[過去ログ] 戦国ちょっといい話50 (890レス)
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1: 2022/01/31(月)12:30 ID:H6kEBq4H(1/2) AAS
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

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2: 2022/01/31(月)12:35 ID:H6kEBq4H(2/2) AAS
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった。

豊薩合戦の際、島津兵庫頭義弘は、その甥である島津中務大輔豊久をして使いを遣わし、
彼に降伏することを説いたが、惟定はこれを聴かなかった。
豊久は再び使いを還し、利を以てこれを誘ったが、惟定はこの使いを斬って大友宗麟に
二心無きことを示した。豊久は怒り、多兵を以てこれを攻めた。

惟定は使いを斬ってから、豊久が必ず来襲することを慮り、その策臣である山田土佐入道匡徳と計り、
伏兵を置いてこれを待った。
先ず、徒歩の者を三ヶ所に置き、一見深く隠しているようにして、少しばかりその形成が顕れるようにした。
豊久は斥候を以て探索し、三ヶ所の伏兵を発見し、直ぐにこれを攻撃した。

三ヶ所の伏兵たちは、惟定が兼ねて命じていたとおりに、攻撃を受けると急ぎ走って逃げ去った。
省12
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(1): 2022/01/31(月)13:46 ID:7kjVdDgC(1) AAS
戦国期、西国は騎兵使わない戦闘が多いと聞くが、この物語だと騎兵使ってるのね
4: 2022/02/01(火)11:53 ID:0R86Oyf4(1) AAS
>>3
お前バカだろ
5: 2022/02/01(火)15:04 ID:xV9ZeLdD(1) AAS
三本の矢
6: 2022/02/04(金)00:55 ID:93vQYRHj(1) AAS
豊後の臼杵に、吉田一祐という者があった。力は片手で百斤(60kg)を挙げても重いとも思わず、
鎧は銃弾が穿つことも出来ないほど厚いものを着し、二尺七寸(約81cm)の腰刀、一尺八寸(約54cm)の
短刀は、それぞれ厚さ三寸半(約10cm:本文ママ)に作り、刃は蛤貝の耳の如くであり、挟み抜いて
これを振るに、竹を振るよりも軽々としていた。

ある年、薩摩の軍が豊後を攻めた時、味方が敗走した。これに一祐は怒り、声を上げて逃げる味方を
叱咤し励ましたがなお止まず、そこで一祐は彼等より先に走り退いて、土橋の前に来ると、
自身の三間柄(約5.5?)の鑓を横たえ、土橋を渡ろうとする味方を推し留めようとした。

鑓の柄の所まで逃げ掛って来た者が三、四十人。一祐は鑓の柄を握り、鎧の胸に当て、
「曳け!」という声とともに推し還すと、三、四十人の者達は後ろ足に成って推し還されること
二十歩ばかりであった。一祐は大声で呼びかけた
省6
7: 2022/02/04(金)16:12 ID:Sgzo+aMq(1) AAS
クソ食い民族
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
8: 2022/02/04(金)17:44 ID:kPkf+ZGV(1) AAS
朝野雑載より毛利鎮実とその娘

永禄の頃、大友宗麟は筑前国午見の城を毛利兵部少輔鎮実に預けた。
天正七年、秋月の使いが「こちらに味方して欲しい、その場合は人質を出してもらいたい」と申し渡してきた。
鎮実は味方する気などなかったが、断ると龍造寺とともに秋月が攻めてくると考えたため、人質を出し、偽りの和議をし、その後に人質を取り返そうと考えた。
鎮実は十二歳の娘に「汝、幼少なれどもよく聞け。秋月種実より我々に人質を出すべしとの使い来る。
今彼が心にそむかば、この城に攻め来るべし。しからば一族皆滅び、汝も殺さるべし。
ただいま質を出せば城を敵に取られず、末までも無事なり。しかるゆえ汝を質に出すなり。
さありとても行く末、宗麟公へ逆心して、秋月と一味することはおもいよらず。
しからば後に必ず敵のために殺されん。その沙汰あらば人手にかからず自害すべし」
といい含め、脇差を渡して
省16
9: 2022/02/04(金)22:25 ID:Xc5xSs4f(1) AAS
囲碁についての様々な話が書かれた「爛柯堂棋話」から
本能寺にて囲碁の事

天正十年、信長公、光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給わんとて、江州安土より御登り、京都本能寺に御座あり。
六月朔日、本因坊(算砂)と利玄坊(林利玄)の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。
子の刻過ぐる頃、両僧暇給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こるを聞き驚きしが、これ光秀が謀反にして、本能寺を囲むにてぞありける。
後に囲碁の事を思い出て、「前兆ということもあるものかな」と、みな言いあえりとぞ。
その時の棋譜なりとて、今も伝えり。この碁を思い見るに、利玄が隅の石を取らるるを見損じたる、本因坊が布置・手配りの様子、これまた前兆とも言うべきか。

有名な話ではあるものの残されている棋譜(128手まで)
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
を見る限り、三劫の余地はないと思われるため捜索と考えられていた。
省5
10
(1): 2022/02/09(水)21:09 ID:PL0ndWH3(1) AAS
或る本に、舞を舞う者の伝によると、幸若与太夫という人物は清和源氏の末、岩松治郎経家の後裔であった。

与太夫の父・蜂屋という者、安祥殿(松平清康)・岡崎殿(松平広忠)の二代に仕え。度々高名を顕し
近習に召し仕われた。
しかし、心が狂したのか、岡崎殿を討ち参らせんとして、誅殺された。人、その故を知らず。

その子である与太夫はこの年に生まれて襁褓にあった。岡崎殿は不憫に思し召されたか
「蜂屋は我に仕えて終に二心無かった。それなのに今、何の故があって私を失おうと思うだろうか。
狂気の至りであること疑いない。であれば、彼の年来の奉公に鑑み、その子の命を扶けるべし。
ただ成人の後に法師になるべし。」
と仰せに成られ、針崎の正満寺に預けられた。しかしここは妻帯の寺(浄土真宗)であり、
住持の僧にするのも不憫であるとして、幸若の弟子として舞を習わせた。
省7
11: 2022/02/09(水)22:04 ID:3B7lsvij(1/2) AAS
朝野雑載の幸若太夫の記事

幸若太夫は、往昔越中の守護桃井播磨守直常の末葉なり。
(南北朝で尊氏に属したがたいして褒賞が得られなかったため新田義貞に合力して能登・越中・越前三か国を領したがいつともなく衰微)
直常死去の後、子孫、浪浪の身となり、故郷の住居かないがたければ、各諸国に分散す。
その中に幸若丸という児叡山に登り、光林坊に入って学問す。
この児音曲器用なるによって、双紙より節を付けてうたう。
そのおもしろきこと感にたえたり。世人これを舞と称す。
幸若丸が子孫、相次いでかの業を継ぎしを舞太夫という。この故に元祖幸若丸の名を取りて苗字とし、舞太夫となれり。
また幸岩太夫も、岩松次郎経家が末葉なり。
同じころ、幸石丸といいてともに叡山に籠りいたりしが、幸若丸と同じく舞を修行す。
省3
12: 2022/02/09(水)22:14 ID:3B7lsvij(2/2) AAS
この「幸岩太夫」が>>10の「幸若与太夫」と同一人物と思われています
13: 2022/02/10(木)00:47 ID:1Rfa/aIX(1/4) AAS
原大隅守の力の事

大友宗麟公の侍・原大隅守は吉野というところを領し、人より優れた力があった。
・ある時、肥後国・戸の口に南蛮國より石火矢500 挺来て、一挺16 人にて臼杵丹生島城の庭に並べた。
宗麟公は大隅を呼びて「一人して持ってみよ」と仰せければ、大隅筒先より起こし肩に乗せ庭を二、三度回りて元に戻す。
宗麟公、大力をまだご覧になりたいということなので、自然石の大きな手水鉢の場所を直させたが
満杯の水はこぼれなかったため、御感じになったということだ。
・ある時上方から雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが下向して勧進のため相撲をしたが豊後の者は勝てなかった。
その後大隅のいる臼杵丹生島に来て大隅と業を争うとした。
雷は鹿の角をつまんで砕き、大隅に力を見せつけた。
大隅はでは相撲を取ろうと門前に植わっていた大竹を庭に出してきて、竹を一節ずつつまんで潰し、丸めて両端をくっつけて土俵とした。
省7
14: 2022/02/10(木)00:52 ID:1Rfa/aIX(2/4) AAS
出典書くのを忘れていた。「大友興廃記」からです

・ある時、大隅守は伊勢大社に宿願の儀あって宗麟公に暇をつげ、ついでに土佐の一条中納言康政公(「大友興廃記」は一条兼定を、文書発給をしていた源康政と間違えている)は、
宗麟公の婿で大力と聞こえたので力比べをしようと康政公のところに名前を隠して出た。
康政公は広間にて盤持(大石を持ち上げて力比べをすること)をしようと持ちかけた。大隅は手加減をしてわざと負けた。
その後、康政公は大筒を褒美に出してきたが、「これは思いもよらぬ事」と辞退をしているうちに康政公の力が尽きてきて鉄砲の先が降りてきたため、
大隅は指を筒先に入れて鉄砲を水平にして受け取り、三度頭を下げて鉄砲を置いて去った。
「あの怪力は豊後の原大隅守であろう、ほかにあれほどの怪力はおるまい」と噂になったということだ。
・土佐を出ると十六端の舟に乗って帆柱を肩にのせ、舟中の評判になった。
摂津国兵庫では新造の大船で七、八十人であつかうものを一人で海へ引っ張っていったため、「鬼か神か」と人々は言ったという。
・兵庫から大坂につくと六月二十九日の住吉の神事で相撲を取っていた。
省4
15: 2022/02/10(木)19:26 ID:1Rfa/aIX(3/4) AAS
続き「大友興廃記」から原大隅が大力を得たわけ

大隅守の大力を得た由縁は、ある時、大隅、正善寺という寺からの帰り道に、柳?の下に女があって子を抱いていた。
なにか言いたそうだったため馬から降りると
女「この子を少しの間だけ抱いてください」
と言われたため、怪しく思い、脇差を抜いて口に咥えたまま子供を抱いた。
子供の力は強いように感じた。
しばらくすると女は帰ってきて子を受け取り、「望みはないか?」と聞いてきたので
大隅「我が屋敷に水が湧き出すようにしてほしい」
と言ったところ、女は「他に望みはないか?」と聞いてきたため
大隅「力も湧き出して欲しい」と言ったところこのような大力がついたということだ。
省4
16: 2022/02/10(木)19:39 ID:1Rfa/aIX(4/4) AAS
訂正
含むと体力となった
→含むと大力となった

六代孝安天皇の時にいたのは永勝の先祖で
永勝は六十八代後一条天皇の頃の人物と書いていた
日田大蔵氏の日田鬼大夫大蔵朝臣永季、通称「日田どん」のことらしい
1.9mで相撲で無敗だったそうだからある意味、進撃の巨人(作者は日田出身)
17
(1): 2022/02/10(木)23:50 ID:FIxUrKpN(1) AAS
是非御参加下さい。

ワッチョイ導入議論スレ
2chスレ:sengoku
18: 2022/02/11(金)09:01 ID:7DI3VOi4(1) AAS
バカチョンきてんね
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(1): 2022/02/16(水)20:53 ID:viqLlJY4(1) AAS
悪い話スレで塙団右衛門の話が出ていたので後藤又兵衛基次の話を書こうと思う。

愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説
外部リンク[html]:iiwarui.blog90.fc2.com

後藤又兵衛が生存しており、旧知の加藤嘉明を頼って伊予へ逃れたという逸話は既に出ているが、
伊予へ逃れた後藤又兵衛と加藤嘉明のお話。

1615年(慶長二十年)の大阪夏の陣で大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。

しかし当地に伝わる言い伝えでは宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって伊予へと落ち延びてきたという。
省22
20: 2022/02/17(木)01:22 ID:SFDxaC0D(1) AAS
岩屋寺の女仙人、弘法大師と術比べしたって聞いたけどそこまでは書いてないようだ
岩窟まではハシゴを登ると行けるけど、5mあるから行く時は気をつけよう
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