国立アイヌ民族博物館ウポポイ(民族共生象徴空間) (691レス)
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494: 2021/03/23(火)21:12 ID:IhYQDlJl0(1) AAS
「先史日本列島人に関する二三の骨学的考察」 山口敏(国立科学博物館)
doi: 外部リンク[343]:doi.org

北海道の縄文人とアイヌの関係について

日本列島の縄文時代人については、コロボックル説、アイヌ説、原日本人説などの諸説があいついで唱えられたが、筆者が人類学を学んだ1950年代には、縄文時代人は現代日本人の直系の祖先であり、アイヌとは似て非なるものであるとする長谷部言人の主張が圧倒的な影響力を誇っていた。

そのため、筆者が1959年に参加した稚内市宗谷オンコロマナイ貝塚の発掘で、続縄文時代の人骨数体にはじめて遭遇したとき、はなはだしく困惑した。アイヌ的な特徴 (眉間の隆起、狭い口蓋、動揺下顎、広く低い顔と眼窩、立体的な鼻根部、鉗子状咬合、扁平な四肢骨骨幹) と並んで、本州の縄文人の方に近い特徴 (中〜短型の脳頭蓋、著しい低顔型、ピラステルの発達した大腿骨) も見られたからである。

アイヌと縄文人を別系統とみる考え方に対してこのときに抱いた疑問は、その後、江別市坊主山遺跡や釧路市緑ヶ岡遺跡の縄文時代晩期人骨の発掘を経験するにつれて、ますます大きく膨らんだ。オンコロマナイ人の形態が決して道北部だけの例外的なものではなく、道央や道東部にも見られることが分かってきたからである。

さらに、1963年に虻田町高砂貝塚で縄文晩期の人骨十数体を発掘するに及んで、額が高く、眉弓が強く発達し、前頭縫合と横後頭縫合の痕跡を示し、外耳道骨腫や齲歯や上顎切歯の抜去まであるそれらの人骨には、本州の縄文人骨と区別するところがほとんどないことを知った。北海道の縄文文化の担い手は本州の縄文人そのものであったことを次第に確信するようになった。

豊浦町礼文華貝塚で道南系の続縄文文化 (恵山式) を伴う保存良好な人骨を1体発掘し、さらに千歳市烏柵舞遺跡では擦文文化期の人骨数体の発掘にも参加する機会を得た。これらの人骨の観察から、道南の縄文時代人は恵山系続縄文時代人と擦文時代人をへて連続的に近世アイヌに移行していったという考えを抱くようになった。

筆者は1965年にオーストラリアの博物館を歴訪して骨格標本を調査したことがあるが、その目的はアイヌの骨格との比較にあった。この研究によってオーストラリア先住民とアイヌとの間には形態上かなりの開きのあることが明らかとなったが、頭蓋の計測値や小変異の出現率について多変量解析を行なったさいに、アイヌと本州縄文人との距離が、アイヌとオーストラリア先住民や現代日本人との距離などに比較してかなり小さいことも明らかとなった。

これと前後して、ハーヴァード大学のW・W・ハウエルズがアイヌの系譜に関して重要な論文を発表した。かれは1961年に来日してアイヌの頭骨を調査し、帰国後さらに文献から縄文人、弥生人、中世人、近世人の頭蓋計測値を追加し、多数の項目に基づく判別分析を行なった。

その結論は、現代の日本人は西日本の弥生時代人と連続的につながるのに対して、縄文人は明らかにこれらと異なっており、縄文人の系譜につながるのはアイヌである、というものであった。かれの論拠となった判別分析の図の中で上述のオンコロマナイ人頭骨が重要な位置を占めていたのが印象的であった。

筆者は西日本の弥生時代人骨の研究には経験がきわめて乏しいのであるが、弥生人研究の進展状況と、弥生人の原郷に関しては、かねてから関心をもち続けてきた。

佐賀県三津遺跡、福岡県金隈遺跡、山口県土井ヶ浜遺跡などの出土人骨で代表されるいわゆる北部九州・山口型の渡来系弥生人については、対岸の韓国南岸の禮安里遺跡で出土した人骨との顕著な類似が明らかにされており、渡来の原郷が朝鮮半島南部にあったことはほぼ確実と見られている。

左: 稚内市オンコロマナイ貝塚の続縄文時代人頭蓋 右: 稚内市大岬のオホーツク文化人頭蓋
画像リンク[jpg]:www.sapmed.ac.jp
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