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【韓国】釜山の日本総領事館前に徴用工像 韓国の市民団体が計画 [無断転載禁止]©2ch.net (662レス)
【韓国】釜山の日本総領事館前に徴用工像 韓国の市民団体が計画 [無断転載禁止]©2ch.net http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/
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309: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:45:16.23 ID:cyBvNQJs0 >1 @−引揚民間人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐 − 「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らない幾(いく)つかのエピソードがある。 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。 そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、 ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱(はずかし)められたうえ、 虐殺されている光景であった。」 (中略) 「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。 娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのは普通。 一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。 城津での惨状は言語に絶した。(中略) 朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」 博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。 強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。 また、性病に感染した女性たちについても、匿(かくま)って回復するまで治療が行われた 。 −以上『引揚民間人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐 』正論 2005年11月号より http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/309
310: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:45:42.82 ID:cyBvNQJs0 A−惨憺たる北鮮引揚げ− (前略)南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでに殆(ほとん)ど全て引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。 もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火を避(さ)けて逃げてきた4万人である。 北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦を欲しいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。 白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に拉致(らち)された。 反抗した者、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。 「各地の凄惨な記録は読むに堪(た)えない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者:森田芳夫氏は書いている。 それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれた事であり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、 ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任は免(まぬか)れない。 例えば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された 咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。 …かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪(はくだつ)され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも… われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、 ごく無意識のうちにファッショ的誤謬(ごびゅう)を犯したことを告白せざるを得ない。… 駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬(ぎ)して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。 その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、… 富坪避難民の宿舎は実に呪われたる存在である。 それは実に煤煙と、余りの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。 襲いくる寒波を防ぐため戸窓は足(た)らず、カマスで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟(びょうくつ)なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、 呪いを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白(そうはく)な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、 足はきかず、立つときは全身を支えることも出来ず、ぶるぶる震(ふる)い、子供たちは伏して泣す。 無数の病める半死体は呻(うめ)きながらカマスの中に仰臥(ぎょうが)しており、暗黒の中に咽(むせ)びつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』) (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/310
313: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:47:40.43 ID:cyBvNQJs0 B一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。 こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。 痩(や)せこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、 そして時には泣き叫ぶ子供の口を塞(ふさ)いで死に至(いた)らしめるまでして、人々は南に辿(たど)り着いたのである。 38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘(そうとう)の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みに彩(いろど)られた『天国と地獄の境』となったのである。 −以上「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房 >1 このような悪魔のごとき仕業を隠すために徴用工や慰安婦問題をでっち上げるゴキブリ朝鮮ハエもどきでした。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/313
314: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:48:03.56 ID:cyBvNQJs0 C−南朝鮮(韓国)人の証言− 15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。 その夜、僕は鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。 …36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた侵略者の断末魔の光景であった。 朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか正確には知らないでいた。 ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。 (中略) 羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。 数千人の日本人は、臨時疎開して、すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。 日本人は永遠に去ったのである。 帰ってきたのは全部朝鮮人であった。 彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/314
315: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:48:26.23 ID:cyBvNQJs0 D火災の翌日、いたるところに余燼(よじん)のくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。 窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。 家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。 町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。 ある人はトランクを担いで逃げる。 ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。 ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。 ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。 ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。 みな走る、ぶつかる、罵(ののし)る、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。 先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。 集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。 家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。 こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。 避難先から帰りの遅れている肉親を罵(ののし)る。だからといって呼びに行く暇もない。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/315
316: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:49:58.66 ID:cyBvNQJs0 E「――あのとんま野郎!こういう重大な時に家に居さえすれば、 いっぺんに大金持ちに成れるのに・・・!」 2、3千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか5,6時間でスッカラカンになった。 僕が羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間も経っていた。残るのは日本人の不動産である。 日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。 "李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXのジップ(家)"と書いたり、 前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、 "この建物では近き将来平和食堂開業予定" "まもなくアリラン床屋になります" "この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた (まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。 僕の伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。 解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。 今度の騒動で、小玉邸も無疵(むきず)なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。 引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。 南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。 北と南に民族性の違いはないのである。 ―以上「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社 自分達の悪行を隠すためにどうあっても日本人の悪行をでっち上げないといけないゴキブリ朝鮮ハエもどきでした。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/316
319: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:51:21.73 ID:cyBvNQJs0 F−賄賂を使った逃避行− 私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。 昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。 (中略) 夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。 あのエンジンの音の嬉(うれ)しさと恐ろしさとは忘れることができない。 途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。 銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。 第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。 牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。 山の中腹に煙が見えた。 そこはチゲ部隊の交替地であった。 もうこの頃には、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、 せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。 稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。 もっと出せ出せ!!」と威かくされ、 残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。 ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。 この脱出コースは、関所があり、検査所があり、 牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、 最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。 このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀) −以上「生きて祖国へ5 死の三十八度線」引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会 >1 慰安婦や徴用工は、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのでした。 http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/319
320: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:51:44.14 ID:cyBvNQJs0 G−人間の皮を被った悪魔・北朝鮮人民− 満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。 やがて、38度線は朝鮮を南北に真(ま)っ二(ぷた)つに分断した。 北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。 (中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。 草履(ぞうり)を履いている者はほとんどいない。 女も子供も皆ハダシである。 山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。 そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。 若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。 中には一椀の粥(かゆ)をふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、 「畜生、ロスケの奴(やつ)」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。 負けた者の宿命に、悲しい諦(あきら)めを残して、これらハダシ部隊の大部分は草履を恵まれて発(た)って行く。 1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。 南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら―― (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/320
321: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:52:04.73 ID:cyBvNQJs0 H乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。 1日一人1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。 子供たちは腹をすかして母親を困らせた。 ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大鍋で作られていた。 そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやって来た。 遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。 そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。 朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。 この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、 「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると 「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋に叩き込んで逃げていった。 久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、 この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤(いきどお)りに変わった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/321
323: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:53:15.95 ID:cyBvNQJs0 I今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。 カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。 これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、 その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。 避難の人々は、最後の1枚を没収されないために知恵を絞り出した。 明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。 その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。 一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。 「今度は一切の所持金を提出しなければならない。 もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが 後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように。」 有無を言わせない強制処置である。 今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。 その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。 しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。 その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。 その朝も、恐怖のマトである命令が来た。 1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。 「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。 「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」 十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。 この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。 残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。 この雨中の別れが、長い長い別れとなった。 この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、 遠くシベリア送りとなったのである。 ―以上「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑より 「三十八度線」木下宗一[著] シベリアで亡くなった日本人に賠償しろよ。 人殺しのゴキブリ朝鮮ハエもどき! http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/323
324: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:54:09.61 ID:cyBvNQJs0 J−私の三十八度線突破記録− 8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。 しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁(ちょうりょう)が始まってきた。 元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。 私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策を立てないと、ということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。 その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。 2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。 態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。 まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。 私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/324
325: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:54:31.36 ID:cyBvNQJs0 Kそのうちに、ソ連軍が進駐してきた。 ソ連兵は朝鮮保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。 その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。 私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。 ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。 時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家に匿(かくま)ってもらったりもして難を逃れていた。 こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、 日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、 最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/325
327: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:54:51.68 ID:cyBvNQJs0 L命を削り取られるような不安におののく毎日であった。 男の子のような姿になっていても、 顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、 ソ連兵の先導として襲ってきた 保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。 ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。 私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。 (中略) そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。 十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。 しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。 このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/327
329: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:55:22.26 ID:cyBvNQJs0 M秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。 こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。 しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。 ある時は、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。 突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。 準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。 あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。 もう帰国することだけが頭にあった。 元山駅に向かって歩き出した… 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。 みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。 しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。 戻ってみてびっくりした。 家の中がひっくり返ったように荒らされていた。 タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。 実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、 その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。 その上に今度は、住居まで替えられて棟(むね)割長屋に数所帯が押し込められてしまった。 リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/329
330: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:55:45.87 ID:cyBvNQJs0 N厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、 老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。 不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。 ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。 女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった… 死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た … 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風(ふう)倒木(とうぼく)を運んできて薪(たきぎ)を作り、 それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。 家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、 遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。 (中略 続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/330
333: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:56:11.54 ID:cyBvNQJs0 O昭和21年の正月を収容所で迎えた。 その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。 …相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、 ここで発病して死んでいく人も多かった。 …収容施設も超満員となった。 これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、 ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。 命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、 ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。 それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。 いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。 元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、 途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。 それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/333
334: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:56:32.35 ID:cyBvNQJs0 P私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。 もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。 ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。 38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。 通行料は10円ぐらいだったと記憶している。 そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。 4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。 特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった… 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。 …連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、 とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。 しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。 それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。 みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。 致し方ないことであった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/334
335: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:56:54.97 ID:cyBvNQJs0 Q私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、 あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。 父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。 歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、 擦(す)り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。 …国境近くになると警戒が一段と厳重になって。 保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。 保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、 相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。 38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。 この峻険(しゅんけん)な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。 特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。 1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。 いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。 「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。 そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。 荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。 荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/335
337: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:57:18.22 ID:cyBvNQJs0 R…ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。 どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。 夜半の12時に行動が開始された。 やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。 深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。 ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。 息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。 歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。 みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。 無言の行進が続いた。 しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。 勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。 しかし、歩けども歩けど国境線らしきところには着かない。 はじめて騙(だま)されたことに気付いた。 みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。 今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。 その夜は特に寒さが厳しかった。 腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。 世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、 みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。 (続く) http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/337
339: 名無しさん@1周年 [] 2017/09/19(火) 09:58:26.37 ID:cyBvNQJs0 S…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。 山頂に出たのだ。 見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。 紛れもなく三十八度線を流れている川であった。 一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。 弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。 疲れきって歩くことも難儀(なんぎ)になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、 力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。 岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。 本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。 蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。 どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。 自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。 よく見ると赤十字のマークのついた車だった。 最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。 すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、拭(ぬぐ)っても拭(ぬぐ)っても流れ出てきた。 とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。 アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。 そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。 母も弟も乗せてくれた。 私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。) 戦争は、本当に怖く悲しいものである。 アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。 帰国が果たせなかった多くの人が、 異郷の地で死んでいったその怨念(おんねん)を忘れてはならない。 謹(つつし)んで哀悼(あいとう)の意を表したいと思う。 ―以上「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」 平成14年 平和祈念事業特別基金から 「私の三十八度線突破記録」梶山緑【著】より 人殺しのゴキブリ朝鮮ハエもどき!! さっさと日本人に謝罪と賠償をせんか!!! http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505769505/339
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