[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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(1): 桃太郎 2021/03/05(金)11:13 ID:h4+aKXqR(1/8) AAS
ほらほら、早速「言ってる事が支離滅裂で主張に一貫性が無い。 」

>預流果の人多いと思うけど

はあ?(驚
ちなみに、ググると

(1) 預流向 - 欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつある間
(2) 預流果 - 見道のそれらの煩悩を断じ終って、もはや地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちることがなくなる状態

つまり、「欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じ終った人」と言うことだね。
省13
249: 桃太郎 2021/03/05(金)16:27 ID:h4+aKXqR(2/8) AAS
>>248

結局、それって「宗教はなんでも良く、実践して自分が納得すればそれでよい」と言うことでしょう。

ISIS信者が「この宗教は神の名の下に人を殺して良いのだ」と自分で納得して、その宗教を信じるようなものだ。
凡夫の智慧で、大した根拠も無く、そのときの気分で教えの高低浅深を推し量るのは危険すぎると思う。

テラワダ信者が、「なんとなく悟った気分になった」だから、テラワダを信仰する。
というような軽い感じではダメだと思う。

法四依(ほうしえ)
外部リンク:ja.wikipedia.org
省6
251: 桃太郎 2021/03/05(金)16:48 ID:h4+aKXqR(3/8) AAS
日本テラワダは、本場テーラワーダ王国のミヤンマーと違って、前例のごとく社会や人々の救済にデモをして立ち上がるわけでも無く
独特の思想体系をもっているように思える。

ハッキリいって日本の特に若年層の社会に適合できないニートをカモとして
それらの人々のニーズに合わせたような教義展開をしているように思える。

ゆえに、ニートは、喜んで飛びつくわけだ。
しかも、まわりからどんなに非難されようとも、自分は「阿羅漢を目指す修行者」として自身を正当化出来るからね。

しかし、空しいかな現実は何一つ変わらないんだよね。
やればやるほど、世間離れした虚無の世界に入り込んで自分を見失う。

法華経には、「末法においては、邪法の僧等が充満し、誤った宗教を信じて人々は不幸になるだろう。」
ゆえに「法華経を強いて説き聞かせて行きなさい」と説いてある。
省1
253: 2021/03/05(金)16:55 ID:h4+aKXqR(4/8) AAS
>>250

「実践すれば分かる」という自分を無条件に信頼している矛盾を理解できていないようですね。

ようするに、分かったかどうかは自分で判断するしかないのに、その凡夫の愚かな知恵を頼りにしている時点でおかしいんだよ。
仏に仕えて「舎利弗」のように釈尊から直接仏の記別を与えられるならともかく
師匠もいないのに、お先真っ暗の凡夫の智慧で「ハイ!悟りました」なんて噴飯物でしょ。(苦笑
254: 桃太郎 2021/03/05(金)16:56 ID:h4+aKXqR(5/8) AAS
たぶん、他者に対して「分かってない」と言っている自分が、実は一番分かってないと思うよ。
258
(1): 桃太郎 2021/03/05(金)18:00 ID:h4+aKXqR(6/8) AAS
>実践するということは簡単に言えば何も信じないということです
>だから宗派も経典も関係ない

じゃ、完全な新興宗教ですね。(笑

と、言いながら

>ヴィパッサナーや坐禅は何も信じないようにしていためのく瞑想方法なだけですね

という教えを信じているじゃないですか。矛盾してませんか?
省8
259: 桃太郎 2021/03/05(金)18:01 ID:h4+aKXqR(7/8) AAS
ここで大事なのは、法と仏の関係です。

「法」には「教え」という意味も含めて、さまざまな意味があるが、結論を言うと、釈尊が「法」と呼んでいるものは、実は「永遠の仏」の生命と別のものではない。
「永遠の仏」の法身(法を体とする仏身)のことと考えられる。少し飛躍した言い方になるが、釈尊が「永遠の法」を悟ったというのは、
イコール「永遠の仏」を自身の内に見た、ということと考えられる。
法華経から見るならば、「法を依りどころとせよ」という教えは、根本的には、「永遠の仏」を師とせよ、との遺言であったのです。
何より釈尊自身が、その「永遠の仏」を師として悟りを開いたのです。

ここで「自らをたよりとせよ」というのも、もちろん単なる「自分」ではありません。自分が頼りにならないことは自分が一番よく知っています。
「心の師」となれということです。私どもで言えば、正しき信心(仏の教え)に生き抜けということです。その自分は「依りどころ」になる。

日蓮大聖人は「一生成仏抄」で「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せです。法といっても自分の心を離れてはありえないわけです。
法と人(仏)は本来、不可分なのです。「如来」というのも「如(真如・真実の世界)からやって来たもの」ということです。
省1
260: 桃太郎 2021/03/05(金)18:06 ID:h4+aKXqR(8/8) AAS
テラワダ諸君は「自らをたよりとせよ」という事を単純に、「愚かな凡夫の自分を頼れ」と勘違いしている。
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