賎のおだまき・武家の時代の男色 (185レス)
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1: 2008/05/20(火)20:40 AAS
森鴎外「イタセクスアリス」に出てくる、明治時代、薩摩の寮で硬派の学生が毎年、正月には
第一に読むという男色読み物です。「男色」とは美童愛のこと。
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(1): 2008/05/20(火)20:42 AAS
「小姓」といって映画で殿様の側で刀をささげ持つ前髪の少年、今では薹のたった男だったり、ひどいのは女がやっていたり、たいてい前髪でも無いが、昭和40年代位 までのテレビでは、12、3のそれはほれぼれするくらい美しく凛々しい中学1年か小学6年生位 の少年(「美童」という)の前髪姿だった。これも「男色」といって少年性愛の形で少なくとも肛門性交は欠かせない。このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は小姓組みを組織し沢山の美童を抱ていた。美童は最大の賄賂のようなものだったようだ。役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。 男の子のからだを捧げるまさしく花嫁みたいなもの。
3代家光、5代綱吉などは特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の小姓、数え13歳でお座直しとなる。この時、家光17歳。丁度、旧制中学1年生と5年生の年頃。5代将軍にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、一節切りもどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして契りあう。
 柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
 花咲一夫「江戸の蔭間茶屋]     三樹書房1982
 平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
 樋口清之「史実 江戸」      芳賀書店 1967
 稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
 南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
[五代将軍」など南條範男はこうした男色小説を沢山書いているので見られたい。明治時代森鴎外の小説「イタセクスアリス」に、鹿児島の熟などでは、平田三五郎という「少年」のことを書いた写 本をまわし読みする事が、元旦の習わしになっているという、男色という。平田三五郎という13歳の美童のことを書いた「賎(しず)のおだまき」という本で、 明治20年精文社版、大正5年文教社版がある。(「賎(しず)のだまき考」1998) 平田三五郎のことは、山田美妙の新体詩「少年姿」でも取り上げられている。
省3
3: 2008/05/20(火)20:42 AAS
念者と念友の義兄弟の契を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」
4: 2008/05/20(火)20:43 AAS
「一節切(ひとよぎり)」というのを、知ってますか、尺八が間に2節の竹製の楽器にたいし、一節切というのは、あまり聞かないが、間に1節つまり尺八の長さ3分の2の、尺八より一回り小さい笛で、昔はよくあったようです。現在尺八といえばフェラチオのことですが、「一節切」というのは、男色で美童のモノを吹くこと。つまり一回り小さい美童のモノが、それでも、残酷にも、口の中で恥ずかしいだろうに、精いっぱい膨らみ竹のように固く立ち上がっている様です。「柳腰」とは、現在、女の細い腰の意味に使われているが、あれは、元々男色で、「細くて、しなやかで、ピチピチした、12、3ー4の少年の腰(尻)つき」を愛でた言葉。男色にも女色と同じ屈曲位 など37かの体位があったそうです。閨房で、帯を解かれ素っ裸に剥かれた、肛門性交するためワンワンスタイルで組み敷かれた美童の突き出したお尻を、「五代将軍」を読みながら、想い描いてみてください。その細くて、すべすべして、しなやかな尻つき、それを柳腰というのです。美童は手で前を愛撫され固くさせられながら、後ろに入れられます。これを契りといいます。器官は違うがもう女と同じです、契る美童は生娘(処女)ならぬ 生童でなければならないのです。そのために三五郎は刀を抜いて抵抗しようとしたのに、その手を押さえつけられ、いよいよ強姦されそうになり、涙ぐむのです。
5: 2008/05/20(火)20:44 AAS
大蔵は、10歳下の美童の盛りの少年が今にも強姦の危難を救った。すがりつく三五郎を振り切ってその場を去りました。三五郎が強姦されるのを、手助けすることも、見物する事も出来たはずです。男が去った後、すがり付く三五郎をひしと抱き抱え帯に手をかける事も出来たでしょう。しかしそうしなかった。そのため互いに頂点まで恋焦がれた。彼は三五郎の家に行って迎えられ、そこで夢にまで描いた義兄弟の契を結んだのです。それは10歳年下の少女を初夜の儀式をとりおこなうというかそれ以上の意味があります。
23歳の大蔵は13歳の三五郎が二人の男の乱暴から脇差し抜いて守ろうとした帯をやさしく解くのです。三五郎も、大蔵さんならと、許すのです。想いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌とは、帯を解くの解くと、雪が解けるの解くをかけたもので、帯を解き雪の肌、・・雪の腿、雪の下腹、お尻・・が現れる様を見事に表現しているのでしょう。それは今や少年花嫁のように、大蔵の専用となって愛撫を待っているのです。
6: 2008/05/20(火)20:45 AAS
春の雨の雨音だけの、寝静まった寝所で梅の馨のする美童・三五郎をひしと抱き寄せ、誰も触れられなかった処も想う存分愛撫し、三五郎も愛撫を受けいれ、愛撫にもだえたことでしょう。一節切もしてもらい 、大蔵の口をいっぱいにしたことだろう、そして契りといって肛門で結びあったのです。実は、稲垣足穂の「少年愛の美学」によると、こういう事は、明治時代に入っても、旧制中学特に、男色の盛んな薩摩などでは、「少年狩り」、「稚児狩り」などがあって、少年が男色の強姦・輪姦をされたりしたという。小学校の美童が中学に進学すると、だれだれは何処の中学に進学したとか伝わり、待ち伏せしたりして犯したりしたという。中学校でも稚児狩りがあり、美童は狙われたという、狙われしょつちゅう強姦されるのがいいか、それとも特定の上級生の「お稚児さん」となって保護されるしかなかったという。勿論「稚児」になるということは、特定の上級生と肉体の契をし、いつもそれをするかわりに他のものから保護されることを意味した。つまり俺の稚児に手を出すなということ。
7: 2008/05/20(火)20:46 AAS
解剖の小説でも、一つの形です。1年とか2年の美童が解剖されてしまう。そして部長に助けられる。でも解剖はもう終わってしまって、精液を吹き出してしまった後。生えかけたばかりの陰毛をぬ らし初めての精通。部長がはいってきて手足の紐をほどいてくれる。大好きで片思いの先輩にそんな姿をみられてしまい恥ずかしいが、先輩は慰めるようにやさしく手足の紐を解いてくれ、精液のたれた性器を拭ってパンツをはかしてくれる。1年生の少年はそのどうにもならない気持ちを部長を言うため、誰もいない放課後の部室を訪ねる。部長は、こんなことはよくあることで、君が美少年だからほっておかずされたんだよ、実は僕も1年生のときされたということ、君が美少年で何処の部にはいるか皆で賭けををしていたこと。自分の部に入ってくれて大変うれしかったこと、他の部の人から、「おまえいいなうまくやってるんだろう」。といわれ羨ましがられていたこと、僕も本当は君が好きで、こんなことになるんだったら、もっとはやく手をつけておけばよかったとおもうということ、片思いの先輩にそう告白され、思わず先輩の胸に飛び込み、そして泣きじゃくる。先輩は泣きじゃくる彼を固く抱きしめてあげる。そしてしばらくそうしてから、「いいね」の一言に、1年生がウンとうなずき、先輩の手がズボンのバンドに伸びる、そしてパンツも。解剖のときは散々抵抗したのに、「先輩だったら」とパンツに手が懸かっても、ビクとしただけで受け入れ、愛撫の指にもだえる・・、解剖の時と違ってやさしい先輩の愛撫の指の中で膨らんでいく・・。そして互いに相手のに手を添え相互自慰で互いに指の中に持ち・・・互いの手の中に射精。
8: 2008/05/20(火)20:47 AAS
契りは陸軍幼年学校(13歳で入試、全寮制)の寮で70年の伝統として行われていたという。その時1年生は痛さに涙を流すが、声を出してはいけないのだそうです。寮は1年から3年まで二人ずつ計6人、3年生(今の高一)両隅、2年生は真ん中、1年生は2年生と3年生の間に一人ずつ、1年生を愛でるのは3年の特権、3年生は1年生を稚児とし、契を結ぶ権利を持つ、2年生は2年生同志結び合う、幼年学校では自慰は禁止、精液の付いたパンツを洗っていたりすると咎められるという。自慰をしないと夢精してしまいパンツを汚すのだが、そこはよく出来たもので、上級生に捧げて処理してもらうのはいい。1年生は3年生の愛撫にでそうになリ、シーツを汚したら大変とってこまっていると3年生が、俺の口に出せと口に入れられ、一節切で初めてのものを飲み込まれる。このようにして誰とでも出来ない形で肛門で結び会い、互いに相手の体から愛撫の結果 絶調で出た精液を自分の身体の中に採り容れ、戦場での結束を深めるのは信長の時代と同じ。
9: 2008/05/20(火)20:48 AAS
秀才だった鴎外は飛び試験で、13歳で大学予備門に入学、他にも何人かいた。20前後のヒゲモジャの中に美童三五郎と同じ13歳の「少年」が何人か、寮では、客が来ると、少年を捕まえて献上したりしたという。13歳の鴎外も何回も襲われそうになり懐に短刀を忍ばせる。13歳がねらわれるのは、今も同じで、少年の場合一番性被害に遭う年頃は13才とのこと。東京オリンピック当時、少年ばかりを狙う少年通 り魔事件があった。新聞にはあちこちでの類似事件を敏感に報道して関連を調べていたころだ。映画帰りの中学1年生がナイフを突きつけられ道端の草むらに引き摺り込まれていたずらされた。夜帰宅途中の中学生がいたずらされたなどとある中に、未遂もあり、未遂の場合、手口を詳しく報道している、これらは別 の犯人らしいが、小金井では中学1年13歳の少年が、近くの雑貨店で買い物をして返る途中、30位 の男に呼び止められ、この辺に誰誰の家はあるかと聞かれ、知らないと答えると、ナイフを突きつけられ近くの玉 川上水の堤の上に連れていかれた。そこで男は、バンドをはずそうとした利するので抵抗すると、ナイフ出切りつけられ、上水に落とされた、流れは急だったが泳いで這い上がり近所の人に助けられたという。バンドをはずとはどういうことかわかる。
10: 2008/05/20(火)20:49 AAS
13歳の少年はナイフを突きつけられても、そんなこといやと必死で抵抗した事だろう。幸いこの少年は手に怪我をしたが未遂に終わった。しかし映画帰りの少年も、必死で抵抗したはず、でもさみしい深夜の街灯も暗い道端で、叫べども誰も助けにくるものもなく、深い雑草の生えた広大な草むらに連れ込まれ、嫌がるのを無理矢理バンドをはずされたりして、いいようにされたのだろうか。
電車の中の痴漢には、少年を専門に狙う痴漢もいるという。そういうわけで、バンコクだかの少年市場のこともうなずける。
11: 2008/05/20(火)23:27 AAS
武士の男色に憧れてます

外部リンク[cgi]:www.megabbs.com
12: 2008/05/20(火)23:34 AAS
ぱぱずっきん 男色文学の世界  「賎のおだまき」など

外部リンク[html]:homepage2.nifty.com
13: 2008/05/22(木)20:43 AAS
薩摩には鎌倉、室町から続く武士道的男色が残っていた。藩士となる若者達は地域毎に「二才(にせ)」と「稚児」に分けられる。二才とは元服から妻帯までの14〜20代半ばの青年、稚児は元服以前の少年を指した。稚児を指導するのが二才の立場であり、稚児は他の地域の二才と接する事は禁じられた。女性についてはもってのほかで、「道の向こうに女が見えたら、穢れが移るから避けるべき」という教えが普及していた。二才と稚児が男色の関係になったのは、ごく当然の成り行きと言えるだろう。幕末の英雄である西郷隆盛も、とある僧と関係を持っていたらしい。「九州男児」といえば男らしい事の代名詞だが、確かに当時の薩摩は男らしかった。
この薩摩に負けず男色が一般的だった、といわれるのが土佐である。武士の少年であれば、男色の契りの意味を知らぬ者はいなかったという。もし男色を拒む少年がいたとすると、年上の者が徒党を組んで家に押しかけ、少年を捕まえて強引に犯した。隣室に父母兄弟がいても一切構わず、また家族達も見て見ぬふりをした。恐ろしい話である。

明治維新が起きて薩摩の人間が東京へと流れ込むと、一部で男色ブームが吹き荒れる。それは学校。特に全寮制の男子校で盛んであったようだ。大人気となったのが『三五郎物語(しずのおだまき)』という本。薩摩藩士吉田大蔵と美少年吉田三五郎の情事が描かれていて、男色道におけるバイブルであった。異性の事で頭がいっぱいの生徒は軟派、少年愛を好む生徒は硬派。入学してきた美少年は、硬派に体を狙われる運命にあった。その影響は学校の外にも現れ、街で容姿の良い少年が姿を消すと、真っ先に疑われたのが「男色好きの書生による誘惑拉致」であったという。そういった事を体験したり見聞した事は森鴎外『ヰタ・セクスアリス』をはじめ、徳富蘆花『蘆花日記』、川端康成の記録に見られる。また里見紝は「少年時代、志賀直哉に惚れていた」と後に述懐している。
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(1): 2008/05/22(木)20:52 AAS
なお、「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。
実在の人物で財部町に「平田三五郎の墓」があって町の記念物になっているようだ。

ほかにもたくさんあったでしょう。
15: 2008/05/24(土)11:17 AAS
この時代の「男色」を描いた「五代将軍」の南條範夫によると、五代将軍吉宗は、何十人も抱えていた12,3〜4の小姓たちのために専用の御殿・桐御殿というのを
造ってそこに集めて夜の勤め・「夜伽」の待機をさせた。

「桐御殿」にはいることを「お座直し」といった。「小姓」が「夜伽」の命をおし使って「寵童」となる、つまり殿様の「閨房」に侍し肉体を捧げること、寵童となることを
「お座直し」というようになった。
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(1): 2008/05/27(火)20:04 AAS
>>14
平田三五郎の墓(財部町史跡28)
鹿児島県曽於郡財部町古井(曽於市財部)にある。
 (古井(こい)は、JR日豊本線北俣駅より「中間トンネル」を抜けて大峰川を越えて「馬立」バス停、南郵便局に行く途中の十字路あたり。
  ただし交通は観光課に確認のこと。)

  
  実在の人物で、それぞれ子孫が墓参りしているという。

  財部郷土館には、平田三五郎の掛軸(絵)が展示されている。
17: 2008/05/27(火)20:05 AAS
鹿児島県人でない人が薩摩を見た記録に「薩摩見聞記」がある。明治22(1889)年から3年間、宮之城に教員として赴任した旧長岡藩士・本富(ほんぶ)安四郎が書いたもの。
そのなかで、明治中期の薩摩人の風俗として「美少年の事」が書かれている。いわゆる男色、衆道のことである。
 「美少年の事は是れ封建時代の蛮風」としながら、美少年の稚児が振り袖を着せられて二才(にせ)たちに護衛され、彼のために二才たちが日中は日傘を差し、夜は寝ずの番をするさまが描かれている。これが明治中期の出来事だというから驚きである。薩摩武士の間で衆道がいかに根強かったかがうかがわれる。
 また同書には、二才たちの間で「賤(しず)のおだまき」が愛読されていることも書かれている。琵琶法師のつま弾きが平田三五郎の名を呼ぶくだりでは、聴く者みな一斉に「チェストー」と叫んだとある。
 それほど二才たちを興奮させる平田三五郎とは何者か。年配の方はご存じかもしれない。
 「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と、文武両道に秀でた吉田大蔵(おおくら)清家(清盛ともいう)の男同士の愛の契りの物語
 
 外部リンク[php]:373news.com
 外部リンク[html]:www.hayato.com
 外部リンク[pdf]:www.shiki-net.com
18: 2008/05/27(火)20:06 AAS
平田三五郎の掛軸(財部郷土館)
 外部リンク[html]:www.ker.co.jp
19: 2008/05/27(火)20:12 AAS
>>18
財部郷土館HPより

 平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において戦死した人で、相当の美少年であったらしい。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられた事件である。庄内地方を領有していた北郷時久は、宮之城へ移封となり、代わりに肝属地方を領有していた伊集院幸侃(こうかん)が入庄して来た。伊集院方の勢力拡張に危機感を持った島津と伊集院の戦いは結局、島津方が鎮圧した。
 財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。三五郎は「赤き鉢巻きに女郎花(おみなえし)を折て笄(こうがい:かんざしの意)にした」とあり、目立つ出で立ちであった。三五郎と兄貴分の吉田清家のことを記した「賎(しず)之麻玉記」という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。

 桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。

 (15歳・・数えだから満では13歳か)
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(1): 2008/05/28(水)20:47 AAS
>>16
平田三五郎の墓(三五郎塚)
 鹿児島県曾於市財部町古井

JR日豊本線財部駅下車 10号線で財部南郵便局がある馬立を目指す。

馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った
左前方、先の古井十字路まで行かない手前で左にはいる。

(東九州自動車道では 末吉財部IC)
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