[過去ログ] 【歴史】「戦国武将の父」 織田家 尾張統一の礎を築いた信秀の実像[04/04] [無断転載禁止]©bbspink.com (3レス)
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1: 逢いみての… ★ 2020/04/04(土)23:14 ID:CAP_USER(1/2) AAS
 現在、放送中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で俳優の高橋克典が演じている織田信秀。のちに尾張統一を成し遂げて天下人となる織田信長の父は、どんな生涯を辿ったのだろうか。

 かつて尾張は応仁の乱(1466〜1477年)で有力大名が東西両軍に分かれて戦ったことを元凶に、政治状況が複雑化して上四郡と下四郡に分かれ、斯波義廉(西軍)と斯波義敏(東軍)が家督を争った。

 すると、織田氏もまた、それぞれ上四郡と下四郡の守護代だった「織田伊勢守家」と「織田大和守家」が義廉と義敏の両派に分かれ、双方の間で抗争が繰り広げられた。

 大和守家の織田敏定が当時、守護所だった下津城(稲沢市)を焼き、清洲城をその代わりにしたことで、尾張の戦乱が拡大する中、実権が両織田氏に移り、さらに双方の重臣(奉行)が勢力を振るい始めた。典型的な下剋上である。

 このうち、大和守家である下四郡守護代の奉行が織田因幡守家と織田藤左衛門家の二家に加えて、歴代の当主が弾正の忠を称した信秀と信長父子の織田弾正忠家である。その居城はもともと勝幡城(愛西市、稲沢市)で、伊勢と交易したことで栄えた港町の津島が近くにあり、ここを押さえる津島衆に対して安堵する書状を発給していたのが祖父、つまり信秀の父である織田信貞(定)。
省15
2: 逢いみての… ★ 2020/04/04(土)23:14 ID:CAP_USER(2/2) AAS
 通説によれば、信秀は天文一三年(1544)に越前の朝倉勢とともに、守護代・斎藤利政(道三)の居城である稲葉山城(岐阜市)の城下近くにまで攻め寄せた。一説では合わせて二万五〇〇〇の大軍だったともされ、道三はこのとき、籠城と決めて城下近くの村々は織田勢に蹂躙されたものの、日没近くになり、信秀が軍勢を一度、退き始める機会を待っていた。

 稲葉山城の城門が開くと、斎藤勢が出撃して、背後から織田勢に攻め掛かった。不意を衝かれた形の織田勢は崩れ立ち、木曽川に逃れて溺死者が後を絶たなかったとされ、信秀は五〇〇〇の犠牲を出して大敗した。

 ドラマ『麒麟がくる』では、以上の合戦が天文一六年(1547)の出来事として描かれている。では、一三年と一六年のどちらが正しいのか。

 連歌師の宗そう牧ぼくが斎藤勢に大敗した直後に当時、那古屋城にいた信秀を訪ね、それが天文一三年であることから、ドラマの天文一三年説は誤りとなるが、NHKに代わって弁解するなら、各史料から信秀が天文一六年にも稲葉山城を攻めて大敗したと読むことができる。

 一方、『信長公記』の記述が年次を欠くために断定できないが、道三は翌天文一七年九月、勝ち戦に乗じて織田方の城になっていた大垣城を攻め、信秀が救援に駆けつけたことから兵を引いた。
省3
3: 2020/04/04(土)23:30 ID:O5VcLI9I(1) AAS
そもそも 織田信長って存在してたん?
見たことがねーし
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