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追悼JPOP〜日本語ロックは不要。ロックは英語文化〜 (354レス)
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315: [] 2024/02/24(土) 07:29:36.22 ID:VOvJGT/E 日本語ロック論争収束 英語で歌っている側からの一方的な批判だったこともあり、はっぴいえんどがアルバム『風街ろまん』で、 ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せるという事に一応の成功を収めた頃には、論争らしき事態は沈静化していた。 フラワー・トラベリン・バンドがカナダ経由で海外進出しアトランティック・レコードと契約するなどそれぞれが主張通り体現したことによる。 1972年12月、キャロルがデビューして、日本語英語チャンポン歌詞+矢沢永吉の「巻き舌唱法」で商業的な成功を収めると "日本語ロック論争"は、何語で歌うかは問題外になり、 それまでのナンセンスな論争も、 ロックの精神性云々を問う思想問答も一蹴された。 この1972年以降の流れで 「日本語でロックを歌うのはバカ」と言い放っていた鈴木ヒロミツのバンドザ・モップスも 日本語詞の川内康範作詞の月光仮面や吉田拓郎作「たどりついたらいつも雨ふり」 などカバーがヒット曲になる事態が起り(ここまでにモップスは阿波踊りを取入れ「いいじゃないか」という 日本語を織り交ぜた英詞曲「御意見無用」や「パーティシペーション(参加)」と「迷子列車」という同じ曲で英詞と 和詞というバージョンの実験を試みていた。)「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、 「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは 1972年、(フォークの)吉田拓郎が「結婚しようよ」「旅の宿」の2曲の大ヒットした以降で、そのためか、 1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に2回開かれ多くのフォークとロックのアーティストを育てた“日本語のふぉーくとろっくのコンサート”も1972年5月で終了した」と論じている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/musice/1700966435/315
日本語ロック論争収束 英語で歌っている側からの一方的な批判だったこともありはっぴいえんどがアルバム風街ろまんで ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せるという事に一応の成功を収めた頃には論争らしき事態は沈静化していた フラワートラベリンバンドがカナダ経由で海外進出しアトランティックレコードと契約するなどそれぞれが主張通り体現したことによる 年月キャロルがデビューして日本語英語チャンポン歌詞矢沢永吉の巻き舌唱法で商業的な成功を収めると 日本語ロック論争は何語で歌うかは問題外になり それまでのナンセンスな論争も ロックの精神性云を問う思想問答も一蹴された この年以降の流れで 日本語でロックを歌うのはバカと言い放っていた鈴木ヒロミツのバンドザモップスも 日本語詞の川内康範作詞の月光仮面や吉田拓郎作たどりついたらいつも雨ふり などカバーがヒット曲になる事態が起りここまでにモップスは阿波踊りを取入れいいじゃないかという 日本語を織り交ぜた英詞曲御意見無用やパーティシペーション参加と迷子列車という同じ曲で英詞と 和詞というバージョンの実験を試みていた新譜ジャーナルの編集長を務めた鈴木勝生は 日本語でうたう運動そのものが影を薄め日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは 年フォークの吉田拓郎が結婚しようよ旅の宿の曲の大ヒットした以降でそのためか 年月から東京日比谷野外音楽堂で年に回開かれ多くのフォークとロックのアーティストを育てた日本語のふぉーくとろっくのコンサートも年月で終了したと論じている
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