。

 弱さは口実にならない、キリストヘの忠実は、絶対的なものでなければならない。いのちを失いたくないから踏絵に足をかけたというが、はたして、いのちをそれによって保証できるだろうか?”いな”とキリストはおおせられる。

 キリストのことばはおそろしい、しかし、そのおそろしさが、私たちに大きな力をあたえる。「でも、キリストさま、あなたをきざんだこの尊い踏絵に足をつけなかったら、私はすぐ殺されてしまいます・・・」といくら泣きごとをいっても、キリストは、「殺されてもかまわない」とお答えになる。そして、「こうして私のためにいのちをぎせいにしてこそ、あなたは、私を人の前で証言することになるのだ」といっておられる。
省5
5: 2017/01/09(月)00:41 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-3、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)

 遠藤周作氏の第三の口実、「家族への配慮」に対しても、キリストのみことばは、ほんのちょっとの疑いさえ残さないほど、はっきりお答えになっておられる。

「私よりも、父や母を愛する人は、私にふさわしくない、また、私よりも、息子や娘を愛する人も、私にふさわしくない」(マタイ10・37、ルカ14・17)と。そして、さらに、このことを強調するかのように、キリストは、「地上に平和をもってきたと思ってはならない。平和ではなく、つるぎをもってきた」(マタイ10・34)」といっておられる。

 キリストにふさわしい弟子となるために、十字架は避けられない。キリストご自身「自分の十字架をとって私にしたがわねばならない」(マタイ10・38)と明らかにそのことを断言された。
省4
6: 2017/01/09(月)00:42 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-4、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)

 キリストのこの教えは、きびしすぎると思われるかもわからない。信仰のない人、信仰のうすい人には、そう思われるのもやむをえないだろう。使徒聖パウロが明らかにのべているとおりである。

「実に十字架のことばは、滅びるものには怠かであるが、救われるもの、私たちにとっては、神の力である」(コリント前1・18)と。

 この世の知者や学者はキリストのみ言葉を認めることができない。それは、神の知恵ではなく、自分の知恵によりたのむからである。そのためにこそ、聖パウロは、「神は宣教のおろかさをもって信じるものを救おうとおぼしめされた」といっているのである。そして、こうつづける、
省6
7: 2017/01/09(月)00:42 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-5、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)

 私は、遠藤周作氏があのような記事を書いたのは、残念なことだと思う。しかし、それにもまして残念でならないのは、その記事が、カトリック新聞にでたことである。しかもそれは、著名なある聖職者の提供である。

 一般読者は、これをよんで、どんな印象をうけるだろうか?”やっぱり、教会がこれまで、きびしく教えていたことは古かった。現代の要求に合わせるためには、キリストの教えさえ「進歩させる」必要があるなあ”と考えただろうか?

 それは、遠藤周作氏の小説「沈黙」がはじめて出版されたおり、カトリック新聞の読者の「声」の欄にのった記事をみてもよくわかることである。
省3
8: 2017/01/09(月)00:43 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆3、弱い人々のために (バルバロ神父)

「正義のためにしいたげられた人は幸せ」

 先日、カトリック新聞にのった遠藤周作氏の一文に関して、デルコル神父の抗議的な反論が本号にのるが、私もそれについて一言書き加えたい。

 最近二、三ケ月の間に、カトリック雑誌あるいはカトリック新聞と称する紙面に、カトリック作家と称する人々の記事がのり、それに対して「カトリック生活」は今度で二度目の抗議をしてきている。それを私が喜んでしていると思われたら心外である。
省7
9: 2017/01/09(月)00:44 AAS
 キリストの目で眺めるとなると、もう人間的なものではなくて、この世をさかさまに眺めるとでも言えるであろう。たとえばキリストは、「心の貧しい人は幸せ」「泣く人は幸せ」「正義のためにしいたげられる人は幸せ」と言ったが、これは人間の口から出るせりふではない。

 人間の頭で考えれば遠藤氏にとっても、私にとっても、ふみ絵をふめと強制された昔のあわれな人々は、決して「幸せな人々」ではなかった。かれらは、すべての自由をうばわれ、さらに、今、このふみ絵によって生命さえも断崖に立たされていたのである。イエズスが、「正義のためにしいたげられる人は幸せ」という自分の信念をすてて、ただこの弱いあわれな人々の今のしあわせだけを考えたならば遠藤氏のいうようなことになっただろう。

「私はお前たちが、弱くて、あわれな人々だと知っている。私は、そういうお前たちを救いに来たのだから、この際私を裏切ってもよい。すててもよい、私に対しての愛、誠実をも忘れてよい。お前たちの大切な命を救うがよい。幕府の役人にお前たちは責められているが、それに対してはずるがしこく立ち向かって、自分の生命を救うがよい。そうすれば私は、後から何でもゆるしてあげる」。

 だが、もしそれが事実なら、これ以上危険な道はない。われわれはみな弱いし、日々体験しているように、実にあわれなみじめなものである。日々、人間として信仰者として、われわれは、いろいろな意味でのふみ絵の前に立たされている。キリストと、キリストの国と、キリストの愛をえらぶか、それとも、あなた自身の傲慢と、利益と邪欲とのいずれをえらぶかが、日々ためされている。
10: 2017/01/09(月)00:44 AAS
 この場合、弱い人間としてえらびやすい方をえらんでもよいなら、そしてどうせキリストは弱いもののためにきたのだから、それをあてにして行動するなら、キリストが、”天にまします父のように完全であれ”という言葉も空しくなる。

 こうなれば、キリストは、「人類が歩くべき気高い道の旗印」とはならず、「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者となるほかない。キリストが「人類の気高いものの旗印」となったのは、かれが生命をかけて、正義と愛と真理を守り通したからである。この三つの言葉が人類の心にその意義を全く失ってしまわない限り、"キりスト者の裏切り"はあるにしても、キリストは人類の指導者としてふみとどまる。

 キリスト者ではない人々でも、人間である限り、生命を賭しても妥協できない一線のあることを知っている。われわれの生存本能は、いかに強くとも、それにまさる価値あるものの存在を知っている。パルティザン同志が戦っていたころ、マルキシストや、ファシストや、アナルキストや、愛国者の中にも、自分の信念を裏切るまいとして生命を投げうった人は多かった。かれらは、人間であったからこそ、この生命以上に、すべてを贈りて惜しくないものがあることを知っていた。

 キリスト教の歴史は、拷問や十字架や責苦が、他のどれよりも多い。それは、葦のように弱い人間が一番拒否したい理想を、キリスト教がかかげていたからである。盲目的な、暴力的なものは、霊と精神とにはげしくぶつつかるのである。正義や真理の理想を宣言して生命をなげうった人々は、キリスト信者であろうとなかろうと、「神の子」であるに相違ない。

 キリストの名によって自由を叫んだ日本キリシタンの殉教者は、日本における最初の「自由の雄叫び」であった。当時の封建的な扱いにならされていた女性たちさえも、そして子供たちも、「人間からは出ない力」をもって、迫害者に向かって「いえ」を言うことができた。こういう人々こそ、精神の自由という新時代を築いた人々である。みなが「弱い人間」であるがために暴力と権威に妥協していたら、暗黒時代の夜は明けなかったろう。
省3
11: 2017/01/09(月)00:45 AAS
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆3-2、弱い人々のために (バルバロ神父)

 キリストは、「弱い人々」のために来た。それは真実である。そのためにキリストは、「神のあわれみ」をわれわれに教えた。しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったことはない。むしろ「自分の生命を救いたいなら、それをすてよ」と教えたではないか。キリストにとって死は、「恐るべき最後」ではなくて、新しい生命へのかど出であり、それが、キリスト教の中心である「よみがえり」の意味となるのである。

 サルトルの無神論的実存主義の結論が「すべてはナンセンス」であるということをここで皆考えてみてはどうであろうか。サルトルの考えでは、神もなく、来世もなく、すべては無意味な、その混沌の中で、人間は自分の力で自分を救わねばならないのである。人間のことを、この世だけで解決するのが、その思想の根本である。こう考えてくれば、たしかにふみ絵も、人間の作ったばかばかしいものであるから、それをふんでもかまうまい、無意味なことなのだから。

 しかし、こうなれば、もうキリスト教ではなく他の宗教である。もうキリスト教はない。
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