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452: 2022/10/02(日)10:27 ID:ive0jZbN(1/6) AAS
>>449
鮮魚を塩・酢で下処理して非加熱で食べるというのは結構古くからあるし、調味した米飯と合わせて供するというのも14世紀には既に形になっていた。
棒寿司とか姿寿司とかいうような、骨の硬い魚は三枚におろして、鮎やアマゴのような骨の柔らかい小型の魚は丸一匹で作って、竹の皮や茅や笹で
巻いて縛って数刻馴らした後に切って供した。
16世紀になると、木枠の中で積層・成型し、切って供するようになる。今で言うと、箱寿司とか押鮨とかいうもの。
森の石松が金毘羅さん参詣に行く道中に「食いねえ江戸っ子なら寿司食いねえ」と言ったのは、時期は1860年頃の幕末、場所は大坂で船上、寿司は
というと、これも箱寿司だった。
棒寿司・箱寿司とも、早くから全国的に普及。江戸でも、士分層や富裕層は専らこっち。
対して、握り寿司は、長らく江戸のローカルフード。存在自体が知られるようになるのは明治も終わりかけの時期、全国に普及しだしたのは大正期。
458(2): 2022/10/02(日)17:16 ID:ive0jZbN(2/6) AAS
>>450
徳川家康の死因が、鯛の天ぷらを食いすきだか中ったかだかではなかったっけ?
駿府から江戸まで四十余里が150年くらいかかったのか?
459(1): 2022/10/02(日)17:17 ID:ive0jZbN(3/6) AAS
>>456
尾張の殿様はしばしば吉原に通っていたというけれど
464: 2022/10/02(日)22:18 ID:ive0jZbN(4/6) AAS
>>460
関東方面の暮らしぶりが和風になったのは家光の時代、上洛よりも後のことだし、
薩摩大隅の端っこから反対側の下北津軽まで和風になってくるのは綱吉の時代だ。
466(1): 2022/10/02(日)23:09 ID:ive0jZbN(5/6) AAS
蝦夷風。
南部藩とか弘前藩とかは、度々、領民に蝦夷の習俗を改めるよう命令していた。
468(1): 2022/10/02(日)23:41 ID:ive0jZbN(6/6) AAS
>>467
徳川家康とか豊臣秀吉とかの大河ドラマで、豊臣秀吉の織田信長の草履を温める前の若い時分、
竪穴式住居みたいなのに住んでたりするような描かれかたしているけど、尾張国でその時分はもう
周囲の地面より高いところに床板を張って木や土の壁のある家屋に住んでるよ。
が、関東で農民が竪穴式住居生活を脱するのは、小田原合戦・徳川家康入封よりも後だよ。
江戸の湿地帯の治水・干拓のために、摂津国佃から農民呼んで来て、堤防とか作らせた。
家光も上洛で上方と関東の暮らしぶりの差に驚いて、同じ摂津国佃からこんどは漁民を呼んできて
魚を取らせ菜種を植えさせた。家光は、上方の女は嫌いだけれど、上方の物品は大好きだったので、
蔬菜農家から職工から醸造家から料理人から京都や大坂や伏見や堺の人を引き抜いていろいろ呼んできた。
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