国立アイヌ民族博物館ウポポイ(民族共生象徴空間) (691レス)
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(3): 2021/03/21(日)01:00 ID:zbXGpBGz0(1/2) AAS
蝦夷の民は最下層民として扱われた

 >滋賀県甲賀郡信楽町の玉桂寺の阿弥陀如来立像の胎内から
 >発見された文書には、「エソ三百七十人」の男女の名前が記されていた。
 >東北地方の住民説、越中の住民説、近江の俘囚の子孫説が唱えられている。

 >エソの人名には、「きみこ」(吉弥侯)のように古代の東北地方に多い姓もみえるが、
 >ほとんどは無姓であり、それらの名には、「いぬ」「くま」「うし」などの動物名、
 >「とち」「まつ」などの植物名、「むさし」(武蔵)「たんバ」(丹波)などの国名、
 >「やくし」(薬師)「くわうをん」(観音)などの仏菩薩号、
 >「かなわう」(金王)「ふくわう」(福王)などの童子名に因むものが多い。
 >これらは、非人などのような最下層民の名前の特徴と共通している。
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(3): 2021/03/21(日)02:32 ID:zbXGpBGz0(2/2) AAS
外ケ浜の?\村――津軽の蝦夷部落

津軽海峡に面した地域には、むかし点々と?\村があった。?\は「狄」のつくりを犬に替えて作字したものである。
?\村の人たちは外向きの和人名のほかにアイヌ本来の名前ももっていた。
万五郎犬とか万五郎逢犬とか、和人名の下に「犬」「犬」もしくは「逢犬」をつけているものはアイヌ系であるという印である。

?\村でもっとも名高いのは三厩村の宇鉄である。その東どなりの今別村、石崎村、宇田などにもアイヌ系の人々が住んでいた。
逆に旧字鉄村の西どなりには竜飛村の兵路というアイヌの漁民の集落があった。

宝暦年間(1751-1764)に津軽落の政策によって和人同様の扱いを受けるようになり、その名の下に「犬」または「逢犬」などの文字をつけて差別していた取り扱いが撤廃された。

天明年間(1781-1789)に津軽外ケ浜を訪れた菅江真澄の遊覧記「外が浜つたひ」にも、字鉄のクマタカインの末斎は、四郎五郎という和名をもっていた、と記されているが、これによって、宝暦期まではアイヌ名前のクマタカインをつけていたことがわかる。
宇鉄のクマタカイン(熊鷹員)は秦憶丸の『陸奥州駅路図』に、「宇鉄村は宝暦年間まで蝦夷の容貌たり。曾長をクマタカイノ、フルクイン、ウテレキ、セリキハ、ルウマンアイノ、ソタツイン、クマカイなど云へる名にてありしが、今は服従せり」とある中の人物の一人であろう。
省8
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