賎のおだまき・武家の時代の男色 (185レス)
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21
(2): 2008/05/28(水)20:54 AAS
>>20

地図: 適当に拡大すると「古井」の下あたりに「三五郎塚」がでてくる。
(馬立ー古井線の古井の地図で左下あたり)

 JR財部駅ー馬立(財部南郵便局)−・・古井

外部リンク:map.yahoo.co.jp
22: 2008/05/28(水)22:52 AAS
男色の盛んな薩摩は、明治に入ってから新政府軍と戦った、これを「西南の役」という。明治10年に起こった、日本最大最後の内戦だ。熊本の激戦地田原坂に「田原坂の美少年」の像があるが、薩摩は今の中学生くらいのたくさんの少年が参戦した。当然、「男色の契り」があったのだろう。
また、これら少年が捕虜にされたりした場合、美童がどういう目に合うか想像に難くない。上記会員制ホモ雑誌「緑園」にはそうした三五郎の危難みたいな物語が載っていて興奮させられた。
23
(4): 2008/05/29(木)19:48 AAS
AA省
24: 2008/05/29(木)20:17 AAS
江戸時代武家の間での男色(美童愛)は一般的だが、特に激しかったところとして、薩摩・土佐・会津が言われる。元服前の少年武士が年長者から愛を求められたら、つまり今で言えば強制わいせつ行為・肉体を求められたら、受けなければならないのはおきて。これが「年長者に従う」ということ。もし愛(契り)を求められて拒否されたら、その子の家に押しかけてでも、親がいてもその場で犯してもいい、つまり肛門姦による強姦していいとされたという。そのため婦女はもちろん他の男と交わることも禁止。このあたりが抜けてしまう。
25: 2008/05/29(木)20:23 AAS
昭和24年まで、年齢は「かぞえ」だった。生まれるとすぐ一歳で、正月でプラス一歳、つまり12月31日生まれは、正月には二歳。したがって少なくとも一歳何ヶ月か多い。3chで、沖縄のドラマに神木くんがでてて、かなり年長になってたがまだ中学生くらいか?。せいぜいそのくらいの少年たちが主体で、アノドラマは顔もきつすぎ、少年ではない。私は途中で見るのをやめた。
15-17歳とは、満でいえば13歳何ヶ月から、15歳何ヶ月、中学から高校生くらい。実際は、13,4歳(数え)もいたというからずっと低いはず。
26: 2008/05/29(木)21:25 AAS
礫川 全次「歴史民俗学叢書 男色の民俗学」批評社2003
  外部リンク[html]:www.hanmoto.com
27: 2008/05/30(金)19:42 AAS
>>23

財部駅はなにもないので、都城駅よりタクシーかレンタカーがよい。
28: 2008/05/31(土)15:34 AAS
>>23
まず拠点は馬立・南財部郵便局へ
 そこから図で上(白い道)・・古井方向へ

  南財部郵便局  (財部町南俣5058−5)
   外部リンク[php]:www.jp-network.japanpost.jp
29
(1): 2008/05/31(土)17:36 AAS
三五郎塚

 外部リンク:www.mapion.co.jp
 (前にhを付けること)
30: 2008/05/31(土)19:24 AAS
>>29
三五郎塚写真

 画像リンク[jpg]:blog-imgs-14.fc2.com
31: 2008/06/01(日)09:49 AAS
郷中制度(ごちゅう制度)は、明治以後、昭和もあったというが、一番すごく最後まであったのは国分
地方だという。・
32: 2008/06/01(日)09:55 AAS
薩摩はホモ王国だった??

 外部リンク[htm]:www.mmjp.or.jp
33: 2008/06/03(火)20:28 AAS
薩摩の男色の一番強固なところとして、出水(いずみ)地方があげられる。現在の出水市のあたりである。そして、強いものとして天下に知れ渡った「出水兵児」(いずみへこ)がある。
出水を中心とした薩摩の「兵児二才(へこにせ)」という青年団組織で、兵児二才とは士族の若者の集会で、薄化粧した少年を「稚児様」と呼び、それを中心に青年たちが毎夕集会して学習や武技を練り、またいろいろの年中行事を行なった。この兵児二才は西南戦争頃まで存続していたが、その後は新しい青年団に改められた。
  外部リンク[htm]:www.hpmix.com

 「稚児様は…… 郷中の名門の嫡男で12〜13歳の特に美貌の少年2名を選んで美服を着せ薄化粧させ、この稚児様を集会の中心として尊敬し、それに奉仕することをもって各種行事の中心とした。」戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。

「出水兵児」の「兵児(へこ)」とは青少年のことで、数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び、それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」、30歳までを「中老」と、3つに区分していました。兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。

外部リンク:www.amazon.co.jp
外部リンク[html]:hugo-sb.way-nifty.com
34: 2008/06/03(火)21:48 AAS
賤のおだまき    国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 外部リンク[html]:kindai.ndl.go.jp
 こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8
35: 2008/06/03(火)22:05 AAS
・薩摩藩
薩摩の人口25〜30パーセントが武士。維新の中心的な担い手。薩摩藩のみ江戸時代末期まで郷中学校という武士の息子たちのための学校教育が実施されていた。漢文と武道(と男色!)をそこで学ぶ。
  外部リンク[html]:flower.seesaa.net
36: 2008/06/06(金)20:27 AAS
郷中では、「うそを言うな」、「負けるな」、「弱い者をいじめるな」の3原則があったといわれています。郷中制度のような優れた組織には、優良企業にすばらしい経営理念があるように、すぐれた教育理念があったのでしょうね。それが上記の3原則を包括した、島津日新公「いろは歌」であるといわれています。「いろは歌」は、稚児の頃から全員合唱して暗誦させられ、薩摩武士の魂の奥底まで深くしみこんだものとなっていたようです。・・
  外部リンク[html]:www5f.biglobe.ne.jp

このように、たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士の制度といえるでしょう。今で言えばJr.に於ける《児童虐待》と同じなのです。
37: 2008/06/08(日)07:55 AAS
>>21

外部リンク:www.mapion.co.jp
38: 2008/06/09(月)20:38 AAS
三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収(平凡社1974))
外部リンク[pdf]:tdl.libra.titech.ac.jp
39: 2008/06/09(月)21:55 AAS
◎ 『甲子夜話』その三 (「へこ組」&小咄)

<正編十八巻の(二十七)>
 以前は薩摩にへこ組といって、党を結び男伊達をする士がいた。その大略を言えば、この組に入る者は、行状を守ること僧のごとく、まず夙に(早朝に)起きて書を会読し、夜は寝るまで弓矢を射て、婦女に近づくことを禁じている。もし途中で女に会っても、諦視(じっと見つめる)すれば大いに咎めて自害させる。さらにこれを難ずる者がいれば、泡盛酒を多く飲ませ、酔いつぶれたところで枕を払えば、頭が下がって即死する。このようにして先約を罰し、幾年という期限が過ぎれば、組を出て平常の士行に還るという。
 婦女を禁ずるのはかくのごとしと言えども、男色を求め、美少年に随従し、ほとんど主人のようだ、とある人が話していた。
40: 2008/06/10(火)21:17 AAS
外部リンク[htm]:www.androphile.org
外部リンク[html]:www.androphile.org
外部リンク[htm]:www.androphile.org
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