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阿含宗という宗教 328 (1002レス)
阿含宗という宗教 328 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/
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606: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/12(木) 22:55:06 ID:VZHVYHqg >>601神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:42:19.94ID:rbXSUWMk >アナゴンは漏尽智を得たらもう阿羅漢だから「阿羅漢に属する」 >と表現されているわけで、アナゴンが漏尽智を得られないわけではない。 「アナゴンが漏尽智を得られないわけではない」というのだから、 アナゴンのまま漏尽智を得られると彼は書いたことになる。 だが、漏尽智はアラカンしか持てないから、アナゴンは漏尽智は持っていない。 脈絡のないことを書いて、誤魔化そうとしても無駄です。 「漏尽智で煩悩を切る」には、 ・アナゴンが漏尽智で煩悩を切る、 ・漏尽智はアラカンしか持たない、 という二つが同時に成り立たないといけない。 だが、二つは矛盾し成り立つはずがない。 アナゴンが、アラカンしか持たない漏尽智でどうやって煩悩をきるのだ? 他の信者さんたちは私の質問をもう一度考えてください。 漏尽智で煩悩を切ったのはアナゴンなのか、アラカンなのか?(>>591) 煩悩を切るのがアナゴンなら、アナゴンが漏尽智を持つことになり矛盾。 煩悩を切るのがアラカンなら、アラカンが煩悩を持つことになり矛盾。 これを見れば「漏尽智で煩悩を切る」など成り立たないことはあまりに明瞭です。 前に示したように矛盾はこれだけではない。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/606
607: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/12(木) 23:06:10 ID:VZHVYHqg >>601神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:42:19.94ID:rbXSUWMk >アナゴンは漏尽智を得たらもう阿羅漢だから「阿羅漢に属する」 >と表現されているわけで、アナゴンが漏尽智を得られないわけではない。 ・漏尽智で桐山さんのいうカルマを切るという学説や阿含経はどこにあるのか ・アラカンに属する漏尽智でどうやってアナゴンが煩悩を切るのか ・シュダオンやシダゴンは漏尽智以外の何によって煩悩を切るのか ・漏尽智で煩悩を切るという阿含経はどこにあるのか ・岩波仏教辞典になぜ漏尽智で煩悩を切るとないのか 漏尽智で桐山さんのいうカルマ(桐山カルマ)を切るという経典も学説もありません。 そもそも、桐山さんのいうカルマは仏教には存在しない。 「漏尽智で煩悩を切る」などと言ったら、漏尽智を持たないシュダオンや シダゴンは煩悩を切ることができなくなる。 漏尽智で煩悩を切るという阿含経は存在しません。 彼は沙門果経がそれだと言っているが、この後で、彼の説の自滅を説明します。 岩波仏教辞典には「漏尽智で煩悩を切る」などありません。 ペテン大作さんは省略したのだという爆笑説を唱えている。 煩悩を切るという仏教の根幹にかかわることを省略するなどありえない。 これだけでも、ペテン大作さんの601で引用している中村博士の文言は 「漏尽智で煩悩を切る」という意味ではないと普通の国語力のある人は判断します。 そのことは彼が602で引用している沙門果経にそのまま出ているのに、 彼は何年も自分で引用しながら、気が付かない。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/607
608: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/12(木) 23:20:09 ID:VZHVYHqg >601「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 (『広説佛教語大辞典』中村元、東京書籍、1776頁) >602「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、 巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。 そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」 (『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁) 602は沙門果経の漏尽智の初めの部分で、これよりも前に解脱しているのか、 これから漏尽智で解脱するのかという問題です。 私は「心が統一され、・・・不動となった」が解脱を表わすと主張し、 ペテン大作さんはそうではないという。 彼は自分で引用していて、まだ矛盾に気がついていない。 中村博士の「けがれを滅する智」(『広説佛教語大辞典』)とは 「煩悩を断つという意味になる」(>>601)とペテン大作さんは書いている。 つまり彼は「けがれ=煩悩」と認め、これは仏教的にも正しい。 一方、上記の沙門果経では「よごれなく、汚れなく」とありますから、 これも「煩悩を断つという意味になる」(>>601)。 つまり、上記の経典では「よごれなく、汚れなく」とあるのだから、 すでに煩悩を断ち、解脱していることになる。 「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、 巧みで、確立し不動となったときに」 とは、解脱した時に、という意味です。 「真っ赤な嘘」(>>602)とペテン大作さんは吠えているが、 漏尽智の前に解脱していると中村博士が書いていることを、 ペテン大作さんが自分で引用しているのに気が付かない!?? 上記の二つを彼はずっと引用して、私はこれは解脱だとずっと 説明して来たのに、何度説明されても彼は理解できない。 つまり、彼は上記のこの程度の長さの二つの文章を同時に検証することができない。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/608
609: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/12(木) 23:37:15 ID:VZHVYHqg 「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 (『広説佛教語大辞典』中村元、東京書籍、1776頁) 「汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた」 (『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁) 他の信者さんたちは、中村博士の「あらゆるけがれを滅する智」が 沙門果経の「「汚れを滅す智」から来たのがおわかりでしょう。 「煩悩(汚れ)を滅する智」を漏尽智で煩悩を切るとペテン大作さんは短絡した。 沙門果経を読んでいながら、矛盾に気が付かないのが驚異的です。 先に申し上げたように、「汚れなく」(>>602)とあるのだから、 煩悩(汚れ)がない、つまり、すでに解脱しているのです。 解脱した時に、「煩悩(汚れ)を滅する智」に心を向けたというのだから、 漏尽智とは解脱した後の智慧です。 煩悩はすでに切られているのだから、「煩悩(汚れ)を滅する智」が 煩悩を切るという意味でないことは当たり前です。 上記の経典の後に四諦の説明が出てきます。 つまり「煩悩を滅する智」とは四諦(苦集滅道)のことです。 すべては苦であり、その元は煩悩だから、煩悩を断ち切れば苦がなくなり、 煩悩を断ち切る方法とは八正道であるという、あの四諦です。 四諦は仏教のすべて、解脱のすべてですから、確かに「煩悩を滅する智」です。 苦とその元を断ち切ることを知性で説明し、四諦の中の「道」である八正道で 煩悩を断ち切るのだから、確かに「煩悩(汚れ)を滅する智」です。 沙門果経の流れでは、「汚れなく」(>>602)となって解脱した後、 「煩悩を滅する智」である四諦を再度すべておさらいしている。 このように「煩悩を滅する智」とは、煩悩を断ち切るという意味ではなく、 四諦で解脱を確認することです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/609
610: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/12(木) 23:48:08 ID:VZHVYHqg *漏尽智で煩悩を切るなどアニメ解脱 他の信者さんたちも、漏尽智とか漏尽通という超能力のようなもので 煩悩やカルマをバシッと切ると信じている。 だが、沙門果経では、解脱した後も、何度も解脱の内容に誤りがないか、 徹底的に確認を繰り返すのを漏尽智と言っているのです。 釈尊はバラモンたちの三明に対して、これこその真の三明であると宣言した。 釈尊のいう真の三明とは実は漏尽通という超能力でも、明知と呼ぶような 神秘的な智慧でもなく、漏尽解脱そのものだと気が付きませんか。 漏尽智とは四諦体得の確認なのだから、当たり前です。 信者さんたちの多くが桐山さんから神通力という超能力で バシッと切るんだというアニメ仏教を教えられている。 その典型がペテン大作さんで、彼は今回の説明を読んでも、 まだ意味がわからず、また深山は説明をしていないと書くでしょう。 漏尽通という超能力で煩悩を切るという子供っぽい考えから 一歩も出られないからです。 彼は子供時代に見たアニメの超能力ゴッコから抜けられない。 チャクラが覚醒して、光がバーッとやってきて解脱して、朝日に向かって 滂沱と涙を流しながら「我解脱せり」と法悦に浸るのだと信じている。 他の信者さんたちは、アニメ解脱を信じているペテン大作さんを 半面教師にして、子供じみた阿含宗の信仰の愚かさを自覚することです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/610
611: 桐山靖雄 [] 2022/05/13(金) 07:08:49 ID:RD8JcaIc >>583 こら、はやく深田靖阿の死因を公表しろよ! 阿含宗二代目管長猊下として きちんと因縁切れているか 判断できねえだろうが! http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/611
612: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/13(金) 21:20:27 ID:lOEl88lI まあ22日に深田さんの宗葬があっても、亡くなった時の具体的詳細なんてのは明かされないでしょうね。 そこのところは示さないまま故人を偲ぶ会にするのだと思います。 そうこうしてうやむやにするんじゃないですか。 どうせ信者も質問も追及もしねーし。 もともと世の中に必要ともされないどうでもいい団体なんですよ。 だから後は信者各位が自分はどう関わるか関わらないかですね。 こちらは教団を潰そうとも面子を潰そうとも思ってません。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/612
613: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/14(土) 10:07:05 ID:i5tayoMz *阿含宗はカルマ解脱(因縁解脱) 他の信者さんたちは、ペテン大作さんが阿含宗の重大な教義であるカルマ解脱が 真っ赤な嘘であることを文献をもって示してくれたのだから、 何をどう議論しているのか、良く見てください。 十数年前の議論の始まりは、「何によって因縁解脱するのか」というテーマでした。 ところが、ペテン大作さんは途中から因縁解脱ではなく、煩悩解脱の議論にすり替えた。 なぜなら、仏教には因縁解脱なんてないからです。 今回も私からこの件を質問され、卑怯者の彼らしく桐山カルマという言葉尻を 捕らえて「逃げた」。 それも、桐山さんの漏尽智の説明だけを引用するという卑怯者ぶりです。(>>578) だから、>>610の「半面教師」を「反面教師」と修正しておきます。 彼は因縁をつけたい人だから、変換ミスまで真っ赤な嘘と言いかねない。 阿含宗では神通力でカルマを断ち切るというのが教義ですから、 その神通力とは何かというと、消去法で漏尽通しかありません。 また文献3(>>498)などでも阿含宗はそのように述べています。 そこで昔、私が漏尽通でカルマや煩悩を切るという阿含経はどれかと いう質問にペテン大作さんが出したのが沙門果経です。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/613
614: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/14(土) 10:18:02 ID:i5tayoMz >>602神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:52:24.56ID:rbXSUWMk 「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、 巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。 そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」 (『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁) ↑これが沙門果経で漏尽智が出てくる場面で、ペテン大作さんは 「汚れを滅する智」とあるのだから、漏尽智で煩悩を切るのだと主張した。 カルマを切るという話から逃げるのは毎度のことです。 私の「心が統一され、・・・、確立し不動」が解脱なのだという主張に、 >心が統一、心が安定とは三昧、禅定のことであり解脱の意味など全く無い。(>>602) と毎回反論して来た。 これに対して私は、仏教の三昧、定とは、煩悩に心が攪乱されないことであり、 この経典では解脱を表わしていると反論した。 後で申し上げるが、他の訳でははっきりと煩悩から解放されたことが書いてあります。 それを何度引用しても、彼は無視して、心の安定だけを引っ張り出した。 解釈が違うのだから、それぞれの意見が出尽くしたら、判断は読者に 任せればいいだけです。 ところが心の安定の話を彼は十数年にわたり、蒸し返し続けた。 なぜなら、他に私に難癖をつけられるネタがなかったからです。 そして二年前、彼はさらに次の難癖ネタを見つけて、大ハシャギをした。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/614
615: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/14(土) 10:29:48 ID:i5tayoMz >>601「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 (『広説佛教語大辞典』中村元、東京書籍、1776頁) ↑は漏尽智で煩悩を断ち切るとも読める記述です。 彼は勝利を確信して、欣喜雀躍で「深山破れたり!」と毎回引用する。 ところが、彼はその隣にある「阿羅漢に属する」を読んでいなかった。 自分で引用していて読んでいないというのも、彼らしい。 自説に都合の良い文章以外は目に入らないのです。 普通、漏尽智がアラカンに属するなら、アナゴンが漏尽智で 解脱するなんて間違いだと気が付きます。 つまり、漏尽智で煩悩を切るという解釈が間違いだと気が付く。 だが、彼の知性は普通ではないから、気が付かなかった。 私は、漏尽智がアラカンに属するなら、漏尽智を持たないアナゴンが どうやって漏尽智で煩悩を切るのかと、矛盾を指摘した。 ペテン大作さんらしく、瞬間解脱という珍説を出して、逃げた。 こういう愚かな説を出して、彼は自分では頭が良いつもりなのでしょう。 だが、そんな誤魔化しが通用するはずもなく、 煩悩を切るのがアナゴンなら、アナゴンが漏尽智を持つことになり矛盾。 煩悩を切るのがアラカンなら、アラカンが煩悩を持つことになり矛盾。 今回、両方の文言を引用しながら、彼は自分の主張との矛盾に気が付かなかった。(>>608) ペテン大作さんはどんなに矛盾を指摘されても、 詭弁を使うか、無視して、同じ主張を繰り返すかどちらかです。 信者さんたちに助言だが、信仰を抜きにして、こういう真似はしないほうがいい。 知性と良識を疑われ、信用を失います。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/615
616: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/14(土) 10:40:06 ID:i5tayoMz >>601神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:42:19.94ID:rbXSUWMk >「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 >(『広説佛教語大辞典』中村元、東京書籍、1776頁) >あらゆるけがれを滅するとは煩悩を断つという意味になる。 >>602神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:52:24.56ID:rbXSUWMk 「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、 巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。 そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」 (『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁) この二つの文章が、ペテン大作説「漏尽智で煩悩を切る」を否定している ことに彼は気が付かなかった。 601で「けがれ=煩悩」だとペテン大作さんは認めている。 一方602の沙門果経では、 「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで・・・」(>602) とあるのだから、この経典での「よごれなく、汚れなく」とは 「煩悩がない」という意味になると彼は認めたことになります。 仏教で煩悩がないとは解脱したという意味です。 つまり、「かくのごとく・・不動」という文章は解脱したという意味です。 漏尽智の前にすでに解脱しているのです。 >漏尽智の前に解脱したという深山説は真っ赤な嘘です。 >彼はその破滅的な読解力で経典を破壊したのです 「かくのごとく・・不動」(>602)が解脱ではないと主張している彼こそが、 十数年にわたり彼の壊滅的な読解力から、「真っ赤な嘘」を唱え続けた。 ただ、彼の説など成り立たないことは今回初めではなく、前から証拠を示しました。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/616
617: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/14(土) 10:52:57 ID:i5tayoMz 「かくのごとく、心清浄にして、煩悩すでになく、煩悩の枝末をも遠離して、 身心柔軟、いつでも活動できる状態にあり、しかも、安らかに住して不動の 状態にある時、いまや、比丘は、心を智見に傾注する。」 (『阿含経典 第五巻』増谷文雄、258頁) 「(次に)このようにして心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、 小さな煩悩からも離れ、柔軟になり、機敏にものに応ずるもの、しかも、 (それ自らは)堅固な不動のものとなると、比丘は(次のような)知による 洞察(智見)に心を傾け、心を向けます。」 (『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』中央公論社、531-532頁) これらは>>602と同じ部分の訳で「煩悩すでになく、煩悩の枝末をも遠離して」 「小さな煩悩からも離れ」と煩悩からの解放、つまり解脱したと述べています。 そして解脱した後で「知見」、つまり漏尽智に心を向けるとある。 これをペテン大作さんに何度示しても、彼は話をそらし「心の安定は解脱ではない」の 一点張りで、「煩悩すでになく」という文言を見ようともしない。 だから、今回、「汚れなく」が入っているのだから解脱であるというのは、 新しい話ではなく、これまでもずーーーーーっと私が書き続けたことです。 だが、彼は無視して、「心の安定は解脱ではない」(>>602)しか書かない。 これを彼は十数年、執念深く繰り返している。 現実世界でも、相手が黙るまでしつこく主張を繰り返しているのでしょう。 漏尽智の前に煩悩からの解放と書いてあることを認めてしまったら、 彼の漏尽智で解脱するという説が成り立たない。 だから絶対に「煩悩すでになく」と書いてあると認めるわけにはいかないのです。 目の前にある文言を何度示しても十数年間、無視して、まだ真っ赤な嘘だ と言い続けている・・いったい彼の知性と良識はどうなっているのだ?! http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/617
618: 深山 ◆lDoupiXSYZNC [sage] 2022/05/14(土) 11:04:37 ID:i5tayoMz >>602神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:52:24.56ID:rbXSUWMk 「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、 巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。 そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」 (『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁) ここまでで、他の信者さんたちは↑の「心の統一(心の安定)」が解脱のことか、 違うか、どちらだと思いますか? 普通の国語力では、「・・・心が統一され、清浄で、きよらかで、 よごれなく、汚れなく、柔かで、巧みで、確立し不動と・・」の文章は、 「心が統一=清浄=きよらか=よごれなく=汚れなく=柔か=不動」 と読めますから、「汚れなく=煩悩がない=解脱」となり、 当然、「心の統一=解脱」です。 こういう文章構造の説明を何度も繰り返したが、彼の知性では理解できない。 釈尊は例えが巧みで、また一つの内容を様々な言葉や表現をして、 繰り返すことで、聞いている相手に理解をさせた。 釈尊は、煩悩からの解放の大切さを大王に理解させたいから、心の安定、 汚れがないなど素人の大王にもわかるような普通の言葉を用いて強調した。 大王はこの例えを理解しました。 ところが、二千五百年後の東の島国のオカルト宗教の信者は、十数年、それを 説明され続けても、ついに理解できなかった。 もちろん、これからも彼はついに理解できない。 漏尽智の前に解脱しているのです。 念のために言うが、これは仏教の常識です。 それなら、漏尽智が「阿羅漢に属する。」も筋が通ります。 漏尽智で、煩悩を切るなど嘘です。 漏尽智で、桐山さんのいうカルマを切るなどなおさら嘘です。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/618
619: 桐山靖雄 [] 2022/05/15(日) 08:46:39 ID:Lyvwbnr4 >>583 >深田さんみたいな死に方をして早く死ねば良いのに だから、深田靖阿はどういう死に方を したのか教えて下さい。 そもそも、阿含宗二代目管長猊下にたいして そういう言いぐさはどうなんですかね? 尊敬の念がまるで、感じられませんが? http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/619
620: 神も仏も名無しさん [] 2022/05/15(日) 16:06:15 ID:bT7Ka6UI ≻≻614 ≻これに対して私は、仏教の三昧、定とは、煩悩に心が攪乱されないことであり、 この経典では解脱を表わしていると反論した。 逃げているのは深山さんの方です。 あなたが引用したスッタ・ニパータの「心の安定」の註はどうしたのですか? そういうゴマカシはいけません。 「心の安定ー原語samadhiは「三昧」と音訳される。心を統一して思うこと。 漢訳仏典では「禅定」ということばで訳されるが・・・」 (『ブッダのことばースッタ・ニパータ』中村元訳、岩波文庫、300頁) 三昧や禅定はどう転んでも解脱にはなりません。 “おまえはもう〇んでいる”(古いギャグ)です。 男なら潔く諦めなさい。 ここで負けを認めても批判側は誰もあなたを見捨てないだろうから安心しなさい。 ≻≻615 ≻≻私は、漏尽智がアラカンに属するなら、漏尽智を持たないアナゴンが どうやって漏尽智で煩悩を切るのかと、矛盾を指摘した。 ≻ペテン大作さんらしく、瞬間解脱という珍説を出して、逃げた。 珍説どころか卓見wと言えます。 アナゴンは確かに漏尽智を得て解脱したのです。 しかし漏尽智を得ればもうアラカンなのだから漏尽智はアラカンに属するのです。 もしこの説明が間違っているのなら、どうしてアナゴンが漏尽智を得られるのかということになる。 「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。」という中村氏の文章と矛盾してしまうのです。 だから私の説明で良いのです。 「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」 この説明は深山説が間違いであることを証明しています。 また中村氏の説明は他の仏教辞典とも矛盾していません。 「是れ即ち一切の有漏煩惱を斷盡し、我が生すでに盡き、梵行すでに立ち、 所作すでに辨じて復た後有を受けじと證知するを漏盡智と称し、 四根本静慮を依持とし威徳殊勝を示現するを漏盡智通と名づくることを設けるものなり。」 (『望月佛教大辞典 第五巻』、望月信亨、世界聖典刊行協会、5082頁) 漏尽智とは煩悩を断ち、それを確認する神通のことです。 煩悩断ちから確認までの一切を漏尽智というのです。 これで深山説は木っ端微塵に粉砕されました。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/620
621: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/15(日) 17:01:54 ID:DWiU60xl >>620 あっ、そう。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/621
622: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/15(日) 18:39:13 ID:DWiU60xl >>620 神も仏も名無しさん 2022/05/15(日) 16:06:15.96 ID:bT7Ka6UI >男なら潔く諦めなさい。 プッ、子どもみたいw >「是れ即ち一切の有漏煩惱を斷盡し、我が生すでに盡き、梵行すでに立ち、 >所作すでに辨じて復た後有を受けじと證知するを漏盡智と称し、 >四根本静慮を依持とし威徳殊勝を示現するを漏盡智通と名づくることを設けるものなり。」 >(『望月佛教大辞典 第五巻』、望月信亨、世界聖典刊行協会、5082頁) >漏尽智とは煩悩を断ち、それを確認する神通のことです。 >煩悩断ちから確認までの一切を漏尽智というのです。 いや、「『一切の有漏煩悩を斷盡し・・・後有を受けじ』と證知するを漏盡智と称し」と読むべきでしょう。 煩悩を断つ作業はいつから始まってますか? もうそれこそまだシュダオンにもなっていないペイペイの新米の頃から始まっているではありませんか。 しかし長年の修行でもってようやく全ての煩悩が断尽されるわけです。 だったら漏尽智というのは仏教修行そのものになります。 しかしそれではおかしいではありませんか。 いつからの漏尽智という修行が始まるのですか? そうではなく、やはりこれは仏教修行の最後の結果として全ての煩悩を断尽したと證知するのが漏尽智であって、 漏尽智というある時からある時までの修行法があるのではありません。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/622
623: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/15(日) 18:53:20 ID:DWiU60xl >>620 神も仏も名無しさん 2022/05/15(日) 16:06:15.96 ID:bT7Ka6UI >あなたが引用したスッタ・ニパータの「心の安定」の註はどうしたのですか? そういうゴマカシはいけません。 >「心の安定ー原語samadhiは「三昧」と音訳される。心を統一して思うこと。 漢訳仏典では「禅定」ということばで訳されるが・・・」 >(『ブッダのことばースッタ・ニパータ』中村元訳、岩波文庫、300頁) >三昧や禅定はどう転んでも解脱にはなりません。 だから三昧も禅定も心の安定ならば解脱も心の安定なんです。 解脱していない修行者でも瞑想三昧に入って心の安定を得ることはできます。 ただし定が解ければまた煩悩が沸き起こるから解脱しているとは言えない。 ところが沙門果経のここの部分の表現を読むと、あらゆる煩悩を離れ、小さな煩悩も離れと書いてあるのだから、 これはもう解脱していることと分かります。 しかも四禅を終えた後の話です 解脱した人が禅定に入っても心の安定であるし、解脱してない人が禅定に入っても禅定の最中は心が安定してるわけですね。 だからどちらも心の安定なんですが、解脱はいつでもどこでも全き心の安定ということですね。 じゃあその心の安定は四禅によって得られたかと言うとそうではない、それだけではないということです。 それは長年の修行で培った結果です。 だから解脱した人が四禅の心の安定の状態に入ってその禅定定を解いても、心は全ての煩悩を離れ安定していると、 この経典は書いているのです。 解脱した人は常に心が安定しているのです。 そして解脱は心の安定に他なりません。 なぜなら怒りだの恨みだのそういう煩悩がないから心が安定しているのです。 あなたのように早く負けを認めなさいなんて攻撃の煩悩丸出しの心の不安定の状態ではないんです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/623
624: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage] 2022/05/15(日) 19:01:58 ID:DWiU60xl 煩悩とは何であるか?煩悩が減りなくなるというのはどういうことなのか? まだイメージがつかめてないなあ。 考えたこともないんだろう。 これが分かるとまさに心の安定に他ならないと分かります。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/624
625: 神も仏も名無しさん [sage] 2022/05/15(日) 21:14:12 ID:l/RnbaMs >>621 いちいちキチガイ深山擁護に出てるくるな! この腐れ朝鮮短小糞ユビキタス! 引っ込んでろ! http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1647056496/625
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