[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)45【ダメ工作員】 (366レス)
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142: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)22:46 ID:/kmEsvOR0(92/111) AAS
いないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった
。1883年、須山口二エムゾネ合八勺(標高2050m)に接続する
御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御
殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年
、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの
登拝(登山)はエムゾネ衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山
道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現
在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊
省18
143: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)22:51 ID:/kmEsvOR0(93/111) AAS
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
省18
144: (ワッチョイ 560c-4kaF) 2018/01/27(土)22:52 ID:/kmEsvOR0(94/111) AAS
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確ではないが、
145: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)22:53 ID:/kmEsvOR0(95/111) AAS
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半エムゾネには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者エムゾネの登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
省18
146: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:04 ID:/kmEsvOR0(96/111) AAS
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m
)に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東
海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者
を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可
能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至
省18
147: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)23:06 ID:/kmEsvOR0(97/111) AAS
展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929
年の国宝保存法エムゾネ制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年
の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19
53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定
された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196
2〜6エムゾネ3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19
81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ
省18
148: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:11 ID:/kmEsvOR0(98/111) AAS
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のた
149: (ワッチョイ 560c-4kaF) 2018/01/27(土)23:12 ID:/kmEsvOR0(99/111) AAS
その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、
1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、
1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行われ、現エムゾネ在にみる境内の景観
の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐
破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮
本殿はともに桧皮葺・一間社流造であるエムゾネ。3本殿とも、各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞれ
の時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社
省18
150: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)23:13 ID:/kmEsvOR0(100/111) AAS
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古くエムゾネから富士山南麓地域の中心的神社であった
。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご
ろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社
(興法寺)エムゾネとともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が
周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604
年エムゾネ現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造
省18
151: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:19 ID:/kmEsvOR0(101/111) AAS
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
省18
152: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:25 ID:/kmEsvOR0(102/111) AAS
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士
浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属
しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ
ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として
富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制
省18
153: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)23:27 ID:/kmEsvOR0(103/111) AAS
山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868エムゾネ年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。
ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山
の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続
154: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:32 ID:/kmEsvOR0(104/111) AAS
岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された五千円札エムゾネ及び2004年に採用され
た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり
一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」
に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法
的保護、修理・整備の経緯文化財保護法エムゾネの下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば
806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
省18
155: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)23:34 ID:/kmEsvOR0(105/111) AAS
ている。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと
もエムゾネ1524年には存在していた神社である。1707年、宝永
噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1
823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)
の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行のエムゾネ一
環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化
財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
省18
156(1): (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:40 ID:/kmEsvOR0(106/111) AAS
持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧
玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池で
ある。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清め
る場と位置づけられたとされ、エムゾネ同時期の絵図や旅行記でそ
の様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行
われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる
。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺
157: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)23:42 ID:/kmEsvOR0(107/111) AAS
における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た
だし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事
を行っエムゾネており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される
予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ
゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、
富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験
の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が
省18
158: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:47 ID:/kmEsvOR0(108/111) AAS
法の下に特別保護建造物に指定された。エムゾネ1923〜26年
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化エムゾネ財とされ
た。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根
の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等
が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われ
た(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わエムゾネ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
省18
159: (ワッチョイ 560c-4kaF) 2018/01/27(土)23:48 ID:/kmEsvOR0(109/111) AAS
とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富士浅間
神社(須走浅間神社)説明社伝では8エムゾネ07年に社殿を造営
したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀
には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の
一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し1718
年に再建された。この後もこの際の部材エムゾネを使用し、200
9年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社に
160: (ワッチョイ 560c-8y6r) 2018/01/27(土)23:54 ID:/kmEsvOR0(110/111) AAS
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.
村山浅間神社説明12世紀前半から中ごエムゾネろの修行僧末代の
活動が創建の起源とされており、1868年の神仏分離令まで
は神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山
興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である
大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中エムゾネ心地であ
り、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制
作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。186
8年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1エムゾネ
省18
161: (ワッチョイ 560c-rgA5) 2018/01/27(土)23:56 ID:/kmEsvOR0(111/111) AAS
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者エムゾネによって再興されたとされる。法的保護、修理
・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点
在するエムゾネ小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅
間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船津胎
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