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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】 (378レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/
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299: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 19:39:29 ID:jABd19d80 み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登り きったところにあったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、 登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座 する浅間大菩薩を拝むエムゾネ場所であった。また、御来光を拝む 場所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていな いため、場所を特定することはできない。写真吉田須走拝所跡 の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったと される。大正2年(1913)エムゾネの登山スタンプが押された 写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認でき る。現在その地点には、2つの目印の石が存在している。写真 須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏 手に建つ鳥居を「大宮拝所」としているエムゾネ。『富士山明細図 』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このし ろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、そ れぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永 元年(1624)の銘があったとされる。昭和初エムゾネ期の絵葉 書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。 写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(192 9)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それ を受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経エムゾネ 巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士 山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が残っており、うち 5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタイルや計測 値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真 出土エムゾネ遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る 「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の北側で 道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山岳 に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/299
300: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 19:46:08 ID:jABd19d80 至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自 然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立 入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素 が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5? 、天照教社の西南西約エムゾネ1?の地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/300
301: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 19:53:15 ID:jABd19d80 の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛 んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭 和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口 登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に 約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平 坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている 。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸 時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま た、ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋 は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦 面の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって 痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘されるエムゾネ 。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約 100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並 んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、 八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。 駿河エムゾネ国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(184 3)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』に は、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井 戸を掘ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡 堂の井戸」とエムゾネは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考 えられている。井戸跡は幅80?、深さ50?ほどである。・ 5号建物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面 の倒木帯となり、その中に5号建物跡がある。標高は約1,8 65mである。平成5エムゾネ年の富士宮市による調査では、平場 の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/301
302: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 19:59:37 ID:jABd19d80 年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見 つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動 明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧 本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる 。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈 によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7 号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置 にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物 跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され 、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に 石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「 一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有 来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」 にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号 建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11 号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北 約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直 径約90?の丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の建 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/302
303: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:05:45 ID:jABd19d80 でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡 の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている 。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目( 標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である 。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を 通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登 山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地 形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶 岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1 230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火 時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ 近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形 成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後 の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内 の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山 御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎 内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の 溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A 4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図・古 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/303
304: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:12:54 ID:jABd19d80 神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間 口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀 した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地 を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御 岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9 合目(3,570m付近)に建てられている。かつては向 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/304
305: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:19:12 ID:jABd19d80 、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ 冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170 3)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師 之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに 祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手 向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久 須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以 前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物 の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「 日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ 所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が 置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北 奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目 、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥 居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」( とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山 道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所 にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付 は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5 吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉 田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を 目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田 口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/305
306: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:25:12 ID:jABd19d80 構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設 や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから 急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地 ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の 周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、 登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登 山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写 真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役 場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古エムゾネ くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は 登山切手改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒 があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室 」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ− 48エムゾネ−ていたことがわかる。最盛期には18軒が所在した と伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺 に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここに て富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日 間の断食修行エムゾネを経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十 八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像 ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはす でに身禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在 も富士講の聖地としてエムゾネ重要な地である。写真烏帽子岩の写 真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している 平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1 730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境 内の建造物群の修復工事が行わエムゾネれ、現在にみる境内の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/306
307: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:31:58 ID:jABd19d80 の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を 起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や 吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著 な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守 成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母 屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に 漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装 飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに 、すぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写エムゾネ 真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創 建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社 として造営したものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で 正面に一間の向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿 は、エムゾネ本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法 を示しており、三殿中最も古い建物である。写真東宮本殿の写 真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主 浅野左右衛門エムゾネ佐氏重により東宮に替わる本殿として建立さ れたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移さ れ西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流造であるが 、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西宮本殿は、桃 山時代の装飾的要素をエムゾネ多分に取り入れていて、やがて豪華 な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴 重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図 ・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地であり http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/307
308: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:38:00 ID:jABd19d80 こを浅間明神の創建にかかわるエムゾネ場所と位置づけている。さ らに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、 大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は 、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てら れている。写真大塚山の写真図大塚山のエムゾネ図・御鞍石吉田火 祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石 上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる祝 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/308
309: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:44:42 ID:jABd19d80 一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の 写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点エムゾネ在してい る平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの 富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対 象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸 術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要エムゾネ 素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8 精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖 を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ たが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている 。まエムゾネた、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深 い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖 水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要 素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八 海巡りが多くエムゾネの富士講徒によって行われたが、いつの時代 も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地 でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値 を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの 展望などがある。写真エムゾネ本栖湖の写真?信仰に関わる周辺の ものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在している 平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称され る。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、 新富士火山旧期溶岩流に分類さエムゾネれる富士宮溶岩流と、溶岩 流直上に広がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流 の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出 し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安 林にも指定され、渋沢堀沿いの散策路以エムゾネ外は立ち入りが禁 止されている。寛文10年(1670)の浅間大社境内絵 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/309
310: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 20:58:12 ID:jABd19d80 は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分 に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全 景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3エムゾネ間で、床 は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻 造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に 縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として 保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外エムゾネ 側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲 む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文 化財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造 で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左 右にエムゾネは随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保 護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門か ら東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加されたも のである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清 めるために手エムゾネや口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小そ れぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続 く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄 進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端 にそれぞれ朱塗りの鳥エムゾネ居が建てられている。・桜の馬場浅 間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡って東西 に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬 を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに 神事が行われていたとの記録がエムゾネ残っている。馬場に沿って 両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下 池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれてい る。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/310
311: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:05:29 ID:jABd19d80 りの橋が架けられている。春秋の大祭にエムゾネはこの橋を通って 山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵 図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向 かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の 絵図には既に描かれているが、大正4年(191エムゾネ5)に石 造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文1 0年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査によ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/311
312: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:12:57 ID:jABd19d80 護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出 された。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっエムゾネ ている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎 石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有して いたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌で この建物跡を「本地堂」とする記載が確認されており、最終的 に護エムゾネ摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真 護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像 慶長19年(1614)2月に建立された。背銘には、左側の 像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右−52−側の像は 「大工山城國エムゾネ上原住櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文 化財として保護されている。写真随身像全体の写真・狛犬参道 の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7年5月に奉献 されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前に行われてい た「山宮御神幸」におエムゾネける、御神幸道の首標が、池畔に立 てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一月とされ 、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている。昭 和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見され、現 在地に再建された。・三之宮本エムゾネ殿横西側に、淺間第三御子 神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之 宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神 社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が 置かれている。明治の初めまで行われてエムゾネいた山宮御神幸の 際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神 路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている 。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年( 1670)の絵図では西側にのみ架けられているエムゾネ。写真橋 全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/312
313: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:20:11 ID:jABd19d80 す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥 居から参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展 開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶エムゾネ 岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二 子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する 。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含 め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝 所のエムゾネ基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の 噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部 分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。 そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡 せていたためエムゾネ、この場所で山を遥拝する行為が行われたと 考えられる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模 式図・社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林 が、約9,780?の社叢を形成しており、富士宮市の保存樹 林に指定されている。エムゾネ・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前 の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御 鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」に おいて、これに同行した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所 である。−53−・鉾立石籠屋エムゾネをくぐり遥拝所へ続く参道 に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石」 が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位 置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。・石段 (参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るたエムゾネめの石段が組まれ ている。現在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと 考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方 形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上 げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築エムゾネされ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/313
314: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:27:40 ID:jABd19d80 る。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土して いるため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もしく は後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図 石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリーエムゾネ ト製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられた ものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付 けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うこと を目的として築造されたと推定される施設である。南北約15 .2エムゾネm、東西約7.6mの長方形で、30〜40?程度の 溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向 に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司 席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が 設けられていエムゾネる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石 鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(1 931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで 参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在 している平面図・元村エムゾネ山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧 期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で 、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高 く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する 。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東エムゾネ側に「竜頭ヶ池」と呼ばれ る湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側 から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた 要因の一つである。・御神木(イチョウエムゾネ、大スギ)[イチ ョウ]−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念 物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m 、枝張り東西19m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/314
315: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:34:19 ID:jABd19d80 達も著しい。気根が数多く垂下する。気根の先端エムゾネに針を刺 して祈願すると妊産婦の乳の出がよくなると伝えられ、女性の 信仰を集めていた。また以前はウロの中に大日如来が祀られて いたといわれ、現在でも祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和 31年5月24日に県天然記念物に指定された。村山浅間エムゾネ 神社の御神木と称される巨木である。境内の多くのスギの中で 最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17.5m、南 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/315
316: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:40:49 ID:jABd19d80 1m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及ぶ空洞があ る。案内板では約1,000年の樹齢とされるが、実際にはお よそエムゾネ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸高 直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジ イ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹された ヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されている。 ・浅間神社社エムゾネ殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって 境内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命 、左座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴 (天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿 は大正2年(1913エムゾネ)に改築されたものだが、幣殿と拝 殿は老朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造 に建替えられている。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂( 興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317〜1318)に、末代 上人の流れをくむ頼尊が村山にエムゾネ興法寺を開いたと伝えられ ている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山 の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部材の状 況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造と考えられる が、外壁は波鉄板板張りに変えられていエムゾネる。桁行5間・梁 間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面 と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図 社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝の道 者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.エムゾネ5m、奥 行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を 敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水垢離 場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋で 落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修エムゾネ 行のときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/316
317: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:46:54 ID:jABd19d80 真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明 王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5 .3mの丸い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石 にはエムゾネ、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4年(185 7)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い石 組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思 われる。写真護摩壇の写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55− 護摩壇裏手のエムゾネ一段高くなったところに末代上人を祀る大棟 梁権現社があったとされる。しかし、神仏分離令により廃され 、代わりに村山浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったと ころに大棟梁権現社を遷し「富士大神社(祭神大己貴命)」と して祀られた。現在はエムゾネ「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集 落の氏神社となっている。「明治十八年五月十七日奉再建冨士 大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿は、平成 15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る石段の途 中に、石鳥居が建てられているエムゾネ。昭和28年(1953) に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮守社 )へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年 の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢) 村山浅間神社へと続く参道入口の左側にエムゾネ、手水舎が設置さ れている。明治16年(1883)に設置されたものである。 ・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大 日堂へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5 年に奉納された狛犬2体が、参道脇に設置されてエムゾネいる。B 4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・社叢 樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高3 7m、目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体 が市指定天然記念物として保護されている。・社殿大禰宜エムソ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/317
318: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-slG6) [sage] 2018/02/16(金) 21:52:59 ID:jABd19d80 ・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(961)に 駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の 記録として社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524 )と記された修築時の棟札による。現在の社殿は、文政6年( 18エムゾネ23)に再建されたとされている。写真社殿の写真図 社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を 納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内に は、社殿前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置されてい る。社殿前のエムゾネ一対は平成12年に、参道脇の一対は平成1 3年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建て られている。登り口のものは平成13年に、階段を登ったとこ ろにあるものは、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に 奉納されたものであるエムゾネ。・手水舎石段に至る参道の脇と、 社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そば には、文政7−56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参 道鳥居から10mほどは石畳が敷かれ、その後社殿の位置する 高台へ登るためにコンクリートエムゾネ製の階段が続いている。・ 鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート製の鳥居が建てられ ている。昭和41年(1966)に奉納されたものである。・ 石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたことを示す碑 が建てられている。・古宮神社八坂大神エムゾネ、八幡大神、愛鷹 大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中に あり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以 下に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社殿周 囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参エムゾネ道南側の 部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大 樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1963)2月1 9日に静岡県の天然記念物に指定された。根回り約6m、 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516526242/318
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