[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】 (353レス)
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148: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:13 ID:He8C3ID40(65/193) AAS
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法
寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行っ
た。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始され
、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道
者の数は18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年
で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国
人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。101889年、
鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合
目(標高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除き登
省14
149: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:13 ID:drxMNnZ10(35/104) AAS
は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、
権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、
これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅し
たが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道
者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされた参詣の
流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,
700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成によ
り、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほと
んどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5
省22
150: (ワッチョイ ef0c-jocT) 2018/01/10(水)09:19 ID:He8C3ID40(66/193) AAS
に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八
151: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:19 ID:He8C3ID40(67/193) AAS
ある。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分
及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東
麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くと
も17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを
支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅
間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施
設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌
省14
152: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:20 ID:drxMNnZ10(36/104) AAS
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
省22
153: (ワッチョイ ef0c-jocT) 2018/01/10(水)09:26 ID:He8C3ID40(68/193) AAS
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
省22
154: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:26 ID:He8C3ID40(69/193) AAS
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)国立公
園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定さ
れた。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年
に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護
法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨
士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起
源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社
の社殿が整っていたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年
に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、17
省14
155: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:27 ID:drxMNnZ10(37/104) AAS
り、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本
の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、
重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なか
でも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1
935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」と
いう写真は有名である。この写真は、1984年に採用された
五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用
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(1): (ワッチョイ ef0c-jocT) 2018/01/10(水)09:32 ID:He8C3ID40(70/193) AAS
国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、
ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢崩れに対す
る砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台風による
森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6
.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間
明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山
」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整って
いたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594
年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつ
省22
157: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:33 ID:He8C3ID40(71/193) AAS
。1962〜63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に本
殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の
部分修理工事が行われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、
158: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:33 ID:drxMNnZ10(38/104) AAS
された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している
本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ
同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整備の経緯
文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山
本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により近い
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを
起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心的神社であ
った。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、
広く信仰されている。創建当初は遥拝のための施設であったが
、15世紀ごろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大
省22
159: (ワッチョイ ef0c-jocT) 2018/01/10(水)09:38 ID:He8C3ID40(72/193) AAS
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動に
よって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行
の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたの
が、後述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、
日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり
、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかで
省22
160: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:39 ID:He8C3ID40(73/193) AAS
長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後
述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された
写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は
、プロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわ
たり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から
撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用
された五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山体
の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春
」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整
省14
161: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:39 ID:drxMNnZ10(39/104) AAS
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。
1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修
理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行
われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われた(
部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1
3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の
省22
162: (ワッチョイ ef0c-jocT) 2018/01/10(水)09:45 ID:He8C3ID40(74/193) AAS
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清
163: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:45 ID:He8C3ID40(75/193) AAS
を起源とする湧玉池がある。浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考え
や、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧玉池は、浅
間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は
浅間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行
記でその様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。現在
でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1
907年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1923〜2
6年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い
、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。1936年に袖
省14
164: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:46 ID:drxMNnZ10(40/104) AAS
おける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し
、その様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と
大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者と
も衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続さ
れた。また、村山の修験者の影響を受けた地域では現在でもそ
の宗教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2
001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発
掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とと
省22
165: (ワッチョイ ef0c-8avC) 2018/01/10(水)09:52 ID:He8C3ID40(76/193) AAS
へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山
宮御神幸」に使用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた距離
を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていない
。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.村山浅
間神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が
含まれる)。富士山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動
が組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16
省14
166: (ワッチョイ ef0c-aKZ8) 2018/01/10(水)09:53 ID:drxMNnZ10(41/104) AAS
神社が建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖
の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性
が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く
官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半
から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士
講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師
集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし
、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事
167: (ワッチョイ ef0c-jocT) 2018/01/10(水)09:58 ID:He8C3ID40(77/193) AAS
の修行僧末代の活動が創建の起源とされており、1868年の神
仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺
院である大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中心地で
あり、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制作
とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年
、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の
登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、修験者の活動
は1940年代まで継続された。また、村山の修験者の影響を受
省22
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