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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】 (326レス)
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268: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:21:04.98 ID:2LIMvxdg0 。−29−写真沸玉池の写真Bエムゾネ2山宮浅間神社浅間大社の 北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする 神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地 に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊が大 神の神威により難を逃れた謝礼に山宮にエムゾネ祀ったこととされ 、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体 的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である 。神社は神事の際に使用す
る籠屋以外の建物施設を持たず、拝 殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかエムゾネに区分さ れた遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。 この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定され ており、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査で は12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定されエムゾネ る破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗 教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅 間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。 これは4月と11月に
神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮 浅間エムゾネ神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ 戻る行事である。行事の意味として、現時点では神が4月に旧 跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ 降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われて いた。なお、エムゾネ「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道 と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約600m東へ向かった 後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。 道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑 が少なくとも四箇
所残エムゾネっている。写真山宮浅間神社の写真 B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士山南麓に 張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し、木 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/268
269: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:33:34.62 ID:2LIMvxdg0 0−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、 祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富士垢離」の手法 を広めている。加えて富士山をエムゾネ航海の目印とする伊豆半島 の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の 勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前 半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を背景 に一定の権威をもち、登山道及びその頂エムゾネ上部の大日堂周辺 を支配した。社殿について
は、1697年徳川幕府により修復 され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913年改築 されたものを基本としている。1868年、神仏エムゾネ分離令に より浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、 1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし 、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在 は1970年代より活発になった地域住民による伝統復活エムゾネ のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また 、村山浅間神社の影響
を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三 重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている 。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓 、須エムゾネ山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神 とする神社である。その起源は1598年作の社伝旧記による と110年、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社 を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとあ る。記録上神エムゾネ社の存在が確認できるのは1524年で修築 時の棟札による。また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢 500年以上と推
定されており、遅くともこの時期までに須山 浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿は1 823年の再建であるエムゾネ。1707年の宝永噴火により登 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/269
270: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:40:16.90 ID:2LIMvxdg0 道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山道が再興さ れ、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者があった 。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心的 存在であり、村全体で須山口登エムゾネ山道と山頂部銀明水を管理 した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家 に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部 で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。 http://matsuri.5ch.net/test
/read.cgi/out/1516709043/270
271: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:47:16.50 ID:2LIMvxdg0 山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ちエムゾネ、1940年頃ま で境内で富士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。18 83年、御殿場口登山道が開設され、1899年の東海道本線 開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山 者を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍エムゾネ演習場と なり使用不可能となったため、須山口は衰退した。しかし、そ の後都市化の影響を余り受けなかったため、須山浅間神社周辺 は日本的伝統に基づく村落
景観を保っている部分が多い。写真 須山浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口エムゾネ 登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ る。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来、交通の要 衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事 を行い、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地 であエムゾネるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したと される。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、157 1年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保 護を受け、山頂部の散
銭取得権の一部を得ている。17世紀以 降、須走浅間エムゾネ神社は当時の須走村の御師などと共に須走口 登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師 堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これ ら山頂部の権利については八合目以上の支配権を主張する富士 山本宮浅間大社と争いエムゾネになり、須走村は1703年と17 72年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、これらの 権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御 師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権 威を高めている。
社殿は、記録エムゾネの残っている範囲では16 62年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲葉氏 などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/271
272: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 09:53:39.99 ID:2LIMvxdg0 噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に 再建された。この後もこの際の部材を使エムゾネ用し、2009年 の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路 があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が 登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800エムゾネ年の御縁 年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半 まで富士講信者は境内に登
山回数等の記念碑を約80基造営し た。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による 神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社のエムゾネ 写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅 間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていたが、864年〜 866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が 建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸 にあエムゾネり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる 。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の 宿駅という役割に加え
、富士登拝が大衆化した中世後半から御 師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大 流行と、それエムゾネに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集 落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、 河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を 行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠 かすことができない資エムゾネ産である。写真河口浅間神社の写真 表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に 他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年 「史跡富士山保存
管理計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間 神社冨士御室浅間神社は吉田口エムゾネ二合目に鎮座した本宮(も とみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されている http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/272
273: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:00:32.15 ID:2LIMvxdg0 8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初 とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあ る。富士修験の信仰拠点は南西の村山でエムゾネあるが、北面の二 合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と して役行者堂が整備されたようである。また、社記によると9 58年、二合目は冬季における参詣が難儀であることから河口 湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時エムゾネ代以降富 士講の隆盛にともない、吉
田口登山道の信仰拠点の一つとして この二合目の役割はさらに増すことになる。しかし、昭和に入 ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの開通等 もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通エムゾネ 過する登拝者も激減する。また、富士御室浅間神社本宮を支え てきた氏子にとっても、その維持管理が困難となって、197 3年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転する こととなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として 位置エムゾネづけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里 宮が一体となって機能
してきた神社である。写真冨士御室浅間 神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿 ・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)19 85年本宮本エムゾネ殿・文化財保護法の下に重要文化財として指 定1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り 直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間 神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に 他の文化財とともに史エムゾネ跡富士山として指定(予定)201 1年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅 御師は、道者に宿
や食事を始め登拝のための一切の世話をする とともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御 師として代表的なのは、吉田口エムゾネ登山道の起点である北口 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/273
274: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:07:01.66 ID:2LIMvxdg0 宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な 集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状を なし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の 奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄エムゾネ関から奥へ客室が 続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧 外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最 盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川 http://matsuri.5ch.net/test
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275: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:19:43.99 ID:2LIMvxdg0 落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御 師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当エムゾネ主は小佐 野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参 詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東 側には所有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅には 所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表エムゾネ 法的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重 要文化財として指定197
7年消防設備設置を行う1979年 屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を行う1997年 主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い201 0年エムゾネ「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9 山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山 の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古 くから景勝地エムゾネとして有名で、20世紀前半には湖畔に洋式 ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかり のある芸術家も多く、
山中湖を描いた文学や絵画が散見する。 富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士 と呼ばれ、多くの写真エムゾネ家を集める。写真山中湖の写真B1 0河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山 の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り が行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古く から景勝地として有名で、20エムゾネ世紀前半には湖畔に洋式ホ テルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材にし た文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾北斎 や歌川広重といっ
た浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を 描いている。写真河口湖の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の 経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の下に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/275
276: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:27:02.91 ID:2LIMvxdg0 富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏 の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖 湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−3エムゾネ4−20 11年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名 勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士 山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧 水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡エムゾネ 池、菖蒲池)の愛称である
。それぞれに八大竜王を祀る富士信 仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの 水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞら れ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場 と伝エムゾネえられ、1843年に富士講道者によって再興された とされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺 図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念 物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を 策定、忍野八エムゾネ海周辺を景観形成重点区域に指定2010年 街なみ環境整備事業に
より忍野八海周辺環境の整備を行う(〜 14年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策 定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされ る長谷川角行が富士登エムゾネ拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼 入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひ とつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年 、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖 が祀った焼入の地の浅間明神がエムゾネ遷宮された。浅間明神誕生 の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子 を出産したという
故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた 。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習 があり、洞穴内外の地形空間に宗教的なエムゾネ意義付けが行わ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/276
277: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:32:41.93 ID:2LIMvxdg0 るとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花 開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保 護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に 天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留エムゾネ郡富士河 口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計 画書」を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年 に富士道者により整備された「御胎内」である。吉田胎内本 http://matsuri.5ch.net/test
/read.cgi/out/1516709043/277
278: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:39:31.85 ID:2LIMvxdg0 の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の祭神でエムゾネ ある木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面に は、食行身禄を祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴が あり左右に分かれている。右の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る 父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である。富士 講講エムゾネ徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを し、翌朝富士山に登山した。−35−本穴については、古くか ら冨士山北口御師団が管理
している。写真吉田胎内樹型の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀念物 法の下に天然エムゾネ紀念物として指定2010年「天然記念物吉 田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山 西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開 花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講 の人々による約230エムゾネ基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴 がある。長さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年 前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300 年前後に成立した文書
である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所 であり、地元では「浅間大菩薩エムゾネの御在所」とみられていた ことが記述されている。この内容は遅くとも1603年までに 説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講関連 の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお 告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等エムゾネを達成し、浅間大 菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り 口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴 は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修 行を行う者も見ら
れた。その大部分は吉田口登山エムゾネ道の利用 者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあ ったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではない http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/278
279: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:45:37.99 ID:2LIMvxdg0 、1648年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講 二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)によりエムゾネ 再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎 により再興された。1868年の神仏分離令により20世紀ま でには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。19 42年、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954 年にエムゾネ現在地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3( 194基)が墓碑ないし供
養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富 士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登っ たという登拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔 などがある。エムゾネ碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、 その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔で建立 年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から1 9世紀前半(1781から1850年)に建立されたものが半 数(44基)、19世エムゾネ紀末より20世紀前半(1871か ら1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B 14の写真B15白糸
ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約2 0〜25m・幅約120〜210mの数百の流れを持つ滝であ る。滝は約1万年前に噴出したエムゾネ白糸溶岩流の末端から湧き 出す一日平均13万〜の水を源としている。滝の名前は湧水の 噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられ た。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸 溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界にエムゾネ降水・雪解け水が 滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き 出しているものである。このメカニズムが解明される前の19 世紀半ばの資料「
不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の 伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書エムゾネでは、開 祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行っ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/279
280: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:51:36.06 ID:2LIMvxdg0 地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心 とした人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と18 54年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝エムゾネ つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光 」としている。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書 の挿画に描かれている。そのほかの19世紀の登山記でも人穴 と共にその存在が長谷川角行との関わりを通して紹介されてい る。エムゾネまた、白糸ノ滝は
景勝地としても有名であり、多くの 和歌・絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護 、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園法の下に(富 士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀念物保存法 の下に名勝及エムゾネび天然紀念物に指定1987年富士宮市によ り「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により 保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき 、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂 の南西約45kmに位エムゾネ置する駿河湾に突き出した長さ約7 kmの砂嘴をなす三保
半島上の松原である。現在、5万4千本 の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢 約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松 という日本で好まれた景観を組エムゾネみ合わせて望むことができ る景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は約6 000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は内海 側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。かつて は半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭にエムゾネは松原自体を景勝 地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その 後遅くとも13世
紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央 の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1 4〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義エムゾネ教が三 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/280
281: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 10:57:47.19 ID:2LIMvxdg0 半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を 眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に 富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の 題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台エムゾネ とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した 。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終 場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写 http://matsuri.5ch.net/test
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282: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:11:46.35 ID:2LIMvxdg0 として日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与 えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「 浮世エムゾネ絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」であ る。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ 、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、 生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良 好で継続的なエムゾネ関係を示す景観の傑出した類型として、世界 的にも類例を見ない顕著な
普遍的価値を持つ山である。本計画 では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著 な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成 する諸要素と密接に関エムゾネわる諸要素」に分類し、さらに緩衝 地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示す とおり整理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる 周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構 成要素A富士山(富士山体)Aエムゾネ1山頂信仰遺跡・富士山本 宮奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣 ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、 駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・西安 河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・こエムゾネのしろが池・荒巻 ・吉田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経 塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八 幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・ 12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎エムゾネ内(溶岩 洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古 御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山 道・現登山道・旧
登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本 宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮エムゾネ 本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/282
283: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:18:53.35 ID:2LIMvxdg0 栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神 立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿 )・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥 居・エムゾネ桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋) ・護摩堂跡(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之 宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅 間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段( 参道)・石塁エムゾネ・玉垣・
遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間 神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ 、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離 場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・ 手水舎(手水鉢)・石エムゾネ段(参道)・狛犬B4須山浅間神社 ・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石 碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間 の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼 門・参道大鳥居・裏参道鳥居・エムゾネ富士塚狛犬・富士講講碑群 B6河口浅間神社・社
殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口 二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築 された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅 )・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツエムゾネミチ)B9山中湖 ・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池 、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧 水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群 B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石エムゾネ造物群− 40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流 ・溶岩洞穴・社叢
(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参 道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆 積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・エムゾ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/283
284: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:25:33.87 ID:2LIMvxdg0 富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の 巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規 制B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区 @自然地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞 穴、エムゾネ樹型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富 士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹 型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成 http://matsuri.5ch.net/test
/read.cgi/out/1516709043/284
285: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:38:59.84 ID:2LIMvxdg0 遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、 7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命 である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士 上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺 と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊 所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅 間大神を祭った。写真奥宮
の写真[奥宮周辺の石碑群](a) 蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅 間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵 が彫られている。天保年間(1エムゾネ830−34)に、岸岱が 作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ 31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19 67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮 の末社で、大名牟遅命
、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田 口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須 志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改 めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と 同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真 東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊 験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか な湧き水として珍
重された。『富士の歴史』によれば、「如何 なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水 の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ112× http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/285
286: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:45:52.96 ID:2LIMvxdg0 62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年 代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。 (b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍 が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑B(未計測 )「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写 真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆 岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800 mの火口を囲む峰々のエムゾネ
総称で、それぞれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成2
0年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓
からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516709043/286
287: 底名無し沼さん (ワッチョイ 460c-L2NY) [sage] 2018/02/09(金) 11:51:45.49 ID:2LIMvxdg0 現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち 、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725 m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手 にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥 居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石 造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正 面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の http://matsuri.5ch.net/tes
t/read.cgi/out/1516709043/287
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