[過去ログ] なんで三好家って天下を取ったのに知名度低いの? (1002レス)
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310: 2014/10/17(金)00:06 ID:QhfQcZnF(1/2) AAS
前のレスの人と内容が被っちゃったので便乗させてもらうと
幕府を屈服させて取り込んだ後の三好政権は
「相伴衆」を乱発してるんだけど
これは三好家の家格上昇という側面より
意図的に旧来の幕府の身分秩序を
破壊する目的があったと思うんです。
最高の貴種にしか与えられないはずの肩書を
こともあろうに松永とかいう素性も定かでない成り上がり者にまで
ほいほいと与えてみせることでその価値を棄損し
もはや幕府の権威が地に落ちたことを
省1
311
(1): 2014/10/17(金)00:16 ID:2oxzWomZ(1/2) AAS
>>309
>>306の僕のスレは、前半はここしばらくスレの流れがあなたも含めて
細川〜三好〜織田〜豊臣政権の歴史的連続性を問題にしていたので
織田政権に関しては、三好より織豊政権の連続性の方が
歴史的にはやはり重要だと思うという意味で書きました
もし唐突に感じて困惑させてしまったならすみませんね

後半は、三好・本願寺は新興勢力で織田・足利が旧勢力代表だとあるけど
(旧勢力というのが実態として何を指しているのか不明ですが)
しかし実際の政策・制度面では織田と三好の畿内支配の実態には
断絶とともに連続性がかなりあるよね?三好体制の延長線上で
省2
312: 2014/10/17(金)00:33 ID:2oxzWomZ(2/2) AAS
もう少し言えば「権力志向」というのは政治思想・統治理念と
言い換えてもいいと思いますが
三好長慶に関しては現時点で体系だった彼個人の政治理念を
実証できるほど史料的な裏づけが本当に十分あるのかな?
という疑問もあります
北条や織田に比べると判物として残っている史料数自体が
三好は非常に乏しいですし
313: 2014/10/17(金)01:12 ID:QhfQcZnF(2/2) AAS
>>311
織田政権も義昭追放後はその性質をやや変質していくんだけれど
その政権のもともと持つスタンスは相当に相容れないものだったと思います。

三好政権はその政策から分かる通り
本願寺や自治都市・惣村や一揆などで新しく生まれた権力主体に親和的で
それらと相容れない旧来の身分秩序や権力構造に対して
ラジカルな態度で接していました。

対して織田政権は「天下布武」の印象を使い
足利将軍を推戴して幕府を再興したところからも分かる通り
武家を頂点とした旧来の権力・身分構造を基本的な理想スタンスとし
省10
314: 2014/10/17(金)01:20 ID:PS2CPi2t(1) AAS
なるほど。織田家は武家を頂点とする支配体制を目指したのに対して、
三好は武家の意識が弱かったと。興味深い話だね。
315
(2): 2014/10/17(金)09:24 ID:lIhpNRdX(1) AAS
どうもその三好の「幕府の屈服」理論が納得できないんだよな
幕府を否定したいんなら幕府の役職貰わずに信長が最終的にやったように朝廷と直接結び着いて官位上げていけばいいじゃないか、と
ついでに最近聞く「楠木氏の赦免が幕府の否定になった!」ってのにも疑問。周りの記録見ても幕府を含めて赦免に反発的な空気は感じないし
残ってる記録は義輝や上野信孝がむしろ積極的に赦免に協力していた記録だけだ
あと松永が任じられたのは御供衆じゃないの?なんか相伴衆扱いされてるけど
316
(1): 2014/10/17(金)21:59 ID:FawkPqlp(1) AAS
おれも同じような感想をもった
三好実休も相伴衆になっているし幕府を屈服という理屈がよくわからない
やはり三好家全体として家格をあげようとしたと考えた方が自然では?

あと三好と同じく惣中を直接対象とした保護・支配は後北条氏も意識的に行っているが
しかしそれが旧来の武家社会の秩序そのものの否定につながるとも思えない
後北条や三好のように外部から遅れて進出した勢力にとって
すでに当該地域に存在している幕府・守護の上位の権力、あるいは国人領主らの中間権力を弱める
ため惣中等と直接結びつくのは現実的な選択肢であり、ある意味当然と言えば当然
そこから武家社会の身分秩序・論理そのものの否定まで当時の三好が念頭においていたと
つなげるには論理的にかなり飛躍がある
317
(1): 2014/10/18(土)00:40 ID:IthSi2O3(1) AAS
三好が義輝から様々な栄典を授与されたことは周囲の反発からして特異なことであり、裏を返せば三好家にとってそれだけ意義のあることだったのだろう
ここまでは納得できる

でもそれはあくまで幕府という組織内の変革であって幕府という存在自体の否定には至らないんじゃないかと思う
仮に本当に三好がその方法で「倒幕」を考えていたのなら回りくどすぎる
318: 2014/10/18(土)20:01 ID:GTJ6lDKW(1) AAS
どうして阿波公方を担がず義輝と和睦したんだろう。
氏綱が反対したのかな?
319: 2014/10/18(土)22:06 ID:2KSSTugX(1/3) AAS
>>317
やっぱりどう考えても回りくどすぎるよね
近刊の三好長慶の伝記を読んでいてもそのあたりの説明が全然腑に落ちなかった

三好長慶が本気で倒幕を考えていたなら、北条が堀越公方を倒して滅亡させ
古河公方も消滅させたように義輝もろとも幕府を滅ぼせばいいだけじゃない?
あるいは義輝・晴元を追放したままで京を維持し続ければよかっただけじゃない?

しかし三好がそれをしなかったのにはできなかっただけの理由があり(あったと思う)
長慶にそもそも倒幕という一貫した理念や幕府に代わる具体的な政権構想が
なかったからだと思う
320
(1): 2014/10/18(土)22:32 ID:PdaG2Qnq(1) AAS
家康が豊臣をすぐに滅ぼさなかったのと同じ理由じゃないかな?
321: 2014/10/18(土)22:52 ID:2KSSTugX(2/3) AAS
>>320
関ヶ原の後、徳川が現行の公儀である豊臣政権を倒すためには
家康が将軍宣下を受け、秀忠が2代将軍に就任し世襲化という手続きを経て
新たな公儀として確立してゆくわけだけど
じゃあなぜ三好は足利幕府を倒すためにそういう手続きをとらないのか?ってこと
>>315が言うように、幕府を否定したいなら幕府の役職もらわず
直接朝廷と結びついて官位・官職で将軍を超える手段の方がスムーズなのに
322
(1): 2014/10/18(土)23:02 ID:HxZ8ZK9r(1/3) AAS
後北条と三好だと家格が違うと思うんだが、腐ってもあそこ伊勢だろ?
堀越公方ぶっ殺せたのも細川政元の指示だったんだし
てことは大義名分を伊勢盛時は持ってるし後ろ盾には今川氏親と十分。

三好長慶というか三好家は大義名分持てないでしょ、義輝倒す理由がない
だから京に呼び戻して手元に置いて監視するようにした、その方が地方でやりたい放題されるよりヨッポド良い
三好長慶をカリスマの絶対君主として政治を行う事で畿内近辺での指示を得ていたとしたら
長慶達の後の世代を考えると一族全体の家格を上げるってのはあったと思うな。
323: 2014/10/18(土)23:13 ID:2KSSTugX(3/3) AAS
>>322
そう。自分も長慶が足利将軍家を滅ぼそうにも実力的にも
大義名分的にも無理だったと思うよ「できなかっただけの理由がある」
と書いたのはそういう意味なの
問題は三好長慶に幕府そのものを否定するような
「倒幕」という理念なり一貫した政治思想なりが(実現可能かどうかは別として)
果たしてあったかどうか?ってこと
324: 2014/10/18(土)23:20 ID:HxZ8ZK9r(2/3) AAS
どうだろうね、実力的には普通に圧倒できるだけの圧力は持っているけど
やはり長慶の性格上できないって問題が見えてくるんだよな
後に起こる永禄の政変を見る限り足利の扱いに関しては
長慶とそれ以外が考えてることは確実に違う(三好長逸・篠原長房・松永久秀・三好義継)全員違う考えな気が

三好の研究ってやっと始まった所なんだろ?しかもその資料の殆どは東寺やらの寺社に埋まってて発掘すら出来ていないって
325: 2014/10/18(土)23:32 ID:HxZ8ZK9r(3/3) AAS
とりあえず、三好長慶が足利義輝を手元に置いたのはベストではないがベター
足利義輝にとっては発給文書は出せるようにはなっただろうがストレスの堪る展開になったと思う
義輝があまり好きではない他の三好家臣にしてみれば放浪していた義輝が
京に帰ってきて色々あれこれするようになって糞目障りって所じゃないのかな。

まあ他にも細川やら国人衆やら外せない、無視できない要素から事実が解ってくるって
展開がありすぎるのが畿内なんだよなあ…三好と足利だけでは語れねえよ
326: 2014/10/19(日)01:09 ID:FEql2qM8(1) AAS
永禄4年(1561年)十河一存、死去。
永禄5年(1562年)三好実休、死去。
永禄6年(1563年)三好義興、死去。
永禄7年(1564年)安宅冬康、死去。
永禄7年(1564年)三好長慶、死去。

優秀な弟は存在が大きすぎて、失った時に大抵迷走するよな。
三好長逸・篠原長房・松永久秀は、その存在を埋めるのにはさすがに役者不足だった。
327: 2014/10/19(日)01:13 ID:gxZePdx0(1) AAS
幕府の力が衰退に向かっているのは認識していても、当時の人間には「倒幕」なんていう天道に叛くような行為は考えづらい風潮があったんだと思う
最近の研究じゃ信長も実際は義昭とできるだけ協調しようとして、追放した後ですら義尋を擁立するプランを考えていた形跡があったり
革命児どころかむしろ旧権威と対立することをできるだけ避けようとしていた人物って感じの印象があるし

後のの時代になってもこれなんだから当時の三好が倒幕という発想に至れなくてもそれは普通のことだし、別にマイナス点にはならないと思う
けど天野先生の研究における主張見てるとどうもその辺に拘りすぎてるように感じるんだよね…
328: 2014/10/19(日)18:37 ID:+Z56vH4M(1/2) AAS
>>315
永禄元年に六角・細川晴元と組んだ義輝が三好に挑んだんだけど
緒戦で敗れた義輝が真っ先に逃げ出してグダグダんなったので
晴元は残存勢力を三好家に切り崩されてお手上げ
六角も一抜けたしちゃって義輝が三好家に引き取られることになったんだよ。
これを屈服と言わずしてなんと言ったらいいのでしょうか?

朝廷を丸抱えして利用しようとするとそんだけ銭がかかるのよ。
長慶は朝廷官位にそこまでの利用価値なしと思ってたんじゃない?

幕府というか将軍は将軍だけあって色んな権益や権能を持ってるのよ。
殺すより生かして手元に置いておいて利用するなり
省3
329
(1): 2014/10/19(日)18:54 ID:+Z56vH4M(2/2) AAS
>>316
実休が相伴衆になったのはメリットがあったからでしょ?
畿内の惣中や国人には幕府から与えられた権益をもっているものも多かったし
彼らは相伴衆受諾をきいて自分たちの権益が保証されると思って安心するでしょ?

三好と織田の畿内でのスタンスの違いにについて313で書いたんだけど
どうして北条と比べられなきゃならないんでしょうか?
たしかの三好家と北条家は同じ戦国大名として共通点は多いように思われますが。

三好家が武家社会の身分秩序・論理そのものの否定を目指したなんて書いてませんよ。
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