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478: 2018/02/26(月)19:32 ID:0(478/1000) AAS
伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇。
書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。
後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。
479: 2018/02/26(月)19:33 ID:0(479/1000) AAS
持明院統の後深草上皇の働きかけにより、建治元年(1275年)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで後宇多天皇の皇太子になる。
弘安10年(1287年)、後宇多天皇の譲位により即位。
これ以後、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代がしばらく続くことになる。
後深草上皇は2年余りで院政を停止したため、以後天皇親政が続く。
正応2年(1289年)、自分の皇子である胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる。
480: 2018/02/26(月)19:34 ID:0(480/1000) AAS
正応3年(1290年)には宮中に浅原為頼の一族が押し入る天皇暗殺未遂事件が起きる(浅原事件)。
この事件は初め、北条氏による霜月騒動により所領を没収されたことによる反抗かと思われたが、
後に三条実盛の関与が発覚し、亀山上皇が裏で策動していたと言う疑惑があった。
481: 2018/02/26(月)19:35 ID:0(481/1000) AAS
治世中門閥貴族による政治の打破などに力を入れるが、幕府の干渉が強まると永仁6年(1298年)、後伏見天皇に譲位して院政を執り行った。
しかし、幕府による両統迭立の考えのもと、後宇多上皇の皇子・邦治親王(後二条天皇)が立太子し、3年後の正安3年(1301年)には、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位した。
両統迭立の方針に従い、皇太子には伏見上皇の第四皇子・富仁親王(花園天皇)が立てられた。
延慶元年(1308年)、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷いた。
正和2年(1313年)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだ。文保元年1317年、崩御。
482: 2018/02/26(月)19:35 ID:0(482/1000) AAS
伏見天皇の親政・院政時代は、持明院統と大覚寺統が解決策を見つけられず綱引きをしていた時代である。伏見天皇の政治は皮肉にも政敵である亀山上皇の政策を踏襲したものであり、
朝廷における訴訟機構の刷新や記録所の充実などにより政治的権威の回復に積極的に取り組んだ。
また、皇位継承に介入する鎌倉幕府に対して強い不信感を持ち、在世中は倒幕画策の噂が立てられるほどであった。
このため、伏見天皇の和歌の師で一番の側近であった京極為兼が二度も流刑となっているのは、伏見天皇が反幕府的な動きを取ったことに対する見せしめではないかという説も唱えられている。
483: 2018/02/26(月)19:36 ID:0(483/1000) AAS
後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇
484: 2018/02/26(月)19:37 ID:0(484/1000) AAS
中宮西園寺鏱子(永福門院)の養子となり、その手元で育てられた。正応2年(1289年)、数え2歳で立太子。永仁6年(1298年)、父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位。伏見上皇が院政を執り行った。
485: 2018/02/26(月)19:37 ID:0(485/1000) AAS
2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、正安3年(1301年)、大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子・後二条天皇に譲位した。
この際、新たに上皇となった後伏見はまだ14歳で皇子がなく、次の皇太子には異母弟の富仁親王(後の花園天皇)がなった
486: 2018/02/26(月)19:37 ID:0(486/1000) AAS
徳治3年(1308年)、後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位。しばらく後、伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで正和2年(1313年)から文保2年(1318年)の間、院政を敷いた。
花園天皇の在位の間、幕府と折衝し持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すと言う取り決めを行おうとした(文保の御和談)が失敗に終わった(両統迭立を参照)。
487: 2018/02/26(月)19:38 ID:0(487/1000) AAS
文保2年(1318年)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。
その皇太子には大覚寺統の邦良親王(後二条天皇皇子)がなり、後伏見上皇の皇子
・量仁親王(光厳天皇)はその次の皇太子となることが決められた。
嘉暦元年(1326年)に邦良親王が病死し、幕府の裁定で量仁親王がようやく皇太子に
立った。しかし、後醍醐天皇は譲位に応じず、元弘元年(1331年)幕府に反旗を翻し、捕らえられた。
幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行った。
488: 2018/02/26(月)19:39 ID:0(488/1000) AAS
元弘3年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした。
しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。
489: 2018/02/26(月)19:40 ID:0(489/1000) AAS
元弘3年(1333年)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、北条仲時らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした
。しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪した。
490: 2018/02/26(月)19:40 ID:0(490/1000) AAS
明正天皇(めいしょうてんのう、元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日))は、
第109代天皇(在位:寛永6年11月8日(1629年12月22日) - 寛永20年10月3日(1643年11月14日))。女帝(女性天皇)。
幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる。
491: 2018/02/26(月)19:41 ID:0(491/1000) AAS
後水尾天皇の第二皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の娘・東福門院源和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。
492: 2018/02/26(月)19:42 ID:0(492/1000) AAS
寛永6年(1629年)の紫衣事件や将軍・徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に関して、江戸幕府への憤りを覚えた父・後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け[1]、興子内親王として7歳で践祚した。これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。
493: 2018/02/26(月)19:42 ID:0(493/1000) AAS
後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布した。その二条目は次のようなものであった。
494: 2018/02/26(月)19:42 ID:0(494/1000) AAS
女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事
495: 2018/02/26(月)19:43 ID:0(495/1000) AAS
女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮(明正天皇)に皇位を預け、皇子誕生の後に譲位するというものである。
明正天皇の治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなかったとされる。
寛永20年(1643年)21歳で異母弟・紹仁親王(後光明天皇)に譲位して太上天皇となった。
のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年(1696年)に崩御した。享年74。
496: 2018/02/26(月)19:43 ID:0(496/1000) AAS
明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。
497: 2018/02/26(月)19:44 ID:0(497/1000) AAS
明正天皇は徳川将軍家を外戚とする唯一の天皇である。これを機に『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したことを意味する。しかし朝廷内においては、院政を敷いた後水尾上皇が依然として実権を握っていた。
院政は本来、朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、『禁中並公家諸法度』ではそれを統制できなかった(この件については霊元天皇の項も参照)。
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