[過去ログ] ▼▼日本近代史フリーメーソン▼▼ (815レス)
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807
(1): ブログ転載 02/08(土)15:18 ID:tAV1pvfn0(1/2) AAS
>>805
>>1
p80
1775年、ノディコフはフリーメーソンに参加した。フランスのフリーメーソンが革命をもてあそんでいたのに対し、ロシアのそれは神秘主義と敬虔派とバラ十字会の空想に向かっていった。

p140
コシューシコが不在な間の1794年3月に市民、フリーメーソン、陸軍将校たちが新ポーランド軍を募集した。

p174
1763年になるとドイツ語は洗練されて文学用語になり、ドイツ啓蒙主義を表現する準備を整えていた。
この啓蒙主義は元来ドイツの産ではなかった。それはクリスティアン・フォン・ヴォルフが準備した穏健な合理主義に土壌を持つフランス自由思想とつながる、イギリスの理神論の苦しい所産だった。トーランド、ティンダル、コリンズ、ウィストン、ウールストンに代表される理神論の爆発的な主張は、1743年までにはドイツ語に翻訳され、1755年までにはグリムの「書簡」が最新のフランス思想をドイツのエリートたちに広めていた。1756年のドイツには、「自由思想家名鑑」が出版されるほど多数の自由思想家が存在していた。1763年から翌年にかけてバセドーは「真理への愛(フィオレティー)」を出版したが、それは自然そのものの啓示を除く神の啓示を拒否していた。1759年になると、ベルリンの出版業者クリストフ・フリードリヒ・ニコライが「最新文字についての書簡集」を創刊した。それはレッシング、ヘルダー、モーゼス、メンデルスゾーンの論文が豊富に掲載されて1765年まで続き、啓蒙主義の文学上の指針となって、文字の放縦や宗教の権威と戦った。

穏やかな宗教批判
省3
808
(3): 02/08(土)17:02 ID:Phapx9K40(3/6) AAS
『妖術師秘術師錬金術師の博物館』
錬金術師の章

錬金術は賢者の石を使って水銀を金に変成させる法

金属の二匹の竜か蛇が四要素の最中に発生する

ニコラ・フラメルがイノサン納骨堂の第四のアーチの下に書かせたフレスコ画、「ユダヤ人アブラハムの錬金術的絵図」の解説左から右へ
5、金の杖にからまりながら互いに相手を呑もうとする二匹の蛇から成るメルクリウスの杖。〔解釈──溶解と気化、二匹の蛇は溶けた金属の二つの部分である。一つは土性もう一つは水性で、互いに固定しなければならない。
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com

p440
リバヴィウスの著『見直され、改善され、増訂された錬金術』(1606年、フランクフルト)を飾る絵付きの壺二体(図版326、329)も、象徴主義の同じ派に属すものだ。男と女、三頭のワシ、メルクリウスによって鎖で繋がれた二頭の生き物、七金属を表す七頭の蛇、太陽と月、尻尾をかむ竜などが描かれている。
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
省14
809: 02/08(土)17:11 ID:Phapx9K40(4/6) AAS
>>808
なぜか「ユダヤ人アブラハムの錬金術的絵図」の画像をアップロードすると違う画像にすりかわるので>>303のブログに貼った
810: 02/08(土)17:45 ID:Phapx9K40(5/6) AAS
>>808
自分の尾を飲み込み、円形をなしている蛇または竜のことをウロボロスという。完全・永遠・不滅の象徴とされる。宇宙の統一を標榜する中世の錬金術師のエンブレムだった。

>>412関連スレの【シオンの議定書】スレから
>>1
2chスレ:whis
プロトコール第三
わが世界征服の手段

30象徴の蛇
今や私は、われらの目的が成就されようとしていることを諸君の前で断言することができる。さらにあと一歩進めば、(われらの民族を代表する)象徴の蛇の輪の両端は合わさるのだ。この輪が縫合した時には、欧州の国家すべては、強いハシゴの下で押さえられたように動きがとれなくなるだろう。

2chスレ:whis
省7
811: 02/08(土)18:32 ID:Phapx9K40(6/6) AAS
AA省
812: ブログ転載 02/08(土)23:16 ID:tAV1pvfn0(2/2) AAS
AA省
813: ブログ転載 02/09(日)14:44 ID:CoG7g2Cx0(1/3) AAS
p458 各地での状況

大革命以前のフランスのユダヤ人は、市民的諸権利を持たなかった。しかし彼らはいくつかの豊かな共同体を発展させ、何人かの力ある指導者を産み出した。それらの指導者の中の一人は、アミヤン市を含む領地を購入した。彼は大聖堂の法規を定めるため、彼の封建的権利を行使した。司教たちは抗議した。1787年、パリ高等法院はユダヤ人領主を指示した。フランス政府はスペインとポルトガルの王位継承戦争の時ユダヤ人の金融資本家から受けた支援に感謝し、それに答えたのだった。
1720年にジョン・ローの投機事業が失敗した後、インド会社の再建に当たってユダヤ人は重要な役割を演じた。ボルドーのユダヤ人は特に富裕だった。それらの商人や銀行家は、誠実さと寛大さで有名だった。しかし彼らはセファード系のユダヤ人(訳註・スペイン、ポルトガル系ユダヤ人)であることに誇りを持ち、アシュケナージ系ユダヤ(訳註・ドイツ、ポーランド、ロシア系ユダヤ人)を全てボルドーから駆逐してしまった。
十八世紀のスペインでは、ユダヤ人を公然と名乗る者はいなかった。スペイン・ブルボン王家支配の初期に、いくつかの小集団はフェリペ五世の一見啓蒙的な統治のもとで、再びひそかにユダヤ教の礼拝を実施しようと考えた。礼拝は多くの場合発覚した。1700年から1720年の間に、宗教裁判所はバルセロナで三人、コルドバで五人、トレドで二十三人、マドリードで五人のユダヤ人を死刑に処していた。今度の新事実に激怒した宗教裁判所は、新たな活動を開始した。1721年から1727年にかけて法廷が取り上げた八百六十八件の事件のうち、八百件以上がユダヤ人を対象としたものだった。そして、そのうち七十五名を火刑に処した。
しかし、このような事例は以後はきわめてまれになった。宗教裁判所の歴史の晩年に当たる1780年から1820年の期間、スペイン宗教裁判所は五千人の被告を尋問したが、そのうちユダヤ教関係の者は十六人だけであった。しかもそのうちの十人は外国人であった。スペイン法は一貫して「純血」、すなわちユダヤ人の祖先の血が混ざらない血の純粋さを証明できない人々を、全て文官や軍人から除外していた。改革論者は有能な人々を軍と行政から閉め出すこの規定に不満を抱いた。そして、1783年にカルロス三世はこの法の規制を緩めた。
ポルトガルでは、宗教裁判所はユダヤ教の放棄を拒絶したかどで、1717年に二十七名のユダヤ人を火刑にした。イギリスの桂冠詩人サウジがポルトガル最大の劇作家として評価したアントニウ・ダ・シルヴァは、1712年にリオデジャネイロからリスボンにやってきた。彼と母はユダヤ人という嫌疑で捕らえられ、母は火刑にされた。息子は信仰の放棄を誓って釈放されたが、彼は明らかに再度改宗したようである。なぜなら1739年に彼も三十五歳で火刑にされたからである。ポンバル公はその多くの改革の一環として、在来のキリスト教徒と新しい(改宗した)キリスト教徒との間にあったすべての法的差別を1774年に撤廃した。
イタリアではヴェネチアがユダヤ人を解放する方向に向かった。1772年、ヴェネチアのユダヤ人は自由であり、他の住民と全く対等であるという布告が出された。ローマはちゅうちょしていた。ローマのユダヤ人街(ゲットー)は、ヨーロッパで最悪なものだった。律法学者(ラビ)たちが奨励した出産の増大は、貧困と不潔を一層ひどいものにした。ある時は、一平方キロに一万人ものユダヤ人が住んでいた。毎年、ティベル川が氾濫してゲットーの狭い路地をおおい、部屋を泥土で満たした。ほとんどの商業上の仕事から除外されていたため、ローマ市に住むユダヤ人は仕立て職人になった。
1700年当時、ユダヤ人の成年男子の四分の三は仕立て屋で、その慣習は今日に至るまで続いている。1775年、教皇ピウス六世は古くからあったユダヤ人に対する禁令を更新し、さらにこれに新しい禁令を加えた「ヘブライ人に関する教書」を布告した。そのためユダヤ人は馬車に乗ることや埋葬の時葬送歌を歌うことを禁止され、さらに死者のための墓石も建てられなくなった。ローマに住むユダヤ人がこのかせから解放されるには、ナポレオンの時まで待たなければならなかった。
814: ブログ転載 02/09(日)16:52 ID:CoG7g2Cx0(2/3) AAS
p460 抵抗を受けたヨーゼフの勅令
オーストリアでは、マリア・テレジアがその信仰の敬虔さからユダヤ人を特定の地域に居住させ、彼らが手工業を営んだり、公職についたり、不動産を所有したりするのを禁止した。フランス啓蒙主義の洗礼を受けた彼女の息子ヨーゼフは、1781年、この先祖伝来の国土──オーストリア、ハンガリー、ボヘミア──でかなりの割合を占めるイスラエル人を、有効に社会に貢献させようとする計画を枢密院に提出した。ユダヤ人には教育を奨励すべきであり、三年後には一切の法律、政治、商業上の業務に際して国語を使用させるようにする。ユダヤ人は何ら妨げられることなく礼拝を実施し、教義を説くことができる。ユダヤ人は農業部門に参加し、商、工業部門に関与し、芸術活動を行うことができる。──ただし、ユダヤ人はなおギルドの親方にはなれない。なぜなら、親方になるにはキリスト教信仰の宣誓がいるからである。これまでユダヤ人に加えられていた一切の侮蔑的な差別や圧迫は廃棄される。「一切の外見上の記章ももちろん除去される」。枢密院と地方行政官はこの案があまりにも多方面にわたる条項を含み、またあまりにも突然であったため承認に反対した。
ヨーゼフは一歩を譲り、1782年1月2日にウィーンと低地オーストリアのユダヤ人に対して「寛容の勅令」を布告した。それによってユダヤ人はその子弟を国立の学校やカレッジに入学させる権利を得、また不動産の所有を除く経済行為の自由を享受した。しかし、彼らは社会から分離した宗教的団体を保持することを禁じられ、首都にユダヤ会堂(シナゴーグ)を建てることも禁じられた。彼らはさらに一部の都市に住むことを禁じられた。それはおそらく、その地の反ユダヤ主義運動が危険なほど先鋭的だったためであった。ヨーゼフはキリスト教徒の臣下に対して、ユダヤ人の人格と権利を隣人として尊敬するように勧めた。ユダヤ人に加えられる侮蔑や暴力は、いかなるものであれ「きびしく処罰」された。また強制による改宗がなされてはならなかった。やがて皇帝は同様の勅令を、ボヘミアとモラビアとオーストリアのシレジア地方ににも布告した。彼は国庫にもたらすユダヤ人の貢献を認めた。彼は何人かのユダヤ人を貴族の列に加え、何人かのユダヤ人を国家の財務官として採用した。
しかしウィーン駐在のフランス公使の伝えるところによると、この改革は「不承認の一切の叫びを引き起こした。──ユダヤ人にこのような便宜を与えることは、国家の破壊につながると考えられた」。キリスト教徒の商人は新たな競争を嘆き、司祭たちは異端を野放しにするものとしてこの勅令を非難した。律法学者(ラビ)の中のある者は、ユダヤ人の子弟を国立の学校に出すことを拒んだ。彼らはこの制度がユダヤ人の若者をユダヤ教から遠ざけることを恐れた。しかしヨーゼフは初志を貫き、死の一年前にはこの寛容令をガリチアにも拡大した。そこにある一都市プロディには、一万八千人にものぼるユダヤ人が住み、皇帝はそこを近代のエルサレムと呼んでいた。ヨーゼフの死んだ1790年までにウィーンは新しい特許状を積み重ね、その地は十九世紀に開花するウィーンの見事なユダヤ・キリスト教文化を準備した。
815: ブログ転載 02/09(日)16:52 ID:CoG7g2Cx0(3/3) AAS
AA省
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