今年10月スタートNHK朝ドラのスレッド (70レス)
今年10月スタートNHK朝ドラのスレッド http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/
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13: 名無しさんは見た? [] 秋のNHKテレビ小説「てるてる家族」の製作発表 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20030415ic24.htm NHK大阪放送局は15日、9月29日から始まる朝の連続テレビ小説「てる てる家族」の製作発表をした。原作はなかにし礼さんの「てるてる坊主の照子 さん」。 昭和30、40年代の大阪府池田市を舞台に、肝っ玉母さんとパン店経営の父 が4人姉妹を育て上げる“なにわの若草物語”。ヒロインの末っ子、岩田冬子 役の女優、石原さとみさん(16)はパン職人を目指す役に「一緒に成長して いきたい」と話した。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/13
14: 名無しさんは見た? [] NHK朝ドラのヒロインに新人女優・石原さとみさん http://www.mainichi.co.jp/entertainments/geinou/0304/16-01.html 今秋から始まるNHK大阪放送局制作の連続テレビ小説は、なかにし礼さんの 小説「てるてる坊主の照子さん」を大森寿美男さんが脚本化した「てるてる家 族」に決まった。ヒロインは東京都出身の新人女優、石原さとみさん(16) =写真。同放送局が15日発表した。 昭和30〜40年代の大阪府池田市が舞台。パン店や喫茶店を経営しながら、 4人の娘を育てていく岩田照子と家族の夢と幸せを、ヒロインの末娘、冬子の 視点から明るく描く。石原さんは公開中の映画「わたしのグランパ」でデビュ ー。オーディションで2036人の中から選ばれた。【西村浩一】 (毎日新聞2003年4月16日東京朝刊から) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/14
15: 名無しさんは見た? [] 石原さとみNHK朝ドラヒロイン http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/apr/o20030415_20.htm 今秋スタートの次期NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」の制作発表が 15日、ヒロインに選ばれた女優・石原さとみ(16)=写真=と、原作者の なかにし礼さん(64)が出席して大阪市内の同局で行われた。 なかにし礼さん原作「てるてる家族」 次期NHK朝の連続テレビ小説のヒロインに選ばれ、初々しい笑顔を見せる石 原さとみ。原作はなかにしさんの小説「てるてる坊主の照子さん」。なかにし さんの妻・由利子さん(歌手・いしだあゆみの妹)の実家をモデルに、昭和 30、40年代の大阪でたくましく生きる家族の姿を描く。 応募者2036人の中からヒロイン・岩田冬子役を射止めた石原は、公開中の 映画「わたしのグランパ」でデビューしたばかり。大役に「うれしいよりびっ くりの方が大きい」と初々しくあいさつ。東京生まれの東京育ちだが「大阪弁 はかっこよくてあこがれがあった。1日も早く関西人になりたい」と意欲をの ぞかせていた。 なかにしさんは「冬子像としては完ぺき。将来が楽しみな原石」と石原を絶賛。 制作統括の若泉久朗チーフプロデューサー(42)によると、いしだの出演や、 いしだが出場した紅白歌合戦の映像使用も検討中。なかにしさんが作詞した当 時のヒット曲などもふんだんに取り入れるという。また、母・照子さん役に浅 野ゆう子、父・春男さん役に岸谷五朗が内定している。 ◆石原さとみ(いしはら・さとみ) 1986年12月24日、東京都生まれ。16歳。ホリプロスカウトキャラバ ン・ピュアーガール2002でグランプリに。現在公開中の映画「わたしのグ ランパ」のヒロイン役でデビュー。NHKでは3月25日放送の脚本懸賞ドラ マ「窓を開けたら」で主役を務めた。特技は6歳から始めた琴。クラシックバ レエ、バスケットボール、テニスの経験も。身長157センチ、B82・ W57・H82センチ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/15
16: 名無しさんは見た? [] TBS系「きみはペット」石原さとみの漣ドラ体験記 http://www.tbs.co.jp/kimipe/satomi.htm 第1話 初めての連ドラ撮影初日を終えて… 本当に緊張した!! 映画とは少し違う感じがした。撮影の進行が早く感じた。 初シーンはモダンダンスを踊っているシーン。難しかった。 あと、衣装がもう可愛すぎ。 ダンス着も制服もどっちも好き。 私の演じる渋沢ルミは勝気で物事をハッキリ言うタイプ。 少し自分の性格に似ている部分があるかも…。 だからこそどれくらいルミを自分のものに出来るか 不安でもあり 楽しみです。よしっ頑張ろう!! http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/16
17: 名無しさんは見た? [] 15年度後期 連続テレビ小説「てるてる家族」の制作・ヒロイン発表 http://www.nhk.or.jp/osaka/guide/teruteru.html 今年9月29日(月)から放送する連続テレビ小説『てるてる家族』の制作・ ヒロイン発表が、4月15日(火)に大阪放送局で行われました。 連続テレビ小説69作目、大阪局制作では27作目の『てるてる家族』は、昭 和30年・40年代の大阪を舞台に、パン屋を営みながら4人の娘たちを見事 に育てていく肝っ玉母さんと家族の夢と笑いと涙で描いたホームドラマで、末 っ子であるヒロイン・岩田冬子の視点から、その成長とともに豊かに描きます。 原作は、直木賞作家・なかにし礼さんの「てるてる坊主の照子さん」。大阪府 池田市で生まれ育った、俳優のいしだあゆみさん一家をモデルに4人の姉妹が 成長していく姿をユーモアたっぷりに描いた作品です。脚本は、史上最年少で 向田邦子賞を受賞した大森寿美男さんが担当します。 ヒロイン・岩田冬子を演じるのは、2,036人の応募者の中から選ばれた石原さと みさん。東京生まれの高校2年生で映画「わたしのグランパ」のヒロインで芸 能界デビューしたフレッシュな16歳です。 石原さんは発表の前日の14日に電話でヒロイン決定を告げられたばかりにも 関わらず、「何色にも染められる、真っ白で聡明な女優になりたい」とその年 齢からは想像できない大きな気概を、マスコミ関係者の前で披露しました。 収録は6月に大阪府池田市と長崎県佐世保市のロケーションでクランクインし ます。スタジオ収録も6月下旬からの予定です。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/17
18: 名無しさんは見た? [] 石原さとみ16歳、初々しい笑顔で… 次期NHK朝ドラのヒロイン http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2003_04/g2003041905.html 次期NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」(9月29日スタート、月− 金曜前8・15)のヒロインに決まった女優、石原さとみ(16)が18日、 東京・渋谷区の同局で会見した。 戦後の大阪を舞台に家族愛を描いたホームコメディー。東京都出身で「関西弁 は使ったことないんですが、一生懸命頑張りたい」と初々しい笑顔でガッツポ ーズをきめていた。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/18
19: 名無しさんは見た? [] 次期朝ドラ主演の石原さとみが会見 http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-030418-0017.html NHKの次期朝ドラ「てるてる家族」(9月29日スタート、月〜土曜午前8 時15分)のヒロイン石原さとみ(16)が18日、東京・渋谷の同局で会見 を行った。物語は女優いしだあゆみ(54)の4姉妹をモデルに、大阪・池田 のパン屋の家族を描く。四女冬子を演じる石原は「ヒロイン発表会見の前夜に 抜てきされたことを聞き、事務所のみんなとハイタッチしました。台本に自分 の名前を見つけ、この役をやるんだとうれしくなってきました。関西弁の面白 さがどこまで生かせるか分かりませんが、頑張ろうと思います」と語った。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/19
20: 名無しさんは見た? [] ぴいぷる「石原さとみ」スカウトキャラバン出身のラッキーガール 映画主演デビューから「大金星」まで http://www.zakzak.co.jp/we/people/people.html 大ベテランからも、やさしく… 初仕事が映画のヒロイン。しかも相手役は大物、菅原文太。だが、ものおじす ることなく、伸び伸びと演じた。 「働いている人の数が想像以上だったのでビックリしました。でも、スタッフ の人に機材の一つひとつを『これは何ですか?』って聞きまくったら、みんな ニコニコ教えてくれて楽しかったです。菅原さんも怖いかと思ったけど、すぐ 『珠ちゃん』って呼んでくれて、ホッとしました」 昨年の「第27回ホリプロスカウトキャラバン」で、3万を超える少女の頂点 に立つグランプリを獲得した。そして「もれなくついてくる特典」で、現在公 開中の映画「私のグランパ」(東陽一監督、原作・筒井康隆)の主人公、五代 珠子役に起用された。 珠子は、優しい両親とおばあちゃんの4人家族で平凡な生活を送っている中学 1年生。ある日、13年間、刑務所に入っていた祖父・五代謙三(菅原文太) が帰ってきたところから物語は始まる。ムショ帰りのおじいちゃん(=グラン パ)の時代がかった振る舞いに戸惑っていた珠子だが、街のみんなから愛され ていくグランパの生き方に次第に心を通わせていく、というストーリーだ。 「珠子は、責任感や正義感も強くて、もう“尊敬!!”って感じです。私は反 省して落ち込むタイプなんですけど、心はヘコんでも顔は笑って、みたいなと ころもありますから、そういう性格は一緒ですね」 “いらだちながらも感情を表に出すのは抑えようとするしっかりした少女”の 表情を的確に作れる16歳は、ほかにちょっと思いつかない。東監督も「カン がいい子。撮影入りして5日後にはもう、文太さんと張り合う演技をしていた」 と舌を巻く。 男の子とは…話すの苦手 撮影は約1カ月。ラストの、珠子が川に裸足で入り、物語を回想するシーンは ロケの終盤で撮られたもの。そこに映し出される彼女自身の成長ぶりには目を 見張らされた。 「私にとっても一番好きなシーンです。自分で成長したのがよく分かるから」 明るくハキハキとした口調。ただ、男の子としゃべるのは、ちょっぴり「苦手」 らしく、「だって、何を話していいか分からないじゃないですか…」とはにか んだ。 女優は中1のころからの夢だったという。 「中3のとき母親に打ち明けました。そしたら反対されてしまって…。でもあ きらめきれずに言い続けていたら、『これに落ちたらあきらめなさい』といわ れスカウトキャラバンへの応募することになりました。最初で最後のチャンス だったんです」 目標は「聡明(そうめい)な女優」 「演技派と呼ばれたいですね。イメージの偏らない、どんな役が来てもきちん と演じられるような…。そう、色で言えば“白”みたいな…」 このさわやかさが、評価されてか、9月からはNHKの朝の連続テレビ小説 「てるてる家族」のヒロインにも抜擢された。この笑顔ももうすぐ全国区であ る。 Profile いしはら・さとみ 本名・石神国子。1986年12月24日、東京生まれ、16歳。「第27回 ホリプロタレントスカウトキャラバンピュアガール2002」でグランプリ獲 得。今年1月からオンエアされた「J−PHONE」のCMで注目を集めた。 映画デビュー作「私のグランパ」(5日から全国ロードショー)に続き、16 日から始まる連続ドラマ「君はペット」(TBS系、水曜午後10時)にも出 演する。趣味・特技はクラシックバレエ、ピップホップダンス、お琴、ピアノ、 バスケットボール、テニスと多彩。身長157センチ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/20
21: 名無しさんは見た? [sage] Figure Skate Web Magazine KISS & CRY 岡本治子コーチ http://homepage3.nifty.com/skate/iokamoto.html 一家の4姉妹のうち長女がフィギュアスケートのオリンピック選手、次女が紅白にも出場 した大スターが誕生した。信じられないような話だが実際あった話なのだ。その実話を題 材にして、なかにし礼がその一家の母を主人公にして「てるてる坊主の照子さん」という 小説を書き、帝国劇場で舞台化もされ話題を集めている。 そのモデルとなったのは次女の大スターの方は現在も女優として活躍中のいしだあゆみ。 そして長女のほうが1968年のグルノーブルオリンピックに出場した石田治子である。 その後石田治子は選手引退後結婚して岡本治子となり、今もインストラクターとしてス ケートを指導している。世界選手権出場した小林れい子、世界ジュニア選手権3位になった 柏原由起子、青谷いずみ、柏木深幸などの日本トップスケーターを育てるといった実績を もったコーチなのである。そんな岡本治子コーチに戦後まもなくのスケート環境や選手時 代の心境、インストラクターになってからの思いなどを新年早々、赤裸々に語っていただ いた。 ―あの小説の中で赤ちゃんだった夏子(いしだあゆみ)がペニシリンで助かるところ、そ れからスケートのシーンは全部好きなのです。モデルとしては複雑な気分ですか? 岡本:なんか変な気持ちというかちょっと照れくさいような重はゆいような感じです。実 はこの小説を最後まで全部読みきってないのですが、小説というのは全くその通り書いて なくて、おもしろおかしく誇張して書いてあるところや変えてあるところもありますよね。 読んだ人はそのままストレートに受け取ると思うからちょっとなんか照れくさいなと思う ところもありますね。本音を言えば。 ―小説では事実と違う部分などもあるのでしょうか? 岡本:そうですねー。私は小説を最後まできちんと読んでないのですけれどもスケートの 成績などは記録通りに書いてありますね。しかし子供時代は確かにお金持ちでいいお家の お嬢様ばかりスケートをしていましたけど、だからと言って私達は別に何も感じたりしな かった。お母さんがこわくて必死につき進んでたというだけで・・・。まあそこが小説だ から「苦労物語」っぽく書いてあると思います。またそう書かないと小説として面白くな いだろうしね。 ―当時のスケート・シーンはあの小説のような雰囲気だったのですか?日曜日にぎわった り、関東からコーチと生徒が滑りにきたり・・・。 岡本:それは本当で日曜日は人ですごかった。あの当時は娯楽というものがまず少なかっ たので梅田のリンクはにぎわっていました。ほんとリンクで滑走する人の円が二重くらい になっていましたね。関東からは確か夏に関東のリンクが全部閉鎖されているということ で関東から全員コーチやその生徒さんが来ていました。 ―ではお母様が経営されていたリンク内の喫茶店も大繁盛だったのでは? 岡本:まあ土日はかなり忙しかったみたいですね。平日は私達の休憩場所になってました けど(笑) ―スケートを始めたきっかけは小説どおりだったのですか? 岡本:そうですね。リンク内の喫茶店を経営している母について毎日行くようになりまし た。春休みや夏休み毎日滑るようになってくると上手くなってきてわりと進歩が目に見え たので「先生に習おうか」というので始めました。当時は今ほどスケートの競技人口も少 なかったし、スケート教室などもなかったのでちょっとやれば上手になったように思えた というのもあると思います。 ―当時は外国からスケート靴は取り寄せていたそうですが、今のものと違いますか? 岡本:靴は日本製でしたが、いいタイツが日本になかったのでアメリカからダンスキンの タイツなんか取り寄せてましたね。ダンスキンのタイツは試合だけで練習時は普通のタイ ツを使って、今と違って本当に大事にタイツを使っていました。破けたらまた繕って使う という感じで、あの当時は普通のストッキングとか修繕してくれるお店があったのでそこ に出してまた履いたりしていました。 ―コスチュームなどはどうされていましたか? 岡本:スケートをやりだした子供の頃の練習着は母が作っていましたが、試合着はそうも いかないから洋裁店の方に作っていただいたりしていました。大学時代にアメリカからス トレッチする素材が入ってきましたが、それまではストレッチの素材などはなくて伸びな い洋服などの生地にマチをいれてもらったりしてましたね。今考えるとよくあんなので滑 ってたなーなんて思いますが(笑)。でもこの頃はお母さん達もプロ顔負けぐらい上手に 作られますよね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/21
22: 名無しさんは見た? [sage] ―学校との両立は大変でしたか?当時の一日のスケジュールを教えて下さい。 岡本:まず学校終わったらすぐ練習に行っていました。試合前などは早退もよくしました ね。早退してリンクに行ったほうがリンクが空いてたので。高校生ぐらいから毎日貸切で 早朝練習などをしていましたが、それまではまだそこまでするものだという認識はみんな なかったように思います。小学生の頃から遠足、林間学校、修学旅行などはすべて休んで 練習していましたね。夏休みは7、8時間練習していたのと違うかなー。営業が始まる前 に朝の貸切で2時間くらいやってそのまま営業がはじまってずーっとえんえんと滑っていま したね。当時神戸に深江のリンクというのがあって、そこだけが朝の貸切が7時ぐらいから 始まっていたのでよく行きました。もう今でも覚えているけどとても寒いリンクでねー。 (笑)行くまでの道も遠くて寒かったからあれだけは身にしみて覚えています。だからお 勉強の方はあまりしなかったですねー(笑)。しなかったというより、もう(スケートの 試合や練習のために)それだけ授業抜けると勉強もわからなくなってくるしねー。 ― お母さんという存在はスケートをする上でも大きかったですか? 岡本:はじめは大きかったですね。初めはほんとに母が自分の夢を子供に託している感じ ですごい勢いだったから。あと稲田先生(オリンピックを最年少で出場し10位という成 績を残した名スケーター、当時のカリスマインストラクターであった)すごい強烈なコー チだったから、母親と先生が「こわい」という一心でやっていたという記憶しかないです ねー。 ―いつ頃からご自分で「スケートを頑張ろう。」と自覚されるようになったのですか? 岡本:たしか高校2年か3年ぐらいだったと思います。中学生ぐらいが一番ぐずぐずしてた と思います。というのは中学2年ぐらいの時に一回肝臓を悪くして3ヶ月入院して一シーズ ン休んでたから。やはり一年間休むとなかなか取り戻せないし、年齢的にも一番難しい時 期だったということもあって、今から思えば2,3年はすっきりしなくてぐずぐずしてた のと違うかしら。で高校2年か3年のある時、何かの拍子になぜかわからないけれど「あ、 こんな事していてもだめやわ。」と思って、まあとりあえず「何かやらなあかん」と思い 練習に取り組みました。それからはほんとに親に言われるからではなくて自分で一生懸命 練習しました。また当時は今みたいにいいスケートのインストラクターが豊富にいなかっ たということもあって上手い人を見て自分が出来ない事は「どうしたらできるだろう?」 と真似ながらやったという事もありました。 ―当時稲田コーチからはどの様なレッスンを受けていたのですか? 岡本:中学生くらいまでは東京から稲田先生が来られるというときには3日前ぐらいから 「はあー」とため息をもらしてました。その「はあー」という意味は「つらい、こわい」 という二つ意味でした。稲田先生がいらっしゃると一日中練習で本当に毎日あざだらけに なって筋肉痛でトイレにもしゃがめないくらい練習させられましたから。それがあったか ら上手くなったとは思います。中学生ぐらいになると東京にも年間営業しているリンクが できて稲田先生は大阪に来られなくなったので、私が夏休みなど東京にレッスンを受けに 行っていました。東京に行ったときは稲田先生のお家にも泊まらせていただいたりもしま した。先生はとにかく用意が早くて私は当時用意がおそい方でしたから置いていかれるこ ともあって、早朝など暗がりの道を一人で歩くのがこわかったので、置いていかれないよ うにみんなより早く起きて布団の上でタイツなどを履いていたことを思い出します。今私 の用意が早いのも稲田先生のおかげだと思うのですが(笑) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/22
23: 名無しさんは見た? [sage] ―姉妹スケーターと言えばクワンや浅田姉妹なども浮かびますが、お互いいい刺激になり ましたか?妹たちは姉の目からみて、どういうタイプのスケーターだったのですか? 岡本:私達の場合はそんな事はなかったですねー。2番目のすぐ下の妹(いしだあゆみ) はもう小学6年生ぐらいで芸能界に入ったので一緒にスケートをやっていた時代というの は4年間ぐらいだったので・・・。3番目の妹(三女、美恵子さん)は中学生からスケー トを初めて当時は3級ぐらいでも国体に出場できて、その程度だったからあんまり刺激を 受けたということはないです。3番目はどうというレベルのスケーターではなかったです けど、2番目(いしだあゆみ)は器用でなんでもすぐ出来ましたね。私はどちらかと言う と不器用で何回もしないと出来ないほうだったのですが・・・。ただ2番目は朝早く起きる のがすごく苦手だったみたい。朝はなかなか起きてこないのよー。(笑)そのせいで「あ んまりスケートは好きと違う」と言ってますが・・・。だから体質的にもスケートはあま り合わなかったかもしれないですね。 ―妹のいしだあゆみさんが関西ジュニア選手権で優勝されたが出場年齢に達していなかっ たのでオープン参加で賞をもらえなかったという話が小説に載っていますがー 岡本:あれはみなさんに言っておかなくてはいけないと思うのですがあの話は本当にあっ たことですが、だからと言ってそれが原因で妹はスケートを辞めたわけではないです。あ の当時、全日本は7級さえとれば誰でも出場できましたが、ジュニアは年齢制限があって妹 はまだその年齢に達してなかったのでオープン参加でした。その試合では点数が出たので 自分が何番くらいにいるかということはわかって、妹もまだ小学4年生ぐらいだったので 「なんで私がもらえないの」と泣いていたのは覚えています。しかしそれは一時のことで あってそれを承知で出場していたわけですからそれが原因でスケートを辞めたわけではな いです。その後たまたま芸能界に入るということが決まったので辞めることになったわけ です。 ―スケートのどこが好きだったのでしょうか? 岡本:うーん。選手の頃はあまり好きじゃなかったですねー。自分で自覚を持って練習を 始めたときも「苦しかった」ですね。「苦しかった」というのは「辞めたいな」という苦 しさではなくてとりあえず「一生懸命練習しよう」という苦しさで・・・。ですが、でき たら「逃げたいな」とは思っていましたねー。大学2年の頃からしんどいなりに楽しさを 見つけた気はします。練習はきつかったけど海外試合に出たりしてそういう楽しさも覚え て10のうち8苦しくても2は楽しいというような感じで癒されたと思います。教えてか らの方が「充実感」みたいなのはありましたね。選手の時にやり足らなかったような事を やってみたいというのがあって、自分の夢を託すというのがあり、夢に向けて一生懸命突 っ走ったという感じですね。 ―お母さんの五輪への思いがともかく強かったようですが、実際にそうだったのですか? 岡本:それはやっぱりねー。どのスポーツしても目指すところはまず「オリンピック」と 言いますよね。それは本当の最終目標であって、「オリンピック」と言う言葉は口に出さ なかったけど小学生の頃の私に対する母のプレッシャーはすごかったですよね。今のソフ トなお母さんという感じはなくて当時の厳しいお母さんという感じでずーっと練習を見張 っていました。それは私達だけではなく当時のトップ選手の親御さんたちはみんなそうで した。久美子ちゃん(佐藤有香さんの母親、佐藤久美子コーチ)のお父さんもチチローも 顔負けぐらいすごかったし・・・。スケートというのは親も熱心でないとできないスポー ツで今の親御さん達も熱心ですよね。そうではあるのだけれどもあのときの時代背景とい うことでさらに強烈でしたね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/23
24: 名無しさんは見た? [sage] ―お父さんはスケートをする事に対して協力的でしたか? 岡本:小説やテレビなどではすごく物わかりのいい父親になってますでしょ(笑)ですが 実は(スケートをする事に対して)すごく反対していましたね。中学校くらいまでは賛成 でなかったし、妹が芸能界に行くことも賛成でなかったです。しかしうちの母親は人の言 うことを聞くタイプとは違うので。母は母なりに自分の夢があってそれを子供に託したの だと思います。 ― 選手の頃、一番うれしかったことは何ですか? 岡本:うれしかった事は二つあって一つ目は「自分でできるだけやろう」と思って頑張りだ して全日本でそれなりにいい成績を納めることができて、当時の全日本ではその年一番努 力した形跡が見えた選手に「努力賞」という賞が与えられて、その「努力賞」を自分がも らった時に「あ、やっぱりやったらできるんだ」と思ってうれしかった事。二つ目は最後 の大学4年の時にオリンピックがあって出場することができたこと。どちらにしても大学 4年で選手は辞めると思っていたから「あー、引退の時にオリンピックに出ることができて、 最後きちんと締めくくりができてよかったなー」と思いました。今になってその当時のビ デオを見て「あー、自分があのオリンピック出たのだなー」と初めて思い、「やっぱりオ リンピック出るのと出ないのとでは大きな違いやなー、自分の財産として残るなー」と思 ったことは事実です。 ―当時の国際試合、ユニバーシアード、ジュニア選手権や五輪の雰囲気、思い出を聞かせ て下さい。 岡本:今になって思うに五輪はもっと楽しめたらよかったのになーと思いますねー。あの ときは開会式が始まる前の日にコンパルソリーの試合があって、開会式があった次の日く らいに女子フィギュアの大会終わってしまったんですね。それから閉会式までいたのです けど、今と違ってスキーとかいろんな競技を見に行かせてもらえなかった。そうは言って も若いからそれなりには楽しんいでましたが、今になってあの雰囲気をもっと味わかった なーとは思います。あと昔の国際試合のバンケットはすごかったですねー。私が出た国際 大会がヨーロッパばかりだったということもありますが、晩餐会のような雰囲気でとても 華やかに行われていました。すごいきれいなホテルのボールルームなんかで招待状には 「ドレスを着てくるように」とか書かれてイブニングドレスを着たりして・・・。ペギー ・フレミングもドレス着ててきれいでした。もうそれを見ているだけで楽しかったですね。 私達も見よう見まねでドレスを仕立ててもらってそれを着ていくのが楽しみだった。その 後教えていた生徒が出場した国際大会のバンケットにそのつもりで出席して、だいぶ傾向 が変わって随分ラフな格好になったなーと思ったことがあります。スイスのダボスで行わ れた世界選手権の時はスイスのダボス会議も開かれたスイスの超一流ホテルに泊まってい て、そこがもう素晴らしくて今でもその景色覚えていますね。もう「絵はがきよりきれい!」 と思いましたものね。泊まっている人もヨーロッパの超一流マダムばかりで部屋から下の レストランに降りてくるだけでミンクのストールとか着てくるし、食事中は必ず生バンド は入るし「あー、こんな世界もあるのだなー」と思って楽しかったです。 ―スケートのインストラクターをしようと思ったきっかけは? 岡本:現役選手を辞めて「さあ、何する」となったとき、それまではジャッジになったり する人もいたけれどもその当時はインストラクターもそんなに数もいなかったのでなんと なくするとしたらスケートのインストラクターかなーと思ってやり始めました。「大選手 を育成したい」とかそういう大それた理由はなかったのだけれどもやり出したらガーッと のめりこみましたね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/24
25: 名無しさんは見た? [sage] ―インストラクターとして今はどういうスケジュールで動いてますか? 岡本:昔は(10年くらい前)までは毎日早朝から晩まで働いてましたねー。あれだけ働い たら体悪くするのかしらと思うくらい。今は生徒も5人ぐらいでリンクに毎日行っている というのではなく、だいたい何曜日の何時くらいから決めてもらって 個人個人にスケジ ュールを聞いてその希望の時間にレッスンするといった感じです。 ―スケート関係者ではよく自分のお子さんにもスケートをさせられる方が多いように思う のですが、(岡本先生2男1女)息子さんやお嬢さんスケートをさせようとは思いません でしたか? 岡本:スケートをさせるというよりスケート場に連れてもいかなかったですね。私は先生 の子供がスケートをすると、まず親としたら絶対自分の子に目が行くと思いますし、それ とやっぱり先生の子供ということで周りがちやほやしてくれるのがいやだった。それまで にそういう例を見ていたからそういう風にしてもらうと私も気を使うし、子供の為にもよ くないと思ったから・・・。基本的には最初から自分の子供にスケートをさせたくなかっ たし、スケートの大変さもわかっているからねー。もし才能がなかったら地獄やないのー (笑) ―インストラクターとして何を教えたいのか、心がけている点は? 岡本:そうですねー。私もれいこちゃん(小林れいこ選手、世界選手権出場)を教え始め た頃は若さもあったからただ夢中で「いい成績をとってもらって、自分の思っているとこ ろに引っ張っていきたい」と突っ走してましたね。そしてだんだんいろんなお弟子さんを 見てインストラクターとして勉強していくこともあったのだけれども、今度は自分がする んじゃなくて相手を納得させないといけないし、その親御さんも納得させないといけない というので時代が変わってくるとそれに応じて感覚のズレも感じてきました。ただ私が今 でも思ってるし、悩んだこともあるけれども、やっぱり試合では一番になる人は一人で十 番になる人もいるし、全員がどれかにならないとダメなわけです。思わない成績になった ら最近の人の方が親も子もガマンができない人が多い。「それ(成績)だけじゃないです よ。」と言ってもそれを理解できる人が少なくなってきたと思います。たかがスケート教 室であっても月謝払っているからすべて満足いくように権利を主張される方がいますが、 やっぱりいやな事でもその子の今後のことを考えてこの頃は言うようにしてます。そうい うことを言っておけば今はわかってもらえなくても後になっていつかわかってくれるとき があるかもしれない。だからそれはそれでいいかなとは思っています。例えば教室でも6 年生ぐらいになっているのにまだ親がスケート靴をはかしているんですよ。だから「自分 で靴を履くのは時間がかかると思います。けれども、何も氷で一時間半滑らないと損とい うのではない。初めは紐がほどけて何回も結び直しに行かないといけないと思う。でも自 分でやらないといつまでたっても結べるようにならない。そら親御さんが履かした方が早 いし、紐もほどけないと思う。紐がほどけて何回も結び直しにいって練習時間がロスした ように思われるかもしれませんが、こっちの方が結局子供さんのスケートをうまくするよ りももっと大事なことと私は思うからそうして下さい。」と言いました。この頃そういう 事を教えたいなーと思っています。昔から教えた選手と親御さんにこれだけは言っていま す。「スケートさえできたら『あとは何もできなくてもいい』という事はないですよ。」 と。スケートをやる時間というのは人生のほんの何年かの間ですからその後それが役に立 って価値のあるものにならないと何の意味もない。せっかくそこまでのお金と時間、情熱 を費やしてきたものを無駄にしてしまうように私は思うのです。ですからこんな事いうと 自慢にもならないかもしれないけれど(笑)うちから引退した子はいろんな方面で活躍し ているけれども、わりときっちりとしている子が多いと思います。思い返してみて選手の 時は選手として、コーチになってからはまたコーチとしていろいろ勉強させてもらったな ーと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/25
26: 名無しさんは見た? [sage] まだ岡本先生をよく知らないときのこと。ご自身はオリンピック出場、しかも当時は日 本のトップ選手を指導し、その上いしだあゆみのお姉さんということで美しく、とても近 寄りがたい存在でクールな印象を受けた。ところがである。私のコーチの先生が岡本先生 であった(いわゆる私は岡本先生の孫弟子だったわけである)ということからレッスンし ていただく機会があり、そのイメージは完全に打ち砕かれる。とても厳しくハードなのだ が温かみのある熱いレッスンをして下さった。カラッとしたちゃきちゃきの関西人でレッ スンが熱くなればなるほど言葉が関西弁になっていき、それがまた厳しいレッスン中でも 場を和ませ、明るい雰囲気になるのだった。先生のレッスンには何か「ついていきたい」 と思わせるものがあった。それがなぜだかわからなかったが、それが先生の人格だと思っ ていた。今回インタビューで先生と多くの言葉を交わしていくうちに、それがなぜだか少 しだけわかったような気がする。 今後もその明るいキャラクターで選手達にいつまでもスケート、そしてスケート以外の 大切なことも指導して欲しいと思わずにはいられない。(インタビュー・文 今川知子) <岡本治子のプロフィール> 昭和20年11月16日生まれ 趣味 読書 小学3年生からスケートを始める <主な大会成績> 1964年 全日本フリー選手権 3位 1965年〜67年 冬季国体 優勝 1966年 ユニバーシアード冬季大会(トリノ) 5位 1966年、67年 全日本選手権 3位 1968年 グルノーブル五輪 出場 1968年 世界選手権(スイス) 出場 1968年 ユニバーシアード冬季大会 4位(インスブルック) <主な指導歴> 1976年〜1979年 全日本選手権 2位(小林 れい子) 1980年 〃 優勝( 〃 ) 1980年、81年 世界選手権 出場( 〃 ) 1987年 全日本選手権 3位(柏原 由紀子) 他に全日本ジュニア選手権 優勝(青谷いずみ、柏原由紀子)、世界ジュニア選手権 3位 (柏原由紀子)などの指導歴を持つ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/26
27: 名無しさんは見た? [] 上原多香子がNHK朝ドラ出演 http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-030424-0027.html 今秋スタートの次期NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」の主な配役 が24日、大阪市内で発表され、女優いしだあゆみ(54)をモデルとした二 女夏子役には、元SPEEDの上原多香子(20)が決まった。同ドラマは、 直木賞作家なかにし礼氏の「てるてる坊主の照子さん」が原作。いしだが育っ た実家の4姉妹を描き、母役には朝ドラ初レギュラーの浅野ゆう子(42)。 フィギュアスケートで五輪出場を目指す長女役には、昨秋、宝塚歌劇団を退団 した元雪組娘役トップの紺野まひる(26)が本格ドラマに初挑戦する。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/27
28: 名無しさんは見た? [] 平成15年度後期 連続テレビ小説 てるてる家族 かって、明日を夢みてみんなが元気だった時代が日本にもあった レトロな時代のたくましい家族力(パワー)がいま甦る ヒロイン・冬子は大阪・池田の四姉妹の末っ子 娘たちの才能を引き出す奇蹟の才能の持主、母・照子 期待に応えて見事に開花していく四人の娘たちと 製パン店を営み家族を優しく見つめる父・春男 それぞれの夢ではちきれそうな家族が駆け抜ける 昭和30・40年代の大阪 「てるてる家族」は、毎朝、必ず あなたを明るく元気に照らします! NHK大阪放送局 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/28
29: 名無しさんは見た? [] 【企画意図】 連続テレビ小説69作目の「てるてる家族」は昭和30・40年代の 大阪を舞台にたくましい家族の夢と幸せを明るく描きます。 原作は「てるてる坊主の照子さん」(なかにし礼 作) いま、家族の意味があらためて問われています。豊かさで物があふれ便利になった代償と して、根源的な家族の絆が希薄になっています。かつて昭和30年代、社会が右肩上がり で高度成長していくなかで、人々は貧しいけれども明日を夢見て元気でした。このドラマ の母親・照子はどんな時にも明るく夢に向かって邁進します。そのパワーはあかんたれ亭 主・春男を盛り立て、四人の娘たちの才能を開花させていきます。 おかあちゃんは強い!そしてエライ! 戦後何もない時代に、まずは食べることからと大阪の池田市でパン屋を始めた家族は、や がてテレビ付き喫茶店で大当たりします。そして母親の夢を背負って、末娘の冬子はパン 作りに幸せを見いだしていきます。さらに、長女・春子はフィギュアスケートのオリンピ ック選手に、次女・夏子はスター歌手にと奇蹟が実現していきます。 四人の娘たちを見事に育てていく肝っ玉母さんと家族の夢と笑いと涙の日常を、ヒロイン の冬子の視点からその成長とともに豊に描きます。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/29
30: 名無しさんは見た? [] <みどころ> ◆幸せのイースト菌 パンの耳から創作パンまで。冬子がくり出すヒットパン。 そしてイースト菌のように人と人の愛を発酵させる幸せの錬金術。 ◆明るい“家族力” 家族ニオかるどんな難問も楽天的にのりこえる家族の団結力。 ◆なにわの若草物語 ヒロイン・冬子はパン作り。長女はフィギュアスケートのオリンピック選手、次女はスタ ー歌手、三女はインスタントラーメン開発。 冬子を中心に描く四姉妹の夢と恋模様。 ◆テレビ50年。テレビと歩む家族の昭和史。 街頭テレビからカラー放送そして次女の紅白出場まで、流行歌で彩る家族の日誌。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/30
31: 名無しさんは見た? [] ◇◇◇ヒロイン発表◇◇◇ ヒロイン「岩田冬子」を演じるのは、2036人の応募者から選ばれた 石原さとみ(いしはらさとみ・16歳) みずみずしい感性とピュアなういういしさ、そして聡明な輝き。無限の可能性を秘めたダ イヤモンドの原石。 「中学の時から女優になりたかった」。その夢を実現し、昨年夏に芸能活動を始めたばか り。小学校のころはクラシックバレエとバスケットボール、中学の時は部活動のテニスと ヒップホップダンスに熱中した行動派。特技は6才から続けているお琴。 これまでの枠におさまらない新しいドラマを担う逸材です。 ・・・・・ Profile・・・・・ 東京都出身。1986年12月24日生まれ。ホリプロのタレントスカウトキャラバン・ ピュアガール2002のグランプリ。映画「わたしのグランパ」でデビュー。NHKでは 脚本懸賞ドラマ「窓を開けたら」で主役を演じた。 役柄・岩田冬子 岩田冬子は、周囲を笑わせ、場を明るくする天才。冬子の「じゃべくり」と「いちびり (ふざけること)」にかかると、家族みんなが腹を抱えて笑い出す。底抜けに明るく、じ っとしていられない性格は母・照子ゆずり。慎重に悪戯を計画してもすぐばれてしまうの は、父・春男ゆずり。成長するにつれ、傾きかけた家業のパン屋を建て直すべく、パン作 りに幸せを見出します。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/31
32: 名無しさんは見た? [] 【原作のことば】 なかにし礼(なかにし れい) 「夢まっしぐら」 人間の能力というものは天から与えられたものだろうか。むろんそれもあるだろうが、そ れだけだろうか。そんな疑問を抱きつつ私は「てるてる坊主の照子さん」を書きつづけて いた。人間はなぜ、進化するのだろうと。 人は誰も一人ではなにもできない。 耳を澄ませば、太古の昔から延々とつづいてきた命が脈打つ心臓の音が聞こえる。そして あたりを見れば、自分の存在を支えるありとあらゆるものが目に飛び込んでくる。人間は もともと宇宙的な存在なのだ。だから人間は、宇宙という永遠なるものを感じた時、なに ごとかをなしたいと思い、またなにごとかをなせるのだろう。 家族は小さな宇宙である。宇宙なればこそ、夫婦、親子、兄弟姉妹のエネルギーが化学変 化を起こし、素晴らしい爆発をもたらす。 その爆発は、終戦後から高度成長期に至る、日本中が夢まっしぐらに生きていた時代に起 きた。照子さんと岩田家の家族の肖像はたぶん、あの頃の日本を写したポートレートにち がいない。 私の小説は大森寿美男さんの名脚本を得てNHK朝の連続テレビ小説『てるてる家族』に なった。家族という宇宙がもたらす魂の結合の神秘を、あの時代の風景とともにどうぞお 楽しみください。 ・・・・・ Profile・・・・・ 1938年中国黒龍江省牡丹江市生まれ。立教大学在学中からシャンソンの訳詞を手がけ、 作詞家として活躍。「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で日本レコード大賞を3 回、その他、同作詩賞、ゴールデンアロー賞、日本作詩大賞など受賞歴多数。他にも、 「知りたくないの」「恋の奴隷」「花の首飾り」など多くのヒット曲を手がけ、その数は 4千曲に上る。作家となってからは、2000年に「長崎ぶらぶら節」で第122回直木 賞受賞。「兄弟」「赤い月」などすべての作品が映画化、ドラマ化されている。NHKで は「赤い月」がFMシアター(2002年)で放送された。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/2195/1045841427/32
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