[過去ログ] なんで三好家って天下を取ったのに知名度低いの? (1002レス)
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482: 2014/11/11(火)00:04 ID:xmjhCFZU(1/2) AAS
>>481
足利義満が朝廷を追い込んで太政大臣に上り詰めた話や、
朝廷が戦国大名に圧迫されて困窮してたって「事実」が、
どこでどう変化して「足利義満の皇位簒奪の意図」に改変・決定されるんだ?
直球どころか超絶魔球じゃんよ。
483
(1): 2014/11/11(火)00:17 ID:qHiYPgy+(1/2) AAS
細川京兆家は細川嫡流が世襲してきた官位なのに、それが「しょぼい」とか言われても

義昭にしても、足利将軍の世襲的官位じゃんよ
484: 2014/11/11(火)00:33 ID:1fXHQemC(1/5) AAS
>>473
は?豊臣政権の武家官位制度以前からあるよそんなの
室町期では征夷大将軍とともに右大将就任は明らかに
武家の棟梁という意味を帯びた官位んですが
ゆえに右大将の就任儀礼は幕府でも非常に重視されていた
だから歴代足利将軍は義満以降、征夷大将軍就任後も右大将就任を
基本的に目指すんですけど?
485: 2014/11/11(火)00:39 ID:1fXHQemC(2/5) AAS
>>483
官位の秩序・体系のなかで右京大夫や修理大夫やらの
官位には「武家の棟梁」という意味が付与されていない
というごく単純な話なんだが
486
(1): 2014/11/11(火)00:46 ID:xmjhCFZU(2/2) AAS
足利義満の死後の太上法皇の尊号を、足利義持がいきなり否定してるからね。
おそらく太政大臣の官位もあえて目指さなかったと思われる。

だから歴代足利将軍は義持以降、官位にそれほど執着していないし、
足利義晴や足利義輝を擁した細川高国や三好長慶が、将軍を超える官位を望むわけも無いし、
その必要も無い。
487
(1): 2014/11/11(火)00:48 ID:J8ipy9XP(1/5) AAS
義満は当初京都の政治は朝廷に任せてその税収で
祭祀ぐらいは自前で行えるように自立してもらいたかったようです。
しかし朝廷にも公家にも絶望的に金がなく給料を払えないので
当然廷臣のやる気は皆無で行政はまともに機能しませんでした。
朝廷の権威は急速に失われ綸旨が地面に投げ捨てられるほどのありさまでした。
結局は町衆・百姓からの要望で京都の行政も殆んどを幕府が担当することになり
財源を失った朝廷は祭祀すらも幕府の援助に頼りきる存在になり果ててしまいました。
しかし実権は完全に失っても幕府との関係が親密になるにつれ
そのおこぼれで朝廷の権威も多少は回復したようです。
応仁の乱以降パトロンの幕府の権威と財政が破たんすると
省1
488
(1): 2014/11/11(火)01:01 ID:1fXHQemC(3/5) AAS
>>486
義持が太政大臣を目指さなかったのは父・義満のような
ゆきすぎた公武合体路線への懐疑と公武本来の距離への回帰という
理由からであって
官位の価値自体を否定的に見ていたわけでは全くないんだが
義持はむしろ武門の棟梁としての意識は義満よりはるかに強いくらい
右大将にも義満同様就任している

短命や財政的な諸事情で不可能だった場合もあるが
近衛大将(右大将が望ましい)は歴代の将軍が実際に就任するなり
目指していたわけで意味がないわけも執着していないわけでもない
省1
489
(1): 2014/11/11(火)01:02 ID:J8ipy9XP(2/5) AAS
天文年間に洛北の惣村で領主の寺院に百姓が一揆して相論になったとき
寺院は百姓に対抗するために天皇の綸旨を持ちだしたんですが
百姓は全く従いませんでした。
領主はならばと将軍の下知状、管領の奉書と繰り出すが百姓は従わず
三好長慶の折紙を得ることでようやく従わせることができました。

通常相論や訴訟で頼る相手は権威の低い順からになりますので
京都近郊でも朝廷の権威はとんでもなく低かったようです。
身分序列と百姓からの評価が真逆なところが
戦国時代という下剋上の世を象徴しているようです。

つまり戦国の世において朝廷からの官位はそれなりに箔付けにはなったでしょうが
省1
490: 2014/11/11(火)01:11 ID:hgxngYHG(1/4) AAS
>>488
一応言っておくと、右大将就任は応永13年で義満がまだ生きてる頃の話。

自分は、その公武合体路線の否定こそが、武家に無関係な官位の否定、
ひいては「武家がむやみに官位を欲しがる風潮の否定」が為された
と解釈してる。
491
(1): 2014/11/11(火)01:18 ID:1fXHQemC(4/5) AAS
>>489
…そらそうよ。統治において実力が必要なのは当たり前だし
そもそもそれを否定するやつなんているの?
なんで百姓が衰微した朝廷や官位の権威をありがたがるというのか
そっちの方が変だよ

しかしそのような惣村や百姓の支持は武家政権の正統性の担保には
まったくならないし、基本的に両者の間は関係がない
百姓が従うからといって(地域的公権力)
じゃあ他の武家も同様に三好を棟梁と認めて従うんですか?(公儀)
ってこと
省3
492
(1): 2014/11/11(火)01:27 ID:J8ipy9XP(3/5) AAS
>>491
修理大夫三好長慶は百姓・国人の支持を得て
戦で連戦連勝して畿内を制し
偉い将軍様を屈服させたんだよ。
武家の本分は戦に強いこと
領民にとって大切なのは道理に従い暮らしを守ってくれる為政者だよ。
官位なんてどうでもいい。
493
(1): 2014/11/11(火)01:31 ID:1fXHQemC(5/5) AAS
>>492
領民には残念ながら武家政権の正統性を決める決定権はないんです
戦国時代は近代じゃないし選挙もないから仕方ない
494: 2014/11/11(火)01:34 ID:J8ipy9XP(4/5) AAS
すいません、言い過ぎました。
乱世においては官位なんかは大して意味を持たないと思います。
太平の世なら大切だったでしょうが。

三好長慶は戦国まっただ中に活躍した人です。
官位の工程でその実力や権威は量れないということです。
495: 2014/11/11(火)01:36 ID:hgxngYHG(2/4) AAS
>>487
朝廷の権威が地の底まで堕ちていたという事実があるから、
織田信長に高い官位が朝廷から与えられている意味が判るんだよな。
しかし天正3年まで出し渋るあたりは、さすが時勢をギリギリまで
見極める朝廷の高度な保身術というべきか。
496: 2014/11/11(火)01:58 ID:J8ipy9XP(5/5) AAS
>>493
戦国時代の主役の一つは間違いなく百姓です。
秀吉が関白に就任したのち敵は小田原のみと言う時に
播磨の直轄地で代官の不正に怒った百姓による国一揆をおこりましたが
秀吉は強硬策を取れず百姓に大幅な譲歩を強いられています。
戦国時代の百姓は強いうえにキレやすいんです。

三好長慶の治世では京都に百姓の土一揆が起こっていないんです。
これは三好政権の権威実力を量る上で評価されていい点だと思います。
497
(1): 2014/11/11(火)20:37 ID:Ecy9hxy/(1/3) AAS
それと中央政権としての公儀や政権の正統性や形成に一体何の関係性があるのか
全然わからん
局所的な百姓一揆に多少の譲歩をしたら武家の中央政権としての豊臣政権の
正統性が揺らぐのかね?揺らがんだろう
三好による相論の仲裁や一揆数は地域的な公権力の浸透のバロメーターではあれ
他の安定期の戦国大名の治政と別段変わらないわけで
それと公儀や政権として外部の武家や朝廷から認定される・見なされるのは
端的に位相が違う
もっともそのような地域的な公権力の浸透を示す裁許状などの判物数自体
三好長慶の場合には、北条・武田など他の戦国大名よりずっと数的にも
省1
498: 2014/11/11(火)20:49 ID:hgxngYHG(3/4) AAS
それって本当か?
松永や岩成が代わりに出してたとか、
武田や北条の家臣は江戸幕府の旗本として残ったから、
判物が多く残っただけとか、そういう理由じゃないのか。
499
(1): 2014/11/11(火)21:03 ID:Ecy9hxy/(2/3) AAS
現存している史料的には三好長慶の判物数が少ないのは事実
今谷さんとかはそれ(他の大名家に比べた場合の三好の判物数の少なさ)自体が
権門・その他の諸勢力の強い畿内での公権力の浸透の弱さを示しているという見解で
一理あると思う
かりに三好の場合松永や岩成など家臣の出した史料まで含めるなら
他の大名家でも家臣の出した史料を含めれば当然もっと数が多くなるだけだし
史料の残存状況にさまざまな偶然的要因が働くのは事実だが
だがそれは三好に限った話ではまったくない
実際に現存する史料で語る以外にどうすればいいのかというと、ない
500
(1): 2014/11/11(火)21:22 ID:hgxngYHG(4/4) AAS
>>499
一つの説として提起するのはいいけれど、現存する判物の数で権力の強さを
決定するのは危険なんじゃないの?
発行する領主の性格や統治形態も違うだろうし、
保管する方にとっても北条や武田などの人気大名の判物と、
三好長慶みたいな上方の不人気大名の判物じゃ扱いも違うだろうし。
501: 2014/11/11(火)21:35 ID:Ecy9hxy/(3/3) AAS
もちろんひつとの説だし個人的には今谷さんの見解に一理あると思うが
判物数がすべてを決定する指標などとはまったく言っていない
むしろ三好の統治形態・行政機構の細部などは史料的にもっと不明な部分が多いから
ざっくりとした大枠の数的比較を手がかりにせざるを得ないのが実態だろう
北条のようにかなりシステマテックに行政組織が整備・統括されており
史料的にもそれを裏づけられればいいが、三好の場合史料的に困難があるのでは
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