■(呉市)警固屋or鍋のもんおらんかのー?■PART2 (434レス)
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(2): 名無しなんじゃ 2022/10/18(火)01:01 ID:tdI7HW4A(1/4) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
>>327
かつてはほぼ同格の小字・村の名前だったけど、明治の合併当時、その戸数や面積を比較すると警固屋の方が圧倒的に大きいです。
旧なべ村エリアは警固屋町の一部、凄く大雑把だけど1/5〜1/7ほどなのが明治末期の地図を見ると良く分かります。

当時の字長郷浜から先は賀茂郡阿賀町となり、休山半島の南端を回ってそこまでが警固屋町の領域で、北側は呉市宮原に接しています。

明治43年当時の警固屋町の地番はその字長郷浜が一番で始まり、反時計回りに音戸瀬戸や鍋桟橋を回り、北端あたりが今の鍋山団地の
上の方で、七十三番字小鍋になっています。住人の多い集落には先に降られて若い番号となるなど例外も多いですけど。
331
(1): 名無しなんじゃ 2022/10/18(火)01:06 ID:tdI7HW4A(2/4) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
その古地図などが収録されている市制100年記念の平成15年刊の「警固屋の歴史」によると、江戸時代初期は安芸国安芸郡
なべ・けごや・とりのひら、明治中頃に合併して安芸郡警固屋村、明治末期に安芸郡警固屋町、そして昭和3年に呉市と合併しました。

私は「とりのひら」なんて聞いたことも無く、幼稚園の頃に鍋山団地に引っ越してきて平和幼稚園、鍋小学校に通っていたので、
自分は鍋の子だという自覚はあるけど、ここで生まれた土着の者ではありません。

たぶんですけど、今の見晴町あたりが「鳥の平」らしくて、明治末期の警固屋町全図には字○○という小字が多数あり、知らないことだらけです。
今の古老に聞いても分かるのかな?というくらい小字は細分化されてます。中には今も地番としてのみ残っているかも知れない名前もあります。

鍋桟橋行きバス停の鍋山団地(旧警固屋1丁目)から坂を下りていくあたりの右手の高台は警固屋町六十一字江ノ本→江ノ本町として、
昭和40年代半ばころまでは住居表示としても使われていました。他にも同様の例があると思います。
332: 名無しなんじゃ 2022/10/18(火)01:12 ID:tdI7HW4A(3/4) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
あの江ノ本の高台の西側はかなりの急斜面になっていて、鍋浦と鍋小島のあった字法崎、後の大正町に接しています。
今も残る大正町公園の背後がその吹付急斜面ですが、その先の工場エリア方向には昔から僅か1戸か2戸の住宅しかなくてちょっと謎なエリアです。
海軍工廠の造成や拡張で崖を削り、工廠専用の今の阿賀海岸通り作ったそうで、大正町や大正橋という名前はその名残ですね。
あの急斜面にはかなり大きな地下工場があったらしいです。

海軍工廠のあった頃の鍋の中心地は、島嶼部からの職工汽船が発着する鍋桟橋周辺が娯楽や飲食が盛んな繁華街的存在で、
商店街は今の宮原線のバス通りに並び、宇佐神社下の派出所の向かいにあった公設市場を中心に、銭湯や商店がひしめき合ってたようです。
鍋小に通っていた昭和40年代末ころ、あのあたりの魚屋・八百屋・総菜屋・お好み焼き・駄菓子屋が賑わっていた記憶があります。
ごく一部だけアーケードぽい屋根というか庇で覆われていた一角もあったような気がします。
333
(1): 名無しなんじゃ 2022/10/18(火)01:38 ID:tdI7HW4A(4/4) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
子供のころから「配給所」って何だろう?と疑問だったのは、水野醤油の近くに海軍工廠共済組合配給所というものがあり、
あのあたりも小さな商店が密集していたエリアです。元鍋小学校の運動場に建てられた鍋公会堂、今は鍋保育所に
なっている所の向かいには、共済組合の病院がありました。今はNTTの建屋になってるあたりですかね。

>>328
大昔の鍋と警固屋は険しい道での行き来しかできなくて、合併して警固屋村になった時点で鍋村民は面白くないってことで、
以前からの確執がさらに激化したそうです。今の県道の山側の道がどこなのか良く分かりませんが、今の警固屋5丁目あたりに
あった映画館から先は商店が無い境界ぽい雰囲気が古地図にもあるので、そこが鍋の南端かもしれません。

警固屋の中心地はかつて本浦といわれた今の警固屋支所から警固屋中学校のあたりで、そこそこな港があり、
そこを埋め立てた字新開にあるのが今の警固屋中学校の校庭です。奥まった石垣の上にはかつて工廠の人たちの寮があり、
進駐軍に接収された後に中学の校舎を建てたそうです。県道を挟んで残る古い突堤はその名残だとか。
339: 名無しなんじゃ 2022/10/19(水)04:09 ID:uQW8o++g(1/5) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
>>334
昔のことをキチンと記録に残してあれば後年からも辿ることが出来るけど、個々の記憶は聞き取って伝承していかないと
消滅してしまうんですよね。太古からの歴史の殆どはそのように易々と失われたものが多いだろうし、合併などにより
由緒ある地名や字名が絶滅するのは何とも口惜しい思いがあります。
若い頃は特に気にしていなかったけど、これも歳をとったせいですね。

厳しい戦中戦後を生き抜いてきた人にその辺りのことを聞くのはやや憚れる部分もあったりして、それでも身内ならばと
亡くなる前に思い切って聞いておいて良かったと思うこともあります。全く無縁の人であっても、年寄りに話を聞くのは
とても面白くて興味深いです。

それぞれの家に残る写真も大変貴重なもので、これも失くしてしまうと取り返しがつかないものですから、
然るべき公的機関が収集分類しておくと良いのになと思います。
340: 名無しなんじゃ 2022/10/19(水)04:20 ID:uQW8o++g(2/5) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
いくつか訂正があります。

>>330
明治40年代の警固屋町の地番の割り振りは「反時計回り」ではなく「時計回り」です。

>>333
警固屋中学校前の道は県道ではなく国道487号でした。

呉市本通2丁目から倉橋・江田島を経由して広島市南区へ至る国道487号は平成5年・1993年の制定で、
私が警固屋中に通っていた1970年代半ばころはまだ県道だったかと思います。
何せ40年ほど留守をしていたので、その間の様子がすっぽり欠落しています。

鍋小から警固屋中に行って先ず驚いたのは校庭の土の色が違うことでした。
真砂土のような黄土色・褐色をしていた鍋小に比べ、警固屋中のグランドの土は妙に黒っぽくて、
省1
341: 名無しなんじゃ 2022/10/19(水)05:20 ID:uQW8o++g(3/5) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
>>338
「迫」は尾根と尾根に挟まれた狭い窪地を意味します。
ふつう尾根筋には家を建てず、水利の良い谷・沢に集落が自然と発生するようです。
旧警固屋町の字名にも方々に○○迫があります。宮原と接する北端に字本迫、その南側に字北迫、
さらにその南側から休山中腹にかけては字奥掛迫、小さな川を挟んで家が建ち並んでいるような感じでしょうか。

「尻」は底の意味もあり、これも窪地や盆地、沼地を指す地名の由来となることもありますが、
鍋・舞々尻・蕪崎・亀ヶ首などの地名は海上交通者の目線からの呼称由来という説にも説得力があります。

鍋の住民は鍋底みたいに凹んでいるから?と思うかもしれないけど、谷筋からの道が交わるからといって
実際の窪地のように凹んでいるわけではなく、船の上から見れば鍋を伏せたような鍋山の岬、
カタツムリのようなマイマイ尻の岬、蕪のような岬といった見立てで航海していたようです。
343: 名無しなんじゃ 2022/10/19(水)06:18 ID:uQW8o++g(4/5) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
一方で、鍋エリアも前側と後側という線引きがあったようです。

「警固屋の歴史」の中で宇佐神社の祭礼についてこんな記述ががあります。

戦前は音戸町から加藤宮司が出張、前側のヤブはヨダレヤブで、太鼓の数は前側勢2基、後側勢2基、警固屋勢2基、
舞々尻勢1基、長迫勢1基、鳥が平勢1期、林山勢1基。

この計10基が境内に入る順番を巡って大騒ぎの喧嘩になるのが恒例で、一番遠い長迫勢は明神社の浜から船に乗り
音戸瀬戸を渡り鍋桟橋まで乗り込む。(今の警固屋9丁目にある明神社・長迫観音あたり?)
344: 名無しなんじゃ 2022/10/19(水)06:21 ID:uQW8o++g(5/5) HOST:6F83-3CB7-E429 AAS
昭和32年、林山の太鼓を鍋の青年団が破り、以後見晴地区の祭礼参加は取りやめになった。

明治24年(1891)、囃子の神輿付順序を巡り前側と後側が訴訟を起こし、前側が勝訴、現在は祭礼委員会が組織され、
中央区(旧前側地区を含む3地区)と、北区(旧後側地区を含む5地区)が毎年交代で実施、
その他に神輿巡行の先導を西区(旧舞々尻を含む3地区)が行い、太鼓は5基となった云々、とあります。

国レベルだと京の都を基準に越国が分離した越前・越中・越後、吉備が分かれた備前・備中・備後などがありますが、
ど田舎の鍋で前側と後側というのは、南北ゾーンによる便宜的区分でしょうか?
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