規制推進派とオタクとの関係性について (295レス)
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(2): 松代 2002/11/12(火)00:36 AAS
一部の規制推進派と同様に一部のオタクもまた「法的に認められた愛しあう二人の生殖目的のセックス」を頂点とするセクシュアリティのカースト制を自明としています。

また、一部のオタクと一部の規制推進派はセクシュアリティのカースト制によって「萌え」ますが、セクシュアリティのカースト制に対するオタクと規制推進派の関係は全く正反対のものです。具体的に説明すると、オタクは自らがロリとかペドとか二次コンとかいう「下位カーストにあること」を自覚することで萌え、対する規制推進派は自らが正当な「上位カーストにあること」を自覚することで萌えます。

セクシュアリティのカーストは相対的な概念なので、どっちか一方だけでは萌えません。

オタクは自分のカーストをレベルアップするよう上位カーストへ挑戦し、そして「敗北することで自分のカーストを確認」し、萌えます。

規制推進派は下位カーストからの挑戦をあえて受け、そして「勝利することで自分のカーストを確認」し、萌えます。
省5
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(2): 松代 2002/11/12(火)00:42 AAS
セクシュアリティのカースト制を自明とする相手に、表現規制という文脈で児ポ法を語ることは非常に危険だといえます。
いたずらに先の見えない議論ばかりが繰り返され、揚げ句の果てに「議論することが目的」で、議論の結果として「なんらかの一致点を見いだすつもりなんか全くない」事を思い知らされるでしょう。

また、反対に表現規制へ「反対する」という姿勢で活動を展開することにも問題があります。なぜなら、かなりの確立で「反対することそのものが目的」となっている人物が混入し、活動全体をいたずらに混乱させるからです。
そればかりか、マンボウのときもそうでしたが、表現規制に「反対」するという方法論で展開しているかぎり、規制の実体が見えづらくなった「その瞬間」に活力は失われます。最近の情況を例に出すと、もし児ポ法の改正案に「絵の規制が含まれていい」場合、盛大に萌えていた人々はすっかり萎えるか、あるいは乾ききって姿を消すでしょう。
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(2): 2002/11/12(火)10:14 AAS
>>2
>もし児ポ法の改正案に「絵の規制が含まれていい」場合

これ、
>もし児ポ法の改正案に「絵の規制が含まれていない」場合
ですよね?
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(1): 松代 2002/11/13(水)01:58 AAS
>>3
ケアレスミスです。申し訳ありません。
指摘していただき、感謝します。

正:もし児ポ法の改正案に「絵の規制が含まれていない」場合

誤:もし児ポ法の改正案に「絵の規制が含まれていい」場合
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(1): 松代 2002/11/14(木)02:00 AAS
セクシュアリティのカーストにおいて、本当の頂点にたつ存在は「少女というイメージ」です。
表現規制という文脈から児ポ方を考える人々や、規制を推進する人々は、おうおうにして「子ども=天使」という比喩を用いますが、これなんかはセクシュアリティのカースト意識を露呈させたモノだと考えます。

ろり&ぺどは「純粋無垢で天使のような少女イメージを性的に汚す」ことで激しく萌えまつ

規制推進派は「純粋無垢で天使のような少女イメージを性から護る」ことで激しく萌えまつ

いずれにしても、少女=純粋無垢でないと萌えないわけで、既に汚れてしまった「こぎゃる」なんぞは、どちらからも「人間未満」のように扱われ、そしてポイされる運命にあります。
まぁ、あえてこういう表現をもちいるならば、ロリ&ペドにとっても、また規制推進派にとっても、こぎゃるとは「賞味期限の切れた少女」なんでしょうね。
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(2): 通りすがり 2002/11/14(木)14:36 AAS
わからんでもないが、普遍的な定義とは思えませんね。
こういう決めつけで語ってしまうことじたいが問題と思われ。

>>1さん、こういう迂闊な主張はお控えになった方がいいですよ。
7: はんてん 2002/11/14(木)23:11 AAS
>>6

すいませんが、何を仰りたいのか、さっぱり分かりません。
批判なら、演繹法に基づく理論を提示するべきかと。
8: 松代 2002/11/15(金)11:30 AAS
>>6
意味が読み取りづらいので、コメントは控えさせていただきます。
自分は普遍的な情況について語ったわけではないのですが、もしかしたら「一部」という単語の意味づけに齟齬があるのかもしれません。
自分自身、規制推進派にしてもオタクにしてもセクシュアリティのカーストを自明としている人々の「人数」は多くない、数的には間違いなく「少数派」だと判断しています。

しかしながら、活動における「活力の中心」となっているのはセクシュアリティのカーストを自明としている人々なのではないかなと、そのように認識しています。
少なくとも、WEBにおける発言という部分で判断するならば、それこそ「普遍的」なのではないかなとさえ思いますが、この点についてはきちんと統計をとっているものではなく、あくまでも「個人的な経験則」によるものです。

それに、自分としては「気軽な読み物」ぐらいの感覚なので、真面目に読んでいただいて恐縮している次第。
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(1): 松代 2003/01/07(火)02:14 AAS
ある特定の「なにか」に「レッテルを貼った」ところで、レッテルはレッテルに過ぎない。名前が「常に実体と一致している」とは限らない。

−薔薇は薔薇の名のみにあって薔薇にあらず−

薔薇の名前に登場する有名なモノローグだけど、もとネタとなった唯名論を踏まえて実体とレッテル(名前)との関係性を考えたほうがよいのではないか?

とはいえ、オタクも規制推進派も「名前は実体を表す」とか、あるいは「名前は【実体と一致】していなければならない」と思いこんでいるため、話が非常にややこしくなる。
例えば、規制推進派の論理は子どもに「性欲の対象」というレッテルを貼ると、本当に子どもとセックスすることが「当たり前」になる。だから、子どもは性欲の対象という「レッテルそのもの」や、あるいは「レッテルを貼ろうとする行為」を取り締まらなければならない。
一方、オタクの中にも「ジャンル分類」という行為を通じて作品にレッテルを貼り、そしてあたかも「ジャンル別けによって作品の内実が規定された」かのように捉える人間が少なからず存在している。

まぁ、この板にも「ゆりスレ」なんてのが出来たりしたけどさ…
省5
10: 松代@ねたばれ 2003/01/07(火)02:17 AAS
松代はオタクに「規制推進派と似た者同士」というレッテルを貼ることで、おたくの「内実を規定」しようとしています。
嫌だったら適当に抵抗して下さい。
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(1): うなぎ 2003/01/07(火)21:53 AAS
そういえば「子ども一般の権利」とか「子どもの集団的人権」という
概念って「子ども」という特定の年齢層を、イデア(観念)として
『実在』していると見なしてるような考え方ですよね。

実際には「子ども」ってえのは、一人一人別個の、成長過程の一人の人間
としか『実在』しないのですが。
12: 兎山帰郎inアカパンカビ 2003/01/24(金)22:55 AAS
>>11 うなぎさん
 こんばんわ。 NBKで一回触った話しに戻ってきてますね。
 なんだか大昔に 「>> > > >」記号を使って
 なんだか まとめたような。
 「子どもは こんなイメージのままであって欲しい」という主張の譲り合いとか。

>>9 松代さん。
 名前と実体の話が興味あります。 
 たった数文字の文字列(名前)で 実体なんてあらわせっこないんだから、
 魚の正しい名前の話とかスーパーでは有るけれど
 だいたいこんなもん程度で 適当に名付けても いいような感じ。
省12
13: 兎山帰郎inアカパンカビ 2003/01/24(金)23:10 AAS
「セクシュアリティのカースト」っていう言い回しは、
「性を特別な上位のものとして祭り上げて、それに順序良く 従がおうとしている」
ってことを表現してるのかなぁ。

規制推進派は 見下げた者たち(性向少年漫画表現派)から批難されることで 元気になり、
性向少年漫画表現派は 作り上げた幻想の前にひざまずくことで 元気になる。
なんか違うかな。

規制推進派も、性向少年漫画表現派も、「児童に見える画」を
「児童」に結びつけ、実際の子どもたちに照らし合わせ、
(抽象句「児童」は 太郎1年生などの実体に合う)
特別化、象徴化して拝み倒す。
省5
14: 兎山帰郎inアカパンカビ 2003/01/24(金)23:49 AAS
「実際の 売春買春をどう受け止めるか」「表現の暴力性をどう受け止めるか」
という話を 自らの「容認・禁止して欲しい領域」の拡大を図る道具に
してないかな。
児ポ禁の本質は「性」の話でもあるけれど、「子ども」の話だと思うんだ。

未成年の売春買春、というと性の印象が強いけど、
要は「同性異性に対する興奮が、危うい」というのと同時に、
「未成年に対する危害が、危うい」なんだと思います。
 (前者には絵も当てはまり、後者には絵は当てはまらない)

あわせると、「未成年の同性異性に対する興奮・危害が危うい」となります。
なんだか合わせ技で お呼びでない空像 が出てきた気がします。
省5
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(3): 松代 2003/02/05(水)03:04 AAS
ここ1週間ほどもてあそんでいる考えを、レス代わりにアップします。

オタクとヤンキーの対立が鍵。
しかし、オタクとヤンキーそれぞれが都会と田舎という対立軸を内包していて、そのことが話をややこしくしている。

都会のオタクにとって、最大の味方は都会のヤンキー

田舎のヤンキーと田舎のオタクは同じ思想を共有している
例えば、健全育成思想や純潔思想を共有していて、性教育に対して激しい情緒的拒否反応を示す点でも同じ

しかし、田舎のヤンキーはマンガやアニメ、ゲームというテーマで田舎のオタクを攻撃した。そのため、都会と田舎という対立軸を越えて、オタク同士がまとまってしまった。
省25
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(1): カマヤン 2003/02/05(水)04:47 AAS
>>15  日本人は「オタク」と「ヤンキー」の2種類に分かれる、というのは妥当だと思うです。
以下、宮台先生の人格類型論とか、以前考えた人格分類仮説を参考までにアップしてみます。

   人格類型論
 自分が、ある行為に踏み出せるかどうかは、自己イメージ・セルフイメージによる。それに従い行為がなされる。行為には偶然性偶発性が伴う。前近代的共同体では、行為による結果は決まっていた。「お定まり」の結果が得られた。近代では人それぞれの反応が返ってくるので、偶発性が高くなる。行為によって得られる体験によって、セルフイメージは強化、あるいは変化する。セルフイメージはこのように循環する。

 体験によって生じる期待外れを処理する方法には、15年前に宮台氏が統計したところでは、五種類ある。(参照;『サブカルチャー神話解体』パルコ出版)名称は消費者類型に当てた仮称であり、学問的なものではない。
外部リンク:www.amazon.co.jp

 ミーハー;個別に適切な期待水準を設定する。青山立教系。
 バンカラ;期待水準を高く設定し、期待外れに対しては批判をもって処理する。東大女子に多い。
 ニヒリスト;期待水準を低く設定し、期待外れを回避する。早大系。
 ネクラ;ニヒリストの模倣によって期待外れを回避する。期待外れの生じる領域、対人領域から退却する。
省6
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(1): カマヤン 2003/02/05(水)04:47 AAS
 「ミーハー」「バンカラ」「ニヒリスト」は、自己イメージが高い。「ネクラ」「よりかかり」は自己イメージが低い。自己イメージが低いから模倣という行動になる。
 社会的なもの、社会問題・政治問題へ関心が高いのは、自己イメージの高い人間である。社会的なものへの関心が低いのは、自己イメージの低い人間である。

 80年代は分類の時代だった。一概に「若者は」とは言えなくなったので、分類し若者分布を見ることにより、分類に頷きあうことによって共通の地平を確認しようとした。
 90年代に至り、どのタイプがどういう情報に接するかの偶然の度合いが大きくなり、分布はいっそう不透明になった。
外部リンク[htm]:web.archive.org
 以上、宮台先生の講義から。
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(1): カマヤン 2003/02/05(水)04:48 AAS
 以下、以前書いた私の日記から。
 
 宮台真司氏の人間の五類型の話を編集さんとする。
 調査した時点の消費者類型として五類型は意味があっただろうけれど、「五つ」というところが、ちょっと胡散臭い。二つなら判る。一つの基準で二分するのが区別の基本だからだ。2×2で4類型なら判る。

 こう整理しなおしできるんじゃないか。
 社会への人間の基本態度には、楽観的ガンバリズム(当事者的態度)と悲観的(傍観者的態度)がある。
 オタクは悲観によって現実に耐えようとしている。悲観的になるのは、信用に足る情報を自分が持っていないからだ。自分が持っている情報が信用できず、それゆえ状況に関与できないから、悲観的になる。
 社会にはさまざまな有意義有意味な情報がある。それを得るためには、「興味アンテナ」を立てる必要がある。「興味アンテナ」さえ立っていれば、情報はいくらでも入ってくる。だが、「興味アンテナを立てる」という精神的行動が、非常に困難だ。
 オタクは、アニメやマンガに関する興味アンテナは立っている。だが他のジャンルへの興味アンテナを立てていない。他のジャンルにいる人間も、全てにおいて興味アンテナを立てるのは不可能だ。人が何に興味アンテナを持っているのかは、偶然に左右される。アンテナに受信しないものに対しては、人は傍観者にならざるを得ない。アンテナを素通りするものの多さに自覚的になれば、悲観的にならざるを得ない。
(続く)
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(1): カマヤン 2003/02/05(水)04:49 AAS
 宮台氏の五分類で「バンカラ」に分類される人は、楽観的ガンバリズム(当事者的態度)の人だ。自分の得ている情報に信頼感を持っている。状況に関与していると思っている。だからそれ以外のものに対してアンテナを立てる必要を覚えない。むしろ雑音は当事者には無用だし時に有害だ。「バンカラ」は社会的成功者のモデルだ。なにごとかことを起こすには、楽観的ガンバリズム(当事者的態度)が不可欠だと私は思う。
 宮台氏の五類型で「ミーハー」に分類される「新人類」は、過渡的存在だ(もはやその言葉が死語になっていることからもそれは明らかだと思う)。「バンカラ」社会的成功者モデルになれないから、アンテナを多数立てることでそれを補おうとしている。だが、「予期しない期待外れ」から自由であるわけではない。それが襲ったとき、「正の先決戦略」(楽観的ガンバリズム「バンカラ」当事者的態度)か「負の先決戦略」(悲観的態度。オタク。傍観者的態度)かどちらかの態度を迫られるはずだ。後者の反応の可能性のほうが高いと思う。楽観的になれる理由がないからだ。そして社会はいずこも断片化し、オタク化する。

 …悲観したままでは何もことを起こせない。新しいアンテナを立てようとすること、何事かを継続させようとするには、楽観的ガンバリズムが必要だ。オタクは自閉し退却している。それを克服する、他者とのコミュニケーション能力って、必要だよね、という話を、編集さんとする。
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以上、>>15の参考になるといいかなと思って、アップしてみましたです。
20: あぼーん [あぼーん] あぼーん AAS
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