[過去ログ] 官僚によるマインドコントロール()捕鯨問題-9 (459レス)
1-
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) 自ID レス栞 あぼーん

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
リロード規制です。10分ほどで解除するので、他のブラウザへ避難してください。
420: 2009/01/07(水)00:03 ID:JXs04a9t(1/22) AAS
 これから「反捕鯨の病理学」講座を開講します。反捕鯨病は20世紀末に流行している奇病ですが、その病因については十分な解明がなされていません。以下、ささやかながらこの点について寄与を行いたいと思います。なおこの病気の今後ですが、ペストやコレラのように
 一定期間猛威を振るった後でないと下火にならないだろうというのが筆者の予想です。原因究明は病気を治す第一歩ですが、理由が分かればすぐに治るというものでもありません。それに治りたくない患者だっているのですから。
1.二流知識人の卑屈病――文化差別主義に追随する「環境保護」団体WWFJ
 三島由紀夫に『不道徳教育講座』(1960年)というエッセイがある。その「オー・イエス」と題された章で、三島はこんなエピソードを紹介している。
 三島が渡米してあるアメリカ人教授から夕食に招待された時のこと。客は何人もいたが、日本人は三島以外に地方大学総長だという老人だけ。老人は英会話が余り得意ではない。その代わりに「愛嬌をこぼれるばかりに示して」いる。アメリカ人から何か話しかけられると、
 ニコニコしながら『オー・イエス』と答える。オー・イエス、ニコニコ、オー・イエス、ニコニコの繰り返し。傍で見ていた三島は、「サーヴィス精神の旺盛な先生だと感心」する。
 さて、この大学総長、三島が「あんまり若僧なので相客としてのプライドを傷つけられたのか、紹介されてのち全く無関心を装って」いたが、しかし得意でない英会話が途切れると、その場にいる日本人は三島だけであるから、彼を相手に日本語で会話をせざるを得ない。
 総長は三島にこう尋ねる。
 『あーん、君は何かね、何を書いとるのかね』
422: 2009/01/07(水)00:08 ID:JXs04a9t(2/22) AAS
 高田の文章は、外国の名士の片言隻句に意味ありげな解釈をほどこす我国の知識人の習癖を示すもので、ロランとの会話は実にたわいない議論である。一人称の代名詞が沢山あるのが「封建根性」のせいというのはその通りかもしれない。しかしフランス語にそういう不平
 等な人間関係を表す言い回しがないかというとそんなことはない。主人と召使いが異なる二人称で呼び合うこともあるし、一人称は一つしかなくても、通常の二人称以外に敬称の二人称が存在するのはヨーロッパ語に共通して見られる現象だ。絶対的な平等が現実にはあり
 えない以上、上下親疎の程度をあらわす言い回しがどの国にもあるのは当然で、日本にしかないと考えるのは根拠のない独断に過ぎない。そもそもよその国の言葉の特色が分からないからといって立腹するのは失敬な話で、それなら高田はロランにこう言えばよかったのだ。
 日本語には一人称代名詞は沢山あるが、フランス語のように機能によって形が変わることはない。「私は」が jeで「私に」がmoiで「私を」が meであるフランス人は、人に金をやる時と人から金をもらう時とでは自我の形が違うのか、と。たわいない議論はそれで終わった
 はずだ。さらに中村は次のように述べる。「問題は、こういう考えがたんに高田氏のように特殊な教養と経歴の持主ひとりのものではなく、それに多数の賛成者がいるということです。どうも日本語というのは特別に封建的な言葉らしい、とか、我々の言語生活に表われた
 封建性は反省しなければならないという人がすぐでてきます。」30年も前のエッセイを二つ引いたのは、20世紀も終わろうとしている今日になっても状況にさして変化が見られないからである。やや枕が長くなりすぎたが、以下本論に入ろう。
先の『nemo』第2号に私とWWFJ(世界自然保護基金日本委員会)の捕鯨問題に関するやりとりを載せた。これをもとに、改めてWWFJの態度を批判しよう。私とWWFJとのやりとりには様々な論点があったが、私の消しがたい疑問は次の点である。
(1)  捕鯨問題には、鯨やイルカを特別な動物だとする文化差別主義がからんでいる。純粋に自然保護や資源保護の観点から鯨を保護せよとする運動は、こうした文化差別主義とは一線を画さなければならない。したがってWWFJは、文化差別的な鯨・イルカ類保護運動に   
423: 2009/01/07(水)00:09 ID:JXs04a9t(3/22) AAS
AA省
424: 2009/01/07(水)00:13 ID:JXs04a9t(4/22) AAS
以上の疑問について、WWFJは何一つ答えていない。つまり答えらないわけだ。そうである以上、文化差別主義を支持する団体だとみなされても仕方があるまい。その根底にあるのは、三島や中村のエッセイで指摘されていたような、日本知識階級の卑屈さである。外国では
受容者=弟子としてペコペコし、逆に国内では輸入品を振りかざして啓蒙家=教師を気どる――これが明治以来、日本の二流知識人が一貫してとってきた行動様式だった。同じ知識階級でも一流ならこういう莫迦な真似はしない。日本の欠点は欠点として指摘し、しかし対外的
にも言うべきは言う。例えば鴎外はそうだった。考えてみればそれは当然のことだが、この当り前のことが一番難しいのが日本の二流知識人なのである。現代の日本は、かつてのように知識人が論壇でもっともらしくご宣託を垂れる時代ではなくなっているが、その代役は色々
なものが果たしている。NGOもその一つだ。私はNGOの意義を否定しない。しかし逆にNGOだから無謬で無垢だとも思わない。おかしいと思うところはどんどん指摘させていただく。それに答えられないなら、そんなNGOは消えた方がいいのである。
WWFJに特徴的なのは、対外的な発信能力がないことだ。私は (1)についてはWWF日本委員会が全世界のWWFに提案せよと言ったわけだが、それについて日本委員会は何も答えていない。捕鯨文化を持つ国がそうでない国にこういう提案をするのはごく当然のことだ。
地球上にあらかじめ決まった普遍性などあるはずもなく、普遍とは地域性の集合体にすぎないのだから、地域の特性はその地域に住む者が訴えなければ誰にも分からない。多数者の偏見にしても、少数者がそれを指摘して初めて偏見であることが分かるのである。ところがこの
当然のことがWWFJにはできないのだ。この行動様式は先に述べた通り、日本の二流知識人の特徴である。WWFJは「オー・イエス、ニコニコ」の人だったのだ。
二流知識人の特徴はもう一つある。言葉と行動が一致していないことだ。例えばサロン・コミュニストのように口では共産主義を讃美しながら決して共産主義国では暮らさず、自分の生活も改めようとはしない。WWFJは (4)で明らかなようにこの点でも二流知識人相当である。
さらに二流知識人の特徴を挙げよう。
426: 2009/01/07(水)00:20 ID:JXs04a9t(5/22) AAS
政治的センスがなく、国際政治の仕組みに無知なことだ。IWCは国際的な組織だからまともだと信じてしまう。様々な偏見と力(「経済制裁」などというのもその一種である。経済力の強い方が有利なわけだから)と身勝手が現実の国際政治を(残念ながら)動かしていること
を知らない。「環境保護」という美名も、そこにあっては偏見の隠れ蓑となり様々な政策の口実に使われることに気づかない。例えば、 (3)で述べたイヌイットの捕鯨である。イヌイットというと恵まれない少数民族というイメージがあるせいか、絶滅に瀕している鯨を捕っても
仕方ないんじゃないかと思う人も多かろう。しかし、イヌイットとはこの場合アメリカ人のことである。世界最強のアメリカ政府はその気になればイヌイットに必要な栄養を含んだ食物を提供して、絶滅に瀕した鯨を守ることができるはずである。実際、良心的なアメリカ人学者
は、日本の捕鯨をやめさせる科学的根拠はない、むしろイヌイットの捕鯨をやめさせるべきだとかつてレーガン大統領に訴えたのだった(『C・W・ニコルの海洋記』)。ところがアメリカは資源量豊富な鯨を対象とする日本の捕鯨には全面的な圧力を加え、全滅に瀕している鯨
を捕る自国民は擁護しているのである。要するにエゴ丸出しなのだが、アメリカのWWFが自国のエゴに気づかないのはある程度やむを得ないとしても、理不尽な抑圧を受けている日本のWWFがこのエゴに気づかないというのは、不思議な精神構造というしかない。(しかしこ
ういう精神構造の日本人が多いことは最後に述べる。)いや、もっとはっきり書こう。アメリカのWWFはこずるいのであり、自分の頭でものを考えないWWF日本委員会はこずるいアメリカWWFの言いなりなのだと。 実際、95年12月の朝日新聞の報道によれば、アメリカの
ブラウン商務長官は捕鯨問題にからめて日本に制裁措置を加えるようクリントン大統領に勧告したという。これは南極海の捕鯨だけではなく、北太平洋など他地域をも含むものである。そしてこの勧告を公表したのがグリーンピースとWWFだったのである。つまり両「環境保護」
団体はブラウン長官を支持するというわけだろう。ここに見られるのは、資源保護とか環境保護とかいう思想ではない。鯨を特別な動物だと見なす動物差別主義、それに基づく民族差別主義である。それほど鯨が大事ならまずイヌイットの捕鯨をやめさせるべきだし、
427: 2009/01/07(水)00:24 ID:JXs04a9t(6/22) AAS
本当に鯨・イルカ類で絶滅に瀕しているもの(ホッキョク鯨以外では、川に生息しているカワイルカ)をまず保護すべきだろう。ところがそれと正反対の政策がとられているのは、捕鯨問題が環境保護の美名に隠れて政治的に悪用されている証拠である。グリーンピースやWWF
は環境保護に名を借りた民族差別と身勝手な政治を支援する団体だったのだ。
ところで、前号で私はWWFJとの往復書簡を発表したが、そこに書かなかった事実に触れておこう。前号を見れば分かる通り、WWFJからはこちらの質問に二度回答が来たが、その後右の (1) - (4)で列挙したような疑問を当方が述べたのに対しては返事が来なかった。それ
で私は二度ほど催促状を出したのである。しかし梨のつぶてであった。それで往復書簡を発表するにあたっては、別段断る必要もなかろう(プライベートな内容ではないし営利目的でもないからだ)とは考えたが、まあ一応と思い、「載せますからいいでしょうね、内容にはいっ
さい変更を加えず、余計なコメントもつけません、もし駄目ならちゃんとこちらの疑問に答えなさい」という手紙を出しておいた。実は返事はないだろうというのが私の予想だった。こちらの二度にわたる催促にもかかわらず疑問に答えないのだから、おめおめと返事をよこすは
ずがない。ところが驚いたことに返事が来たのだ。答はノー、そしてこちらの疑問にも答えないというのである。  何と阿呆な団体なのだろう『nemo』がわずか150部の雑誌であることは書いておいたのに、自分の意見を知られるのがそれほど恐いのだろうか。そもそも最
初に新聞に意見広告を出したのはWWFJである。ならばそれに対する疑問には最後まできちんと答える義務があるし、その応答を公開されても文句はないはずだ。それができないのは、まともな団体ではない証拠である。こちらは疑問に答えない限り掲載すると書いておいたの
で、予告通り掲載した。内容にいっさい変更を加えず余計なコメントもつけないというのも予告した通りである。ただし個人攻撃が目的ではないから、二度の返信にあった個人名はイニシャルだけにした。さて、個人攻撃が目的ではないと繰り返した上で、以下で或る事実を指摘
しておこう。
428: 2009/01/07(水)00:25 ID:JXs04a9t(7/22) AAS
それは、WWFJからの二度目の返事を書いた人が一昨年朝日新聞の或る記事にコメンテーターとして登場した、という事実である。そのコメントとはこうだ。「野生のイルカと泳いで自閉症を治療したという研究があるなど、イルカには計り知れない将来性がある。
イルカと共存できるルール作りをめざすべきです。」自閉症を治すのにイルカを使うのは結構である。しかし、それはあくまで人間のためなのだ。じゃなければ、いったいイルカの自閉症を人間は治してやったのだろうか。「共存」という言葉はかくもいい加減に使われる。そし
てこの種の論理こそ鯨・イルカ類偏愛国に蔓延しているものであり、果ては鯨・イルカは絶対に殺してはならないという恐ろしい飛躍に至るのだ。「イルカには計り知れない将来性」なるフレーズにはこの匂いが芬々と感じられる。つまりこの人は、自然保護や資源保護、WWF
のモットーであるはずの「自然資源の持続的利用」から一歩も二歩も踏み出したコメントを加えているのである。すでに欧米の鯨・イルカ偏愛主義=文化差別主義に洗脳されている疑いが濃厚だと言えよう。「自然保護」団体に勤務する人が、この手の人間ばかりでないことを私
は望む。私はこの文章を三島由紀夫と中村光夫からの引用で始めて、20世紀も終わろうとしている今日になっても状況にさして変化が見られないと述べた。だから最後は私自身の手でそれを指摘しよう。
最近の話題といえばフランスのタヒチでの核実験である。フランスは南極海を鯨の聖域にという提案をした国だが、だいたい鯨類資源の調査にもろくにカネを出していないし、この提案も真に自然環境を守るためではなくポーズ作りのために過ぎないということは、前号掲載した
私の主張で明らかな通りである。そして今回の南太平洋での核実験はそれを裏書きしたものと言える。
ただ、感情的に反核を叫んでフランスを非難すればいいというものでもない。一部の人が言うように中国の核実験も非難せよ、というのでもない。そもそも過去にさんざん核実験をやってすでに核兵器を備えているアメリカやロシアを非難しないのはおかしいのだし、日米安保
により日本がアメリカの核の傘下にあると見なされている以上、日本は自国で持たずとも核を利用していると批判されても仕方がないわけだ。
429: 2009/01/07(水)00:25 ID:JXs04a9t(8/22) AAS
批判はこういう具合に総合的にやらなければおかしいのである。ところで、本年1月末にフランスが6回目の核実験を行った時、朝日新聞
に識者(?)のコメントが載った。その中の「仏政府給費留学生としてパリに留学した作家の荻野アンナ慶応大学文学部助教授」のコメントは以下の通りであった。
《大学の授業で、作家クロード・シモン氏の大江健三郎氏への反論を教材に使った。シモン氏は、第二次大戦前の平和主義が、ドイツの侵略を許してしまったという後悔を語り、チェチェン紛争にみられるように不安定なロシアの脅威を強調した。その見解は、環境破壊など地球
規模の視点を欠いているものの、フランスでは多くの人に支持されている。日本の反核運動もこうしたフランスの歴史や地理を踏まえるべきだ。同時に、日本の被爆体験を理解してもらうためには、自らの侵略についてきちんと謝罪しなければならない。》
最後を読んで、奇妙なことを言うと私は思った。日本は植民地主義に走り侵略戦争を行ったのだから、それを謝罪しないと自分の被爆体験も語れないしフランスの核実験に抗議することもできない、というのである。
なぜ奇妙なのだろうか。昭和初期から20年までの日本の行動については色々な見解があり得るだろうが、それはここでは措く。少なくとも威張れないような行為を相当やっていることは確かだからだ。だから、核実験がフランスのもともとの領土内で行われているならこれでもよ
ろしい。実際はどうか。フランスは南太平洋のタヒチで核実験を行ったのだ。タヒチはもともとフランスの領土だったのだろうか。違う。フランスは19世紀半ばに軍艦を派遣してタヒチの王政を廃し植民地にしたのである。日本が韓国を併合したのと変わりはない。日本は、無論
戦争に負けたからではあるが、現在は植民地主義はとっていない。対してフランスはおのれの植民地主義を謝罪するどころか、植民地を手放さず、そこで核実験を数回行うという真似までやったのだ。要するに第2次大戦後半世紀を経てなおゴリゴリの植民地主義国家なのである。
そのフランスに対して、日本は自分の昔の植民地主義を謝罪しなければものを言えないとする荻野アンナの精神構造はどうなっているのだろう。「フランスの歴史や地理を踏まえ」るとはどうやらこの程度のことらしい。こういう二流知識人を日本の一流大学は助教授に迎えてい
るのだから、日本の知的水準はまだまだ低い。
430: 2009/01/07(水)00:29 ID:JXs04a9t(9/22) AAS
反捕鯨病の分析を続けるにあたって、まずこの病気を大まかに分類してみたい。私の見るところ、反捕鯨病は大きく分けて三種類の原因もしくは症状に分けられる。無論、これらが絡み合って複合的な様相を示している病人も少なくない。その三種類とは、次のとおりである。
A.自然環境保護のためと聞くと、内容をろくに確かめずに何でも飛びつき支持してしまう単純エコロジスト病。
B.外国が日本を批判すると、ただちに悪いのは日本側だと反応するアンチ日本症候群。
C.鯨やイルカは特殊な動物で絶対に捕獲してはいけないし、人間とイルカの交流によって素晴らしい未来が開けると信じ込む一種の新興宗教熱(これをオウム真理教、じゃなかった、鯨・イルカ真理教と呼ぼう)。
 この三つの症状のうち一番タチが悪いのは、やはりCであろう。AとBもなかなかやっかいだが、少なくともデータの積み重ねによって論駁もしくは説得することは可能ではある。だがCは宗教であるだけに、論理やデータによる説得は効を奏さない場合が多い。これは聖書
の内容の荒唐無稽さをいくらあげつらってもキリスト教徒を改宗させられないのと同じである。そして、ここが肝腎なところだが、ある人間が宗教に染まりやすいかどうかは、一般に信じられているような知性の高低とは無関係なのである。ここでの知性とは、日本で言えば
偏差値の高い大学に合格できる、程度の意味だ。いや、むしろ中途半端なインテリの方が案外新興宗教や疑似宗教に弱いという事実は、オウム真理教事件で明らかになったばかりである。
 そして現在、反捕鯨を推進する側の最大の心理的論拠になっているのもCなのである。
 ところが、日本の「良心的」な反捕鯨論者はこの点を認めようとしない。それはそうだろう。
431: 2009/01/07(水)01:15 ID:JXs04a9t(10/22) AAS
なぜならCには少なくとも現時点では科学的論拠は何もなく、要は「私はこう感じる」というだけの単純極まりない趣味性に基づいているからである。おまけにこれは露骨な動物差別主義であり、人種差別主義の一変種であって、多様な文化や習慣のあり方を認めようとし
ない偏狭なレイシズムに他ならないからだ。自然保護がレイシズムと結びついている、と言われたら良心的な人は困惑するだろう。そこから先、この人のとる道は二つに別れる。まず第一は、反捕鯨運動にレイシズムが関わっていることを素直に認め、それを批判した上で
純粋に自然保護・資源保護の視点から捕鯨問題を論じること。これがまともな道であることは言を俟たないが、そうなったらこの人はもう反捕鯨論者であり続けることは不可能になる。そこでこの人のとる第二の道が現れる。反捕鯨運動にレイシズムが関わっている事実を
否定してしまうのである。そしてとにかく反捕鯨を唱えている人間がいるのだから反捕鯨には論拠があるという循環論法的な言い分に徹してしまう。
その典型的な例として小原秀雄を挙げよう。
小原は女子栄養大の教授で自然保護問題の専門家として知られ、新聞などにもよく登場する人だ。自然保護派の看板を掲げていて日本の捕鯨には批判的だが、表向きCの病状はなく、日本近海の捕鯨は認める立場をとっている。その彼は、95年に朝日新聞社から出た『環境
論を批判する』というアンソロジーに一文を寄せている。題は「クジラとゾウは高等生物だから保護するのではない」。ここではゾウについては触れず、捕鯨問題だけに絞って小原の文章を検討しよう。小原は海外の反捕鯨運動を擁護しようとして様々な論拠を挙げてゆく
のだが、その論調は矛盾だらけなのである。最初の「概要」では次の三点が主張されている。
(1)捕鯨は伝統の所産だから許されるという考えも、鯨は高等生物だから捕鯨はケシカランという考えも野生生物保護の基本からはずれている。
432: 2009/01/07(水)01:16 ID:JXs04a9t(11/22) AAS
(2)野生生物を保護するのは自然環境を保護することであり人間環境の保全にもつながるものである、というのが正しい考え方だ。
(3)南極海のサンクチュアリ案は(2)の観点から出てきたものだ。
 このうち最初の二点に関しては基本的には異存はない。ただし言い方が大ざっぱであり、(1)は「いくら伝統でも鯨が死滅するようなら捕鯨はやめるべき」ときちんと書くのが筋である。要は資源量と捕獲量のバランスを考えればいいだけの話だからである。また(2)
 は「保護」が資源利用とあいいれないと考える必要はないので、これもバランスの問題に過ぎない。しかし(3)に関しては到底納得することはできない。現在の南極海のミンク鯨の資源量を考えれば、それに合理的な根拠がないことは明白だからである。
 それはともかく、本文に入ると、小原の文章はこの「概要」を逸脱して支離滅裂となる。反捕鯨派に大甘な彼の姿勢が、整然たる論理展開を不可能にしているのだ。最初の「はじめに」はとばして、次の「野生動物保護は自然保護である」の章を見よう。まず、鯨は日本
 では魚介類と見られているが、実際には哺乳類であるから魚類より再産率で大幅に劣るのだという。だが「魚屋で売られているので国民の印象は魚である」という。バカなことを言うものだ。自然保護の専門家がこの程度のことしか言えないとはと、正直、愕然としてし
 まう。鯨が哺乳類であることくらい、今どきの日本人は誰でも知っている。鯨は哺乳類であり魚類より再生産率に劣る、だからこそ魚類のようにトン数ではなく、ちゃんと頭数で捕獲量を決めているのだ。いったい小原はふだんどのくらいの知的レベルの人間を相手にし
 ているのだろうか。
433: 2009/01/07(水)01:20 ID:JXs04a9t(12/22) AAS
 次の段落に行こう。前半の文章をそのまま引用する。「人間が生きていく上でどんな生き物を食べるかは、現在は慣習で決まる。減らそうとする場合に意識を持つ動物をまず食用から外すのが第一歩だとの主張がある。菜食主義者は、その最も徹底した人々だが、確かに
 これも厳密にいえば生命を奪っている。だからと言ってなにを殺して食べてもよいとはなるまい。イルカやクジラ類を高等動物だから、あるいは知的動物だから殺すべきでないという主張は、差別だとはいえまい。食べる生き物のどこまでを許容するかは、各人の考え方
 次第である。欧米の人々が、クジラやイルカのような知的動物を殺して食べるとはとの批判に、人種差別的発想だといきり立ったのは、この点からは見当はずれであった。」論理が滅茶苦茶だし文章にもおかしな箇所があるが、ともかく検討していくと、まず小原は菜食
 主義者などは差別ではないというのだが、どうしてそう言えるのだろう。菜食主義者とは差別主義者に決まっているではないか。野菜という生物は食べてもいいが、動物という生物は食べてはいけない、これを差別と言わなくて何を差別と言うのだろう。もっとも、誰か
 が「自分は菜食主義者だ」という限りにおいては問題はない。好きでやっているのだから勝手にすればいい。差別といっても、個々人の好みの問題に帰着する部分は他人が口出しすべきではないからだ。差別は、それが個々人や共同体の慣習に根ざす限りは、そしてその
 個人や共同体内部の人間が納得している限りは、趣味性や文化的習慣という言葉で片づけて差し支えない。だから「どういう食べ物なら許容できるかは各人の考え方次第である」というところだけなら小原の論理はよろしい。
 問題はその後だ。菜食主義者を差別主義者として批判しなくてはならないのは、自分の趣味性を物差しにして他人を計る場合である。自分の趣味性を絶対化して、「動物を食べるなんて」と他人に攻撃を向ける時、菜食主義者は差別主義者となり批判さるべき存在となる。
 肝腎なのはここである。「自分は嫌だから食べない」というのと、「他人が食べるのが嫌だから食べさせない」というのは、まるっきり別物なのだ。前者はあくまで自分の趣味の範囲だが、後者は差別行為そのものである。「鯨イルカ類は高等生物だから食べるなという
 欧米の主張に対し、
434: 2009/01/07(水)01:24 ID:JXs04a9t(13/22) AAS
人種差別的な考えだといきりたつのは、見当はずれである」という小原の主張は、したがってまるで見当はずれである。「(…)欧米の主張は、人種差別的な考え方の見本である」と書かねばならない。思うに、小原は差別ということが全然分かっていないのではないか。
自分が欧米人から差別される可能性があるなどと考えたことがないのかも知れない。だから、欧米人が何かを言うとそれには正当な理由があると頭から決めてかかり、自分が差別されていることが意識に上らないのだろう。差別されるのはまともな知性を持った人間には
不愉快なことであるはずだが、小原にはどうやらこの種の知性が欠如しているようだ。一見知識人風の日本人がしばしばこうした精神構造を持っていることは、先回分析したのでここでは深くは立ち入らない(症状Bである)。一つだけつけ加えておくと、食習慣の違い
は差別につながりやすいということだ。94年に出て話題になった辺見庸『もの食う人びと』でも、ドイツ人のトルコ人労働者への、日本人の在日朝鮮人等への食を媒介とした差別意識が指摘されている。自戒の念を忘れず、同時に自分が差別されたら毅然と反論する心構
えを持ちたいものだ。同じ段落の後半に行く。「動物愛護精神や感情は欧米では強烈であるから、生態的な見方に基づく反捕鯨論が大衆にも理解されているとはいえない。」私もそう思う。そしてこの「動物愛護」とは、自分の趣味を多民族にも押しつけることであるか
ら、差別にあたることは私が右で論証したばかりである。ところが小原は次にこう書く。「捕鯨モラトリアムが提起され(…)ストックホルム会議での国際世論の主張と、その背景になる基本理念は、明らかに地球上の自然を保全するためであった。」なぜ「明らか」な
のか。ここは一番論証の必要な部分ではないか。大衆に差別的な反捕鯨論がはびこっていることは小原は認めている。とすれば、民主主義の原則 ―― 一国はその国民の知的レベルに見合った政府しか持てない――によって、きれいごとの「基本理念」の背景に差別感情
があるのではないかと疑ってみるのは、常識であろう。差別を「差別ですよ」といって実行に移すバカはいない。差別にはいつもきれいごとの理念が隠れ蓑としてつきまとうものだ。ところがこの肝腎の作業を小原は省略してしまう。以下、「
435: 2009/01/07(水)01:30 ID:JXs04a9t(14/22) AAS
 野生動物保護の基本理念は正しい」という類の文章が、論証ぬきで続くのである。そして野生動物は飼育される動物とは違って、自然環境に深く関わっているから保護しなくてはならないとくどくど繰り返すのだが、その根幹にあるのは「保護」は「利用」とあいいれず
 、少しでも「利用」すると野生動物が絶滅するがごとき論法である。まるでちょっとでも体に汚れがつくと病気になると思いしつこく手を洗い続ける潔癖症患者のようだ。この論法で行くと大多数の魚類は野生なのだから保護されねばならないはずであるが、しかしどう
 いうものか小原の論理には魚類は入ってこないのだ。 途中をとばして終わり近くの「利用のためのゾーニング(地域区分)をどうするか」を見ると、それが一目瞭然となる。「捕鯨に関して私が一貫して主張してきたのは、少なくとも公海から撤退すべしとのことであ
 る」「公海の大部分は自然のままにしておくべきだ」という。ならば公海での一般漁業もやめるよう主張すべきであるが、「海洋上での過剰漁業が問題」とわずかに触れるものの、どういうわけか「全世界に公海での漁業はやめさせるよう働きかけよう」といった主張は
 全然見られない。ひたすら捕鯨についてだけ公海から撤退せよと言い募るのだ。これはこの一文の題が「クジラとゾウ」だから、という逃げ口上は通じない。現在公海上で行われている捕鯨の規模と、一般漁業の規模を比べれば、小原の論理からするとどちらをやめさせ
 ねばならないかは明瞭であろう。にもかかわらず小原が公海上での一般漁業をやめさせよと主張しないのは、欧米がそれを主張していないからではなかろうか。小原の主張はそれほどに他律的なのである。 最後に、南極海の鯨聖域案について述べておこう。小原の主張は
 ここでもあくまで他律的である。「日本側の主張が、本質的に科学的ならば、もっと同調する声が上がってもよい」「日本側のいう科学性が、生態学や環境科学の上からも充分に科学的ならば、国際的になぜ孤立したのだろう」というのだが、ここに見られるのは、政治
 と科学が別物であるという認識がまるでなく、政治で決まったことを科学的だと考える恐るべき無知である。多数決でことが決まるなら科学者とは楽な商売と言うべきだ。小原はこの一文で科学者たることを放棄したも同然だろう。
436: 2009/01/07(水)01:35 ID:JXs04a9t(15/22) AAS
 声の大小に影響されずにデータを自分で調べ自説主張するという、科学者として必要最低限の姿勢がまるで見られない。これは差別に対する感覚を欠くという彼の資質と無縁ではない。なぜなら、差別の自覚はいつも少数派から始まるからである。少数派が多数派に抗議
 て声を上げるところからしか差別を撤回させる行動は始まらない。多数派はいつも正しいと信じる者は、差別というものが根本的に理解不可能な人間なのである。 聖域案がIWCで通った理由は簡単である。捕鯨問題が、捕鯨国以外の国にとってはどうでもいいことだ
 からだ。日本やノルウェー以外の大多数の国は捕鯨に利害関係を持たないので、非科学的な理由であろうと声の大きい反捕鯨派に同調しておいた方が楽だし、自然保護のポーズもとれて便利だからである。逆に言えば、捕鯨に賛成しても非捕鯨国は何の直接的利益も得ら
 れないし、国内の差別的な反捕鯨派からは叩かれる、面倒だから聖域案に賛成しておこう、それだけの話なのである。一般漁業ならこうはいかない。一般漁業での乱獲は大西洋でも問題になっているが、これは欧米各国も密接な利害を持っているから、漁業規制や資源保
 護は話題になっても、「漁業は、野生生物を捕獲する行為で自然保護に反するから、全部やめましょう」などというふざけた意見を述べたり、いわんやそれに賛成したりする国はない。国際政治とはこういうもので、ご都合主義的部分が相当にある。それが政治的感覚を
 欠いた小原には分からない。もう一つだけ小原の議論に特徴的なところを挙げておこう。捕鯨問題についての日本での報道が「ナショナリズムを煽る」としていることだ。この「ナショナリズム」という言葉は、「良心的」な人が時事問題の論評によく用いるものだが、
 どうも内容をきちんと吟味して使っているようには思われない。ナショナリズムとは、帝国主義に対する批判として出てくるものであって、ナポレオンの行軍に対してドイツやロシアが立ち上がったのもナショナリズムなら、英国の支配に対してインドが立ち上がったの
 も、日本を含む列強の支配に対して中国が立ち上がったのもナショナリズムなのである。そして帝国主義はしばしば政治的優位に立つ国の普遍主義の仮面をかぶって現れるのだ。ナショナリズムはそうした政治的普遍主義への抵抗の土台を提供するものであった。「ナシ
 ョナリズムはいけません」などと言っていたら、
437: 2009/01/07(水)01:39 ID:JXs04a9t(16/22) AAS
 植民地の独立などあり得ないことになってしまう。無論、ナショナリズムは偏狭な排外主義に転じやすい。したがって、ナショナリズムそれ自体は両義的なのであって、その点をふまえずにこの言葉を軽々しく使うわけにはいかないのだ。そして、現代は昔と違って露骨
 な植民地主義は不可能になっているが、代わりに別な形での帝国主義が台頭していることを見逃してはならない。メディアの発達による文化帝国主義がそれだ(トムリンソン『文化帝国主義』という本がある)。ここでは詳述しないが、捕鯨問題にはこの文化帝国主義の
 影がつきまとっている。少数派である捕鯨国に「ナショナリズム」のレッテルを貼るのは、新しい帝国主義に加担するものだとの認識は最低限必要だろう。
3.アメリカ・インテリの反捕鯨病を観察する
 日本の「環境保護」論者がいかにデタラメで欧米の偏見に不感症かを示すために小原秀雄を取り上げた。他にも批判に値する人間はいるが、日本人ばかり叩いていると自分もB症状の患者だということになってしまうから、
438: 2009/01/07(水)01:41 ID:JXs04a9t(17/22) AAS
 以下で、「自然保護」の観点からではない、鯨を特殊な生物とする観点Cからの反捕鯨論がアメリカでいかに盛んかを見よう。最初に述べたとおり、日本人の反捕鯨論者はこの点から目を反らしがちだが、自分が差別されていることに鈍感な人間は所詮他人の精神的奴隷
 に過ぎないことを肝に銘じるべきだろう。新しい本から取り上げよう。ジョン・ダニング『死の蔵書』(宮脇孝雄訳、早川書房)という推理小説がある。日本では96年に翻訳出版されたばかり、宝島社『このミステリーがすごい!』96年海外部門で第一位に選ばれた作品
 だそうで、古本が材料になっていることもあり買ってみたのだが、意外にもここに捕鯨問題の影を発見したのだ。警察官をやめて古本屋になった「私」は殺人事件に巻き込まれるが、リタという美人の古本業者と知り合って惹かれるようになる。しかし彼女が事件の犯人
 ではないかとの疑いも抱く。初めて彼女の屋敷に入ると、室内の装飾品や写真には鯨が目立ち、捕鯨船の前に立ちはだかっているグリーンピース闘士の写真もある。その後初めて二人で食事をすると、彼女が環境保護論者で菜食主義者だと分かる。彼女の所有していた高
 価な古本を買うと、「小切手の振り出し先はグリーンピースにしてちょうだい」と言われる。唖然とする「私」に、彼女はこう言い放つ。「毎朝、目を覚ます気になるのは、グリーンピースがあるからよ。」
 しかし、やがて「私」と親密な関係になったリタは菜食主義を放棄してステーキにかぶりつく。「処女を失う日。肉食に戻る日。あたしって、本当は気まぐれで野蛮な生き物だったのかもしれないわ」と彼女は言う。そして壁の反捕鯨闘士の写真がかつての恋人であるこ
 とを打ち明ける。こうした描写からアメリカの時代背景を見てとることができよう。事件は86年に起ったという設定だから、反捕鯨運動がまだ燃え盛っていた時期である。リタは数年前には恋人の影響もあって反捕鯨に熱中し菜食主義者になったが、新しい恋人「私」が
 できて、あっさり菜食主義を放棄してしまうというわけだ。ただし、最後近くで彼女は「私」に殺人の嫌疑をかけられていると知って失踪する。やがて彼女の無辜を知った「私」が探してみると、リタはグリーンピースに戻っていることが分かる。せっかく新しい恋人が
 できて新興宗教から足を洗ったのに、
439: 2009/01/07(水)01:49 ID:JXs04a9t(18/22) AAS
 殺人嫌疑にショックを受け逆戻りしてしまったのだ。『死の蔵書』がアメリカで出たのは、事件の設定年から6年後の92年。 70年代から80年代にかけての反捕鯨熱をある程度距離をおいて見られる時代である。作中には残念ながら反捕鯨を撤回するような言辞は見られな
 いが(そんなことを書くと環境保護団体からつるし上げを食い売上に響くのだろう)、少なくとも菜食主義に対するアイロニカルな視点ははっきり感じることができる。リタはある時期のアメリカ・インテリ層の典型的な行動様式を示しているが、よく考えればそこには
 大きな矛盾がひそんでいる。菜食主義者は、他人に自分の趣味を押しつける限りにおいて批判されるべき差別主義者になる、と私は先に書いた。捕鯨に関しては彼女はその押しつけを認め支持している。しかし自分の主義を他人に押しつけることがあくまで正しいと思う
 なら、捕鯨ばかりでなく一般の漁業や家畜の屠殺をも批判しやめさせなくてはならないはずである。だが彼女はそうした行動には走らない。一般漁業や家畜屠殺を批判することは、大多数のアメリカ人の食生活を批判することであるから、周囲の人間を敵に回す結果にな
 る。彼女はそうした行動には走らず、遠い日本やノルウェーの食生活に対してのみは強圧的な態度をとるわけだ。この安易さと身勝手さにアメリカ・インテリ層の大きな盲点があると言えよう。キリスト教や社会主義といった信じるべき大規範が失われた現代、カルトが
 流行するのはある意味では当然だろう。それはインテリであっても例外ではないし、むしろインテリの場合はもっともらしい理屈をつけてカルトを正当化するすべを心得ているだけいっそうタチが悪い。右では小説を例にとったが、フィクションだけでは説得力に欠ける
 から別の例を見よう。落語家・笑福亭猿笑に『くじら談議』(ブックマン社、1993年)という著作がある。彼は93年5月、「ニューヨーク・タイムズ」に捕鯨を擁護する意見広告を出した。この広告に寄せられた手紙がいくつか紹介されているが、中に「テキサス大学助
 教授ロバート・デュウリー」からの手紙がある。そのまま引用すると、
 
440: 2009/01/07(水)01:50 ID:JXs04a9t(19/22) AAS
 この人は多分、思考と行動において平均的な大学人よりかなり尖鋭的なのだろうが、これを読むとアメリカ・インテリの悲惨な思考形式がよく分かる。まず鯨の資源状態がどうなっているかなど事実をきちんとふまえる姿勢がまるでなく、自国の「捕鯨=悪」という偏
 見をはなから疑いもしない。そしてその偏見を他国に押しつけるにあたって、目下地球上で政治・経済・軍事面で最強を誇っている自国の力を用いることに寸毫のためらいも覚えない。まるで「僕んちのパパは社長だから、言うことを聞かないとお前の親父をクビにして
 もらうぞ」と威張る子供同然である。 歴史認識においても一方的で、「世界の警察官アメリカ」そのまま、自国は正義だと信じきっている。日本の大学教師にもひどいのがいるが、アメリカもそれに劣らないなと感心してしまう。ここは歴史認識を論じる場ではないか
 ら簡単に書くが、第二次大戦まで十数年間の日本が侵略的であったことを私は認めるけれど、だからといってアメリカが正義の味方であったということにはならないのである。アメリカは19世紀末から米西戦争など帝国主義的行動をとるようになり、植民地獲得に走った
 のだ。ヨーロッパ列強の猿真似をしたことでは日本と同じである。その結果獲得した植民地のうちフィリピンは独立しているが、ハワイはいまだにアメリカ領である。東条時代の日本を論難するなら、敗戦によって植民地を手放した日本に捕鯨問題で圧力をかける前に、
 ハワイ独立運動のために奔走するのが筋じゃないんですか。 (この項続く)

補論:鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』書評
441: 2009/01/07(水)02:19 ID:JXs04a9t(20/22) AAS
ここで補論として、96年春に出た鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)を紹介して内容を検討してみたい。 結論めいたことから言うと、これは「地球にやさしく」「自然との共生」といった流行のスローガンに惑わされることなく、自然保護とはいったい何
なのかをきちんとつきつめて考えた、大変すぐれた書物である。都市生活者が短絡的に「自然保護」を唱え、自然の中で暮らしている地元住民がそれに反対するという構図がしばしば見られること、「自然」と「人間」を二項対立的にとらえ前者を神化する思考様式の欠
陥、アメリカ自然保護思想家ソローが都市生活者であり啓蒙主義的な立場でものを言っていたに過ぎず、彼が「自然の中で」暮らした小屋は実際には都市に隣接していたこと、自然保護思想と超越主義とのつながり、自然保護思想家の唱える「地球全体主義」が文字どお
りの全体主義になりかねないこと、「原生自然」という観念の歴史的成り立ち、など、「自然保護」に関わろうという人間なら一度は考えておくべきこと・知っておくべきことがここにはぎっしり詰まっている。 特に自然と人間を対立的にとらえるのではなく、両者の
関わりの全体性を説く箇所は秀逸であるが、全体性という(ニューサイエンス風の)言葉を先走らせて物事を単純化・没論理化することを避け、あくまで分析的な作業の積み重ねで全体性を論証していこうという著者の堅実な姿勢は、右で批判した小原秀雄の、野生動物
や原生自然を絶対化してひたすら保護を唱える単純な物言いと比較すると知的レベルにおいて雲泥の差がある。私自身、漠然と考えていたことがこの本の中で様々な資料によりきちんと論証されているのに驚嘆したし、実に多くを教えられた。さて、そうした評価をはっ
きり書いた上で、この著書の中に出てくる捕鯨問題の扱われ方に触れてみたい。もとより捕鯨問題はこの本の中ではごく簡単に言及されているだけであり、著者からすればその部分で著書をあげつらわれるのは不本意であろう。実際、捕鯨に触れる最初のところで「詳し
くは論じられないが」と断っている。私もその点をあらかじめお断りした上で以下の感想を述べることにする。著者は、日本沿岸の捕鯨と南極海の捕鯨とを区別する。前者は地域と結びついた伝統的な文化的・社会的連関を多分に残しているので、都会市場への流通によ
り乱獲に陥る恐れがあるところをきちんと制限すれば問題ないとする。
1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.023s