祭り・習俗と男色 (109レス)
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1: 2008/06/09(月)21:51 AAS
映画『博多っ子純情』は、時には子供扱いされ、時には大人としての白覚を求められる年頃である男子中学生達の生活を、目ざめはじめた性、今だ知らぬ女性の神秘への興味などを中心に描く。長谷川法世の『漫画アクション』に連載中の同名の漫画...
博多山笠の期間中、男子小中学生は20代の若衆の家に泊まりこむらしいですからね。
もちろん泊まるのは各町各流れに参加している若衆の家であって
祭りに参加してない一般の家に泊まりこむわけではない。
各町によって習慣が違うのかも知れないが
 外部リンク[html]:www.nakasu.org

祭りや習俗の中には、若者組・若衆宿など男色との関係がありそうなものがある
情報求む。
2: 2008/06/09(月)21:52 AAS
少年愛って文化なんでしょうかね?
7月になって京都は祇園祭の季節だね。。。
この祇園祭りにも、主役と脇役の二人の稚児が必要です。
その主役は、老舗の店などから募集する11歳の少年がなり、脇役の子は、
その主役の少年の親しい友達がなる、という話だが。
よその地方の祭りでも、「稚児」が主役の祭りは、ちらほらありますね?

日本人は、たいがい「稚児」=美少年 が好き、ということか?

11歳といっても、昔流だから「数え年の11歳」ということで、今では、
小学校4年生か5年生くらいのようです。
3: 2008/06/09(月)21:52 AAS
特に祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。

会長さんが生まれ育った村には、「若衆宿」がありました。

「若衆宿」は今の日本では絶滅してしまいましたが、戦後の一時期まではあったようです。その名残が今では村の「青年団」になっています。

又、「若頭」「組頭」という名称は、今でもやくざの世界に残っています。
薩摩の「郷中」も若衆の発想ですね。

幼児期を脱し母親の手を離れた男の子は、結婚して一人前になるまでの間、若衆組に所属するというのが基本です。
省2
4: 2008/06/09(月)21:53 AAS
播磨の農村では、男の子が13歳になるとオバかそれに近い女性からフンドシを贈られ、それを「フンドシ祝い」と呼んだそうです。フンドシ祝いをして筆下しを済ませた男の子は15歳(数え年)で「若衆宿」に入り、先輩の指導を受けながら夜這いを始めます。
男色もけっこう行なわれていて、男の家へ夜這いすることもあったそうです!

毛が生えるまではふりちんで腹掛けのみを着用させる。
毛が生えたのを確認したら赤褌を締めさせて赤飯で祝う。
若衆宿に入り先輩と二才の契りを結ぶ。
先輩が結婚するとき初めて女郎屋に連れて行ってもらう。
5: 2008/06/10(火)04:57 AAS
凄く興奮しました。。。
おつゆがいっぱいあふれてきちゃって,,,
クリをいじりだしたら止まんなくなっちゃった、、、
もう朝までオナヌィです。。
ここすごくいいです、、、、
もっと続きおねがいしますね。。。
6: 2008/06/21(土)14:49 AAS
地方によっては、性的な習俗が昭和30年代くらいまであったという。

兵庫県加古川地方を中心とした広範な関西地方では、15の成人式が地域で行われ
そこで、夜神社の境内で、松明を焚いた中で、一人ずつ成人〔元服〕した証にあることを
したという。

成人したということは性行為ができること。成人する数え15、万3だから中2位になった
子供たちは、素っ裸になって、大勢の成人の若者が見守る中で土瓶かけというのをさせられる。

勃起したそこに土瓶をかけて境内を歩き、落とさぬこと。勃起はどうしてさせるかは知らない。自分でいじくるのか、手取り足取り教え込まれるのかそこはしらぬが、
まだ毛も満足に生えないすべすべのもの、根元にちょろちょろの者、もうぼうぼうの子、でもみんな
それはついていて、それを一生懸命立ち上げ、勉強のできる子もれ以外なく、ピンと勃ちあげて
土瓶をかけて落とさぬように歩かねばな区、目的地に到達できたら一人前の成人の仲間入りをする。
省1
7: 2008/06/21(土)14:50 AAS
訂正
満13歳
8: 2008/06/21(土)15:00 AAS
またある地域では、「たて矛祭り」というのがあった。
矛とは男根の異名、それを勃てること。数え15になった男の子が、大きな
たて矛のみこしを担ぐ。女の子も見ている前で赤くなる男の子たち・・。

そして終わったあと、みんなの前で自分たちのたて矛を披露させられたかどうかはわからない。
9: <削除> [<削除>] <削除> AAS
<削除>
10: 2008/09/14(日)04:20 AAS
男尻祭もアナルSEXから来ているのでは?
11: 2009/11/11(水)20:44 AAS
日本における「若衆宿」は、近世以前は南方的要素が濃い地域(近畿・中国・四国・九州地方など)には、当たり前のようにあった習慣(組織)である。村社会の男子はある年齢(12歳前後か?)になると、地域の慣習として「若衆宿」という組織に入って、そこで共同体のルール(ときには夜這いのしかたまでも)を学びながら、大人になった。また、自警団的な要素も強く、火事や災害のときの救急隊も「若衆宿」が請け負っていた。自然、村の大人たちも「若衆宿」のリーダーにたいしては、命令もできないし、むしろ敬って接していたらしい。維新の元勲である西郷隆盛が、「郷中」とよばれていた薩摩藩郷士の「若衆宿」のリーダー(お先師)だったことは有名である。大久保利通・大山巌・西郷従道・東郷平八郎なども西郷のいた下加治屋町の「郷中」の出身で、少年時代、その「郷中」のお先師のもとで、さまざまな薫陶を受けた。

 「若衆宿」や「郷中」には、非常に厳しい規律がそれぞれに存在しており、なかでも「先輩」「後輩」の長幼の序がもっとも重んじられた。幕末の薩摩藩士が討幕運動のなかで、お先師とよばれる「郷中」の先輩のことばひとつで、死地に飛び込んでいったことを思えばわかりやすい。では、どうして「若衆宿」の先輩の命令に、後輩(新入会員)は従順だったのだろうか。「それは古俗だから」と断定してしまえば、身も蓋もない。そこには、自分が所属している組織「若衆宿」にたいするプライドやリスペクト、また、自分のすべてをかけて後進を指導していかなければいけない、という強烈な責任感があったのではないか。そうそう単純ではないが、JCには「若衆宿」に通じる要素がたぶんにあると思う。後輩がいうことをきかないのではなく、いうことをきかせられない自分自身に問題があるのだと自省してほしい。
12: 2009/11/11(水)20:48 AAS
「若衆宿」とは10歳前後から夜は村の集会所のような処に泊まり、年長者から成人になる前のいろいろな事を教わる風習。その風習の中で使われる宿泊所。日本の青年団や鹿児島の郷中(ごうちゅう)組織(西郷隆盛は郷中組織の長)がこれにあたる。部族では「狩り」などある部分は長老よりも若衆組織が主導権を握る。
13: 2009/11/11(水)20:58 AAS
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです
14: 2009/11/12(木)20:33 AAS
日本の戦国時代から江戸時代の初期にかけて武士階級の間で男色が流行したことはよく知られていますが、この時代、武士の家に生まれた少年が年長の武士と義兄弟と呼ばれる男色関係をもつのはごく一般的にみられる、ほとんど制度化された習俗でした。
このような「義兄弟」の関係は少年の家族にも公認されるフォーマルな関係で、少年の父親がこれはと思う青年を見込んで自分の息子の兄分になってくれるように頼むことも珍しくなかったといいます。

このような少年と男色関係をもつ武士には女嫌いの傾向が強くみられ、周囲が結婚を勧めてもなかなか結婚しようとせず、40過ぎになってようやく子供を作るために結婚するというケースが多かったそうです。

また民族学者の赤松啓介氏によると、男色が盛んであった九州地方では、少年がフンドシを締めて成人男子の仲間入りをする「フンドシ祝い」で、熟年の男や壮年の男が「フンドシ親」となり、少年にフンドシを贈った夜に少年と性関係をもち、義理の親子になる習慣があったそうです。

これなんか、まさに前述したニューギニアの部族でみられる「尻穴親子」の関係そのものです。

さらにかっての日本では、西日本を中心に「フンドシ祝い」を終えた少年が「若衆宿」に入って、年上の若者と寝起きをともにしながら、一人前の男になるための実地の教育・訓練を受ける風習が存在しました。
薩摩地方ではこの若衆宿のことを「郷中」と呼び、郷中のメンバーは7歳から14、5歳までの「稚児」(ちご)と呼ばれる元服前の少年と、14、5歳から24、5歳までの「二才」(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの若者の二つのグループで構成され、稚児と二才は男色関係を通じて強い絆で結ばれていたといいます。
省2
15: 2009/11/12(木)20:37 AAS
褌 の 風 俗 雑 記 帳 
私の幼年時代の風習で、男の子が小学校にあがると、若衆小屋という所で合宿生活を半ば強制的に参加させられ中学に上がる六年間に、みっちりと上下関係が仕込まれ、まず「元服親」が決められます。これは血のつながりがない、村の住人から決められた人と義理の親子関係の契りを結びます。これは義理の親が死ぬまで関係が続き、祝儀、不祝儀には親戚なみの付き合いをします。その親が死ぬと棺桶を先導して担いだりします。それだけに元服親との関係は深いものがあります。私にも田舎には義理の親がおります。その元服式には、その義理の母親が縫った越中褌が贈られ、普通はそれから越中褌を本当の成人式まで締めつづけるのですが、私はその前から越中褌を着用していました。この親のことを別の地方では「褌親」「へこ親」(へこは方言で褌のこと)、「鳥帽子親」ともいいます。また、私は今年前厄を迎えますが、現在では残念ながら前記の「元服親(褌祝い)」も、自分の田舎でも行なわれていないのが現状です。しかし所によっては前厄になった男性に、処女が縫った越中褌を贈り厄が開けるまで締めつづける風習も残っています。 もし、私の故郷に褌祝の風習が今も残っていれば、前厄の私に「褌親」が村の女性にお願いして、越中褌が届くはずです。だれか私に赤い越中を縫ってくれる女性はいませんかねぇ。話題は変りますが、最近見つけた本に、昔の旅人は山賊に襲われたときの用心に、越中褌の紐の部分に粒銀(昔のお金ですね)入れていたそうです。身包みはがされても褌までははがされなかったようですから、現在海外旅行の必帯アイテムのシークレットベルトといったところでしょうか?。
 外部リンク[html]:blogs.yahoo.co.jp

成 人 の 祝 い

●若衆入りする年になると、播州あたりでは「ヘコ祝い」というのをした。若衆入りの前日というムラもあるし、誕生日というムラもあったが、どちらにしても始めてフンドシをするわけで、それを祝って赤飯、御神酒などを供え、親類、友人などを招いて祝いをする。それで「フンドシイワイ」というムラも多いし、フンドシの代わりに「ヘコオビ」を贈るムラもあった。このフンドシを贈るのは母方の姉妹からもらうのがよいというムラが多く、たいてい白布一反を贈ってくる。それを三宝にのせて床に祭り、紙幣、神酒などを供え、終わってからフンドシに作った。しかしムラによると、私の調査では播磨、摂津、丹波の国境地帯の山村に多かったのだが、若衆入りした息子に白サラシ一反に、米一升とか、紅白の餅とか、酒一升とか、ところによって違うが、それを持って母方の姉妹、それがないと父方の姉妹、それもないとムラの適当な家の女房にフンドシ始めを頼んでいる。頼まれた家では、だいたい女房だけを残して他の者は外出した。そこで訪ねてきた若衆は女房に白布を渡すと、女は白布ですぐフンドシを造り、裸にしてフンドシをしめてやり、締め方などの使い方を教えてやって、祝いの盃を差すというのが、だいたいの式次第になっている。しかし白布一反では余るから、フンドシを二巻作ってやる家もあるし、余った布で女の腰巻きを作るというムラもあった。ただしフンドシにも本式のシメコミと、略式の越中があり、古くは本式、だんだん略式に変わり、後にはフンドシもしなくなり、祝いもなくなってしまう。
●大阪あたりの商家になると、元服の階層性が極めて明確になり、盛大なフンドシ始め、マワシイワイをする家もあった。ヒイキのスモントリ(力士)招き、シメコミをさせるわけで、芸妓、幇間の賑やかな騒ぎのうちに行われる。あるいはソイブシする芸妓が、始めてしめてやるのもあり、フンドシもサラシなどでなく、緋縮緬の豪華ななものになるよう。
●ある山国の、更に奥の山村では、正月の四日とか八日とかの晩、十三か十五になつた息子に母親がフンドシをしめてやり、かつ性技を伝授したそうだ。オバサンが伝授するというのは諸地方にあるが、母親というのは珍しい。
  外部リンク[html]:blogs.yahoo.co.jp
16: 2009/11/12(木)20:38 AAS
江戸時代中期まで、男の結婚適齢期は40歳代だった...という記述には驚きました。
結婚は子孫を残す為にすることで、精神的(肉体的も含む場合が多かった)な人と人との交わりは、男性同士が普通のことだったらしいです。

「褌祝い」という行事についても、精通があった男子に「褌」を与えて締め方を教える行事...といだけでなく、「....九州地方ではフンドシ祝いに、熟年の男や壮年の男がフンドシ親となり、少年にフンドシを贈った日、あるいはその夜に性関係をもち、義親子、義兄弟になる地方が多いらしい....」あたりの記述には、興味深いものがあります。

結婚適齢年齢が若年化するにつれ、同時期に男の髭も少なくなったらしいです。
髭男は成熟した男らしさの象徴であったので、若くして妻帯するようになってから、男は髭を蓄えることが少なくなった...なんとなく納得できますね。
  外部リンク[html]:www14.plala.or.jp
17: 2009/11/13(金)22:05 AAS
清水寺は山の上にあって、お参りするためには参道を登っていかなければならないのですが、若者たちが参道を行く娘を襲ってレイプする習慣もあって、これを「娘かつぎ」と呼んだそうです。

娘を「かつぐ」ために、若い男3人くらいでグループを組んで、やはり2、3人のグループで歩いている娘たちを見つけて近づいていって「一緒に登ろう」と誘うのだそうです。

娘たちは、「イヤッ」とかいって逃げるので、それを追いかけて行って、逃げ遅れた娘を一人、捕まえて、2人が娘の上半身を抱え、もう1人が下半身を抱えて山林の中まで運んでいってレイプしたそうですが、最初のうちは暴れていても胸や下半身を触られると大抵、おとなしくなったといいます。

娘を輪姦したあとは、先に逃げた娘たちが待っているところまで送ってやったそうですが、よくあることなので、逃げた娘たちも派手に騒ぎ立てることはなかったそうです。

このほかに若者たちが集団で少年をもてあそぶ「稚児かつぎ」というのもあったそうですが、これは大正時代までは盛んに行なわれていたものの、昭和に入ってからはほとんど見られなくなったそうです。
省4
18: 2009/11/17(火)20:21 AAS
アザンデ族の少年妻
南スーダンに住むアザンデ族は、かっていくつかの侯国に分かれて、互いに覇を競っていました。
各侯国は、若い独身者で構成される軍団を常備軍として抱えていて、軍団に属する若い戦士たちは、軍役に就いている間、一時的に妻としての役割を果たす少年と結婚する習慣がありました。戦士は少年と結婚するとき、若い娘と結婚するときと同様に、妻となる少年の両親に「花嫁代」として5、6本の槍を贈り、娘と結婚したときと同じように、少年の両親には義理の父、あるいは義理の母として接したといいます。

少年妻は、夫のために水を汲み、焚き火を集め、料理の支度をし、行軍のときには夫の楯を持ち、夜は夫と一緒に寝て、その性的欲望を満たしました。
セックスの体位は、戦士の夫が自分のペニスを少年妻の太ももの間に挿入する、いわゆる「素股」がメインで、少年妻の方は自分のペニスが夫の腹部にこすれる快感だけで満足しなければならなかったそうです。
アザンデ族の若い戦士が少年と結婚するようになったのは、戦場に同行するには女性よりも少年が向いていることに加えて、

古代ギリシャや日本の戦国時代と同様、年上の戦士との精神的、肉体的な密接な関係を通じて、少年に一人前の戦士になるための心構えを学ばせるという、教育的な目的もあったと考えられます。少年妻の年齢は12、3歳から20歳位までで、青年に成長すると、妻としての役割を終えて一人前の戦士になりました。
外部リンク:jack4afric.exblog.jp
19: 変態おまんこ 2009/12/05(土)21:07 AAS
女性と女性でのエッチって気持ちよいです。

外部リンク:blogs.dion.ne.jp
20: yuka 2009/12/26(土)20:09 AAS
悩み事・解決

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