[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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697: 2022/09/03(土)06:52 ID:HwBvERXo0(1/21) AAS
頼豊といえば庭園である。庭園の話をしなければならない。
讃岐高松の庭園といえば栗林公園である。
栗林公園はもともとは高松藩下屋敷の庭であった。
明治8年に県立公園となり、「栗林公園」という名称で一般に公開されるようになった。
江戸時代は庭園造成が盛んであり、大名たちは庭園の見事さを競った。
大名だけでなく、旗本も庭を作り、大商人も向島などに別荘(当時は寮と言った)を構え、
広大な庭を作った。
大名家では江戸だけでなく、さらに国許でも庭園を作った。
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸ならば斉昭公の作った偕楽園などが今も残る。
江戸時代の日本は、おそらく世界で一番庭園文化の盛んな国であった。
省28
698: 2022/09/03(土)06:53 ID:HwBvERXo0(2/21) AAS
大久保家下屋敷はその後何度か主が変わったが、庭園は明治維新も無事に乗り越えた。
何故無事だったかというと、明治4年に有栖川宮熾仁親王邸となったからである。
明治8年に国に買い上げられて宮内省の所轄となり、皇室の御料地になった。
明治9年には芝離宮と呼ばれるようになる。
敷地内に豪華な迎賓館(洋館)も建てられた。
この迎賓館は関東大震災で焼失し、その後再建されなかった。
戦後になって、これを赤坂の地に再建したのが現在の迎賓館である。
芝離宮の迎賓館はヴェルサイユ宮殿のミニチュアのようであった。
極端な欧化政策が採られた時代のものであり、鹿鳴館と同趣旨の建物である。
これは仕方がないとして、赤坂迎賓館までまるっきりの洋館にする必要があったのか、
省29
699: 2022/09/03(土)06:54 ID:HwBvERXo0(3/21) AAS
[頼豊について]
高松の栗林公園の元となる庭園は、高松松平家が入封する前の領主である生駒家時代に
すでに形作られていたらしい。
寛永19年(1642)に松平頼重(光圀の兄)が常陸下館から讃岐に国替えとなり、高松藩
初代藩主となる。庭園も高松藩に引き継がれ、ここに栗林荘という別荘が建てられた。
栗林荘とは建物の名であるとともに、その周囲の庭や山林も含めた名称となる。
以来歴代の藩主が折々に造園を続け、100年ほどで完成したとされる。
しかし、一番熱心に作庭をしたのはやはり三代頼豊だろう。
頼豊は、讃岐に国入りすると庭園の方ばかりに行っており、ついには庭園内に御殿を
新築して住み着いてしまった。
省22
700: 2022/09/03(土)06:55 ID:HwBvERXo0(4/21) AAS
石の観賞といえば、例えば金閣寺の鯉魚石は、昔から日本一の名石と言われている。
見てみたければyoutubeにいくつか動画がある。
小石川後楽園にも滝石組(の跡)は多い。
石組みは存在しないか、残骸としか思えないものである。
外部リンク[html]:www.japanwaterfalls.com

兼六園のひさご池に落ちる「翠滝」(みどりたき)という名の滝がある。
自然の滝に見えるが、人間が一から作ったものである。
翠滝という名は現代のもので、昔は松陰滝と言われた。
松の巨木の陰にあり、太い枝が姿を遮り、轟音だけをとどろかせていた。
もともとは今の三倍の高さがあったという。
省5
701: 2022/09/03(土)06:55 ID:HwBvERXo0(5/21) AAS
[小石川後楽園の歴史]
小石川後楽園は、そもそもは水戸藩の初代藩主(水戸德川家の初代)である徳川頼房が、
将軍家から藩邸用地として小石川の崖下の地を賜ったのが始まりである。
寛永6年(1629)のことであり、拝領した土地の面積は25万3千500平米である。
よく広さの引き合いに出される後楽園ドームの建築面積が4万6千755平米であるから、
その約5.4倍ということになる。
実は小石川藩邸というのはさらに広い。
水戸藩はその後も近隣の土地を買い取って藩邸を拡げたので、さらに広くなった。
今の水道橋駅北側の北は春日通りまで、西は飯田橋駅近くまでの一帯はほぼ水戸藩邸
だったと考えてよいだろう。
省27
702: 2022/09/03(土)06:56 ID:HwBvERXo0(6/21) AAS
さて、頼房は幕府から小石川の土地を貰って整地し、藩邸を建てた。
藩邸とともに庭も作った。屋敷の裏の崖地の下に広大な庭園を造ったのである。
そのときの藩邸は28年後の明暦の大火で焼失する。
明暦の大火の数年後に頼房が亡くなる。頼房は大火の直後から1年間水戸に疎開しており、
帰ってきてからも高齢のため藩邸復興の指揮はとれなかったと思われる。
小石川藩邸の再建は光圀が担った。
まずは藩邸の建物の再建である。
しばらくの間、後園(屋敷の裏の庭園)は放置されていただろう。
藩邸再建が成れば、すぐに庭をやっていいというものでもない。
江戸の町が復興するまで後園はそのままだったはずである。
省10
703: 2022/09/03(土)06:57 ID:HwBvERXo0(7/21) AAS
頼房が寛永6年に拝領した当時の小石川の有様というのは、凄まじいものであった。
「後楽紀事」によると、「そのときこの地数百年の喬木生しげりて、当時人力の及ぶ
べからざる形勢なり。」とある。
数百年を経た大木が生い茂り、到底人力で拓ける土地とは思えなかったらしい。
小石川の地は、洪積台地の端が沖積平野に落ち込むヘリ(緑)になっており、拝領した
土地は、沖積平野である平らな土地とその裏の崖地が半々であった。
今の春日通りに沿った地下鉄後楽園駅あたりから坂を登った中大工学部、伝通院の手前
までは藩邸の敷地であるが、高台は鬱蒼とした森で、それが崖下までなだれ込み、
平地も巨木と藪が覆っていた。
大袈裟に言うと、縄文以来の原始の姿そのままであった。
省27
704: 2022/09/03(土)06:57 ID:HwBvERXo0(8/21) AAS
日本の庭には様々な様式がある。室町から江戸時代初期には石を中心として組み立て
られた庭が主流だった。ほぼ石と砂だけの石庭というものもある。
石の庭は宋時代の中国に始まったもので、鎌倉の禅宗寺院に伝わり、そこから京都に
伝わった。南北朝から室町時代は、作庭においては東国の方が先進的だったのである。
江戸初期あたりから庭に植栽を多く使うようになった。
庭に季節の草花などを植え、季節の風情を味わうようになったのである。
草花を使った庭は、小堀遠州が大徳寺の塔頭孤篷庵の忘筌で完成させたといわれている。
京都詩仙堂の庭なども、石の代わりにサツキの刈り込みを多く使い、柔らかな印象に
仕立てている。
室町の頃なら大石を並べるところを、丸く刈り込んだサツキの植え込みにする。
省30
705: 2022/09/03(土)06:58 ID:HwBvERXo0(9/21) AAS
頼房に作庭を命じられたのは徳大寺左兵衛という者である。
どういう人物かは分からない。
おそらく、山水河原者(せんずいかわらもの)の頭領だろう。
禁裏や公家、高位の武家や寺社などの庭の作成にたずさわったのは、鎌倉から足利義満の
頃までは石立僧という庭造り専門の僧たちであった。
その僧たちがおそらく土工や掃除人夫として使っていた河原者たちの中から、庭の造営や
手入れの専門家が育ってきた。それらを山水河原者と呼んだ。
河原者であるから身分的には卑賤視されていたが、技能と才能のゆえに有名になったり、
支配層ともつながりを持つ者も出てきた。
例えば慈照寺庭園(銀閣)を造った将軍足利義政は、つねに身辺に数人の山水河原者を
省29
706: 2022/09/03(土)06:59 ID:HwBvERXo0(10/21) AAS
徳大寺左兵衛については、その名字から堂上人であるという説もあるが、これは渾名の
ようなものだろう。徳大寺の庭者(にわもの)だったのではないか。
石庭で有名な竜安寺も、徳大寺家の別荘に建てられた寺である。
徳大寺家は先祖からの庭を幾つも所有していたため、腕利きの庭者を何人も召し抱えていた
のではないか。
徳大寺佐兵衛なる者の身分はともかく、京で有名な作庭家であり、おそらく家光の声掛がかり
で呼び寄せられたと思われる。勿論その配下の庭者も大勢連れて来ただろう。
小石川藩邸の庭造りについては家光がやたらと口を出したらしい。
家光は尻軽の傾向があり、どこにでも馬を飛ばして出かけて行った。
その時に、「我に随い来る足早の者はおるか」などと言って馬を飛ばしたりした。
省21
707: 2022/09/03(土)07:00 ID:HwBvERXo0(11/21) AAS
ともかく、小石川藩邸の庭には、大徳寺左兵衛が采配し家光が口を出した立派な庭が
あったわけである。これを光圀が改修した。後楽園は光圀作ということになっている。
この光圀が作庭した後楽園の姿というのは、具体的にはほとんど分からない。
現在あるもので一番古い図面は、彰考館蔵の「水戸様江戸御屋敷御庭の図 」である。
この図面の作成時期は不明だが、元禄16年の地震で崩れた瀑布が書かれているので、
それ以前に作成されたことは確かである。
この図面によっても、池の形とか築山の位置、どういった建物が建っていたのかと
いったことは分かるが、石組みの有様や植え込みの様子は全くと言っていいほど
分からない。

だが、保守的で正当なものを好むという光圀の性格からして、勝手に庭園を造り変えた
省25
708: 2022/09/03(土)07:01 ID:HwBvERXo0(12/21) AAS
江戸初期までの石を使った庭は、中国の道教や神仙思想、あるいはこれに仏教の教えを
交え、宗教的・哲学的な理念を潜ませた庭である。
しかし、江戸時代も進んでどこでも庭を作るようになると、庭造りは様式化し、一切の
思想性を失う。それまでの庭は、僧と、僧が使役する特別な職人たちが作っていた。
僧は室町時代には石立僧と呼ばれていた。それを手伝う労務者は山水河原者と呼ばれ、
石立僧の補助者から庭造りの主役になっていく。
江戸時代に入ると、庭は徐々に普通の植木職人たちが作るようになる。
職人たち向けの庭造りのノウハウ本が出版され、誰でも庭造りが出来るようになった。
池をひょうたんの形にして「ひょうたん池」だと言ったり、ナマズの形にして「ナマズ池」
だと言ったりするようになるのは江戸時代も後半になってからである。
省31
709: 2022/09/03(土)07:05 ID:HwBvERXo0(13/21) AAS
大名庭園には、庭園部分の他に「お薬園」と「水田」、果樹園と茶園が作られる
のが普通であった。
お薬園とは、センブリやゲンノショウコなど、漢方薬の素材となる植物を栽培する
農園である。地方の大名庭園では朝鮮人参を作るところもあった。
本来、朝鮮人参を栽培するのがお薬園の目的である。
しかし、それは会津や島根など地方だから出来るので、江戸では難しかった。
吉宗の時代に小石川薬園で人参の栽培が試みられたが、成功しなかったという。
仕方なく、人参以外の多種多様の薬草が栽培されることになった。
寛政3年(1791)には114種の薬用植物が栽培されていたという。
幕府の広大な薬園だからこそであり、ふつうの大名庭園では栽培の容易な薬草しか
省14
710: 2022/09/03(土)07:06 ID:HwBvERXo0(14/21) AAS
上記から分かるように、大名庭園というのは大名やその家族の遊覧のための施設で
あった。大名やその家族は(お付きの者たちも含めて)、窮屈な生活をしているので、
時に自然の風景の中で陽光や風にあたり気晴らしをする必要がある。
庭園は、基本的に「お殿様の御休息のための場所」なのであった。
郊外の下屋敷に自然を模した広大な庭園を営み、外を出歩くのと同じ解放感を得ようと
したのである。だから苑路の周囲には日本中の名所に擬した風景(の縮景)を配し、
何度回っても退屈しないよう、四季折々の景色を楽しめるようになっていた。
たとえば冬に雪が降れば、雪景色を楽しめる一画があった。
ただ、たくさんの風景を詰め込んだ結果、大名庭園の景観はチマチマとした込み入った
ものになった。
省41
711: 2022/09/03(土)07:07 ID:HwBvERXo0(15/21) AAS
ついでに。現在は有名庭園にアジサイが植えられていることがあるが、江戸時代には
あまり用いられなかったようだ。
アジサイは死者にたむける花で墓場に植えられるものであった。
だから今日でもアジサイの名所は寺が多い。
アジサイは奈良時代から歌に詠まれ、江戸時代にはよく画題にもされている。
だから人々はアジサイを美しいと感じ、嫌ったりはしていなかったのだろう。
しかし、庭に植えようとまでは思わなかったようである。
アジサイが園芸種として人気を博するようになったのは戦後もだいぶ経ってからである。
ヨーロッパから色彩豊かなアジサイがもたらされ、陰気な印象がなくなったせいだろう。
(しかし、そのアジサイはもともとシーボルトが日本から持ち出したものだという。
省44
712: 2022/09/03(土)07:08 ID:HwBvERXo0(16/21) AAS
[岡山後楽園について]
岡山後楽園は、岡山藩二代藩主の池田綱政が家臣の津田永忠に命じて作らせた庭園である。
起工は貞享4年(1687)、元禄に改元される一年前である。
津田永忠というのは土木や開拓・河川工事に秀で、郡代として数々の難工事に携わった
岡山藩士である。徳川家康における伊奈忠次のような存在だったのだろう。
綱政の頃の後楽園は、「沢の池」という自然に近い沼沢を中心に、別荘である延養亭と
能舞台の他、眺望のよいところに幾つかの亭舎(茶室や農家のような建物)が置かれて
あるだけであった。
池の周囲はほとんどが林と丘陵であり、自然のままの山林に多少手をいれて、桜が
たくさん植わった桜山とか、モミジの多い紅葉山、あるいは黒松が重なる松山などを
省20
713: 2022/09/03(土)07:09 ID:HwBvERXo0(17/21) AAS
綱政の子継政(つぐまさ)は12年の歳月をかけて園内中央に唯心山を築いた。
唯心山は園内のどこからも見え、また唯心山から園内の全てを眺めることが出来る。
唯心山には四方からの登山道が作られ、各登山道に沿って建物がある。
北側の慈眼堂、南側の御茶屋簾池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店である。
それぞれ眺望が良い場所にあり、そこで休憩しながら風景を観賞するのである。
継政は、唯心山のふもとに水路を巡らせ、廉池軒の池と沢の池の間にひょうたん池を
掘り、ひょうたん池から沢の池まで水を流すようにした。
これによって一つ繋がりの大きな池が出来、その周囲を巡る苑路が作られ、池泉回遊式
の庭園となったのである。築山(つきやま)である唯心山もきずいたので、分類上は
築山池泉回遊式庭園ということになる。
省11
714: 2022/09/03(土)07:10 ID:HwBvERXo0(18/21) AAS
[栗林公園]
栗林公園(藩政時代は栗林荘)は川床に作られた庭園である。
徳川頼房の次男頼重が高松松平家の藩祖として入国するまでは、生駒氏が治めていた。
天正15年(1587)、生駒親正が秀吉から讃岐17万3千石を拝領したのである。
生駒家は信長の生母の土田御前の実家土田家と縁戚であり、信長に仕えていたが、その後
秀吉に重用され大名にしてもらった。典型的な豊臣大名であった。
生駒氏入国以前から、高松の人々は、香東川(こうとうがわ)の氾濫に悩まされていた。
当時の香東川は今の香川町大野あたりで河川が二つに分かれ、東側の流れは石清尾山系の
山裾に沿って流れていた。
今の栗林公園から番町筋を流れ西浜に注いでいたのである。
省18
715: 2022/09/03(土)07:11 ID:HwBvERXo0(19/21) AAS
※築城といっても二段階ある。まずは城郭全体の構造を決め(これを縄張り、という)、
土塁や石垣を築く基礎工事。この土木工事を「普請」と言った。
次に整地された敷地や石垣の上に天守や御殿、櫓などを作る工事がある。
これを「作事」という。
普請と作事の違いは、現在の土木と建築の違いである。
築城名人といわれる藤堂高虎、加藤清正などは「普請」の名人であった。
たとえば名古屋城天守閣の石垣は加藤清正が築いたものである。
これに対し、作事の面で築城名人といわれた小堀遠州がいる。
名古屋城天守閣や江戸城天守閣の建物部分は遠州の設計・監督による。
二条城は普請が藤堂高虎、作事が小堀遠州である。
省22
716: 2022/09/03(土)07:13 ID:HwBvERXo0(20/21) AAS
栗林荘(以下、県立公園になる前の庭園を栗林荘と呼ぶことにする)は、最初はこの地の
豪族であった佐藤氏が作庭した庭園であった。※
佐藤志摩介(道益)なる豪族は、はじめ香西佳清に仕え、続いて仙石久秀に仕えた。
続いて生駒氏が領主になると生駒氏に仕えた。
この佐藤志摩介が隠居して道益と号し、隠居場の裏に庭園を作ったのである。
この庭が栗林荘に発展していくことになる。
※高松松平家ではこの庭園のある地を「御林」、庭園を「御庭」と呼んでいた。
しかし栗林公園になる以前のこの庭園は、すべて栗林荘と呼ぶことにしたい。

道益が亡くなった後、庭はおそらく放置されていたのだろう。
その後、香東川の東側の流れの付け替え工事がなされ、同益の庭は大きく様子を変じた。
省41
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