[過去ログ] 【日本史】GHQに焚書された書籍 (544レス)
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120: 2024/09/22(日)12:15:09.57 AAS
p100(六)天保の改革
家斉は大塩の乱後まもなく西丸に隠退し、世に大御所と称したが、治世五十一年間であった。次第に幕政改革の必要を感じる時に当たって、天保八年四月、庶子家慶が職を継いだ。この時より以前天保五年水野越前守忠邦は老中であり、以前から経世の志がある。今や将軍の代替を見るに及んで、かねての抱負を実現しようとし、たびたび倹約の令をしき、武芸を奨励したのを世に水越天保の改革というが、その法令はあまりに細かく取り締まりも厳しかった。
天保十三年四月八日の令をあげて見ると次のようである。
一、野菜ものなど季節がいたらない内に売買いたしてはならない旨を前々からお触れいたします
うながすけれどもこれが有るところ
近来初物を好みます事柄が増長いたし(中略)もし背く者においてこれがあるならば吟味の上厳重に罪科を申し付けなければならないのでございます
この調子で髪を結うには藁を用いること、贅沢な下駄を履いた者は獄に投じること、衣服のこと、櫛かんざしのこと、煙管のことまで規定した。
これによって忠邦は怨みをうけ、天保十四年閏九月十三日「御勝手取り扱いの儀につき、不行き届きの儀、これがある 老中職御免云々」という理由で職を免じられることとなった。この日府内の人民数百人は忠邦の邸内に集まり、瓦礫を投じ、夜に至ってますます甚だしかったという程、険悪な世の中になっていた。
こうして忠邦の改革も失敗に終わり、幕政中興の業は全く破れ、幕府衰亡の兆しはすでにこの時に現れるに至った。
164(1): 2024/09/27(金)21:33:55.57 AAS
p135
(五)和親条約を結ぶ
こうして外交のことは事態がすこぶる重大となったで、ペリーが来るや、幕府は京都所司代に命じて、直ちに朝廷に奏上させ、次いで国書を訳してこれを諸藩に示し、大名有司に意見を述べさせたが、攘夷開港いづれとも定まらず、この時から世の中は、もの騒がしくなって来た。たまたま将軍家慶は六月二十二日薨じ、七月に家定が将軍となるも、幕府はいまだ対外の方針を示すことができなかった。
この月ロシアのプーチャンチンがまた来て、軍艦四隻を率いて長崎で通商その他の要求をして、半年もいたが目的を達せずして帰った。
幕府はこの時「ぶらかし策」をとって嘉永六年十月オランダのカピタンに命じて、米国へ「将軍の喪中であるから返答は延期する」と通達させた。
また来年までと言ったのであるから、米国まで行ってくるとすればここ数年は安心だと考えていた。
それなのに去ったペリーは六月二十日琉球那覇に到着し、八月一日香港に向かって去った。彼は香港・マカオの間の港湾に集合していると、フランス国軍艦やロシア国軍艦が東航するのが目に入った。これは確かに日本に向かうものに違いないと確信し、せっかくの苦心も他国に先んじられては不利益だと思って、一挙日本に向かって再航した。そのために安政元年正月十六日には早くも浦賀近海小柴冲に入った。始め軍艦七隻を率いていたが、次いで二隻が来て、同月下旬神奈川冲に進み、すこぶる強固な態度をとった。
幕府は会見の場所を浦賀にするつもりであったが、彼は江戸の近海でなければならないことを主張して譲らず、今や彼は夜中江戸の半鐘が聞こえるところまでも進んだから、余儀なく会見場所を横浜に変更して、数度の交渉を重ねた結果、孝明天皇の御代、将軍家定、老中阿部伊勢守正弘の時、安政元年三月三日に至り、日米和親条約が締結された。世にこれを神奈川条約という。
これによって下田・函館の二港を開き、薪水食料を給することなど十二章を定めたが、ペリーはこの時から下田・函館を視察して、五月再び下田で条約付録を締結し、六月初旬帰途についた。次いでイギリス・ロシア・オランダとも略々同様の条約を結んだが、ロシアとはこの時国境の問題をも議定した。つまりロシア国とは千島を二分し、択捉以南は日本、ウルップ以北は露領ということにし、樺太は両国人の雑居地ということにして安政三年十二月二十一日日露和親条約と共に確定した。
219: 2024/10/02(水)15:20:04.57 AAS
p8
以前に信忠が二条城で自刃するや、その子三法師丸は前田玄以の手によって、一旦岐阜で主君として奉じられ、次いで清州に移されていたので、柴田勝家・瀧川一益らが皆ここに集まり、秀吉も近江から岐阜を経て清州に至り、三法師丸に謁した。そこで丹羽長秀・池田信輝などを加え清州会議が開かれた。時に秀吉は衆議を排して当時三歳の三法師丸を後嗣ぎと定め、名を秀信と改め、これを岐阜に置き、信雄・信孝にたすけさせることとした。
清州会議の後秀吉は天正十年十月十日大徳寺において盛大な信長の葬儀を行った。こうして秀吉の信用勢威は日々に高まるばかりであったから、織田氏の老練な主将柴田勝家はこれを忌み、瀧川一益と共に信孝を擁して兵を挙げ、秀吉を除こうと謀った。秀吉は信雄と結び、天正十年十一月、北国が雪深くて兵を動かし難いのを知って、その間に信孝を岐阜で囲んでこれと和し、翌年一月兵を北伊勢に出して一益を撃ち、清州城を手に入れた。三月に至り雪がとけたので勝家の軍が動き出した。秀吉はここにおいて信雄を一益に当たらせ、自らは賎ヶ嶽に迫って勝家の軍を破り、勝ちに乗じ、長駆して越前北庄(キタノショウ)(今の福井)に勝家を囲んでこれを滅し、次いで加賀・越中に進み、前田利家を尾山城(金沢)に、丹羽長秀を北庄にとどめてかえった。
すぐに信孝も信雄に攻められて自殺し、一益も力尽きて秀吉に降伏した。時に天正十一年四月、ここにはじめて信長の遺業は自然と秀吉の手に落ちて来た。
(五)秀吉は大阪に拠る
秀吉は創業の略が成就するや、天下を定める根拠を必要とし、大阪の地はこの頃北と東に河を控え、西は海に面し、四通八達の便がある上に要害の地であることから、かつて信長に対抗十一年間にも及んだ石山本願寺の跡に一大築城を計画した。三十国以上の人数を出して、陸路舟路から大石巨材を集めて来て、古今奇絶の大工を起こした。壮大な天守閣もできた。すぐに堺や伏見の商人をここに移して住まわせ、諸国の城持衆・大名・小名はまたこれに築地を構え門戸を連ねて壮麗を極め、国内第一の広大な城下町が経営成就された。天正十一年十一月のことである。
279: 2024/10/09(水)21:25:59.57 AAS
>>276
民会は直接民主制
461: ブログ転載 2024/11/14(木)16:20:26.57 AAS
p295
小説の方では明治十八年坪内逍遙の「小説神髄」によって写実を主とする小説が現れた。逍遙の「当世書生気質」はいうまでもなく、二十年に出した長谷川二葉亭の「浮雲」もそれである。二葉亭は言文一致の先祖といってもよい。
この新気運に乗って頭角を表した者に、尾崎紅葉・幸田露伴がいる。紅葉は東京の人、文章は西鶴に基づき、描写の態度は写実の脈を追ったものが多かった。二十六年の「伽羅枕」及び「心の闇」は代表作である。晩年には「金色夜叉」をも出した。露伴も東京の人、紅葉と同じく文章は西鶴に基づき、描写の態度も写実であったが、紅葉の客観的であったのに対してこれは主観的で、その構想の内には余程理想を加えたところがあったようである。明治二十五年に「五重塔」を出している。これらの人の態度には、固有のものに基づきながら新しいものを摂取し、己において融合して、独自の創作を出したところがあらわれている。明治における自覚期の作として相応しいものである。
522: ブログ転載 2024/11/23(土)10:15:55.57 AAS
p346
(三)明治大正時代の回顧
明治の維新は実に未曾有の一大変革であった。しかも王政復古の大業は極めて円満に進んだことは、古今東西の歴史にその類例を見ないところである。以来王政の恵みにして一君万民の国体を実にしている。明治二十二年にはおそれ多くも明治天皇は欽定憲法を発布しなさり、その時から日本独自の立憲君主国となり、憲政の思想も日を追って発達した。
外交方面では断然外国と修好するという方針に出て、世界の外交界に突入して国権国益を主張し、日清・日露の戦に国の国力を示し、韓国は併合され、条約は明治四十四年をもって全く対等のものとなり、東洋の盟主たるだけではなく、全世界を指導するという基礎が出来た。
経済の方面では新興の勢力をもって資本主義の経済となり、また地方経済であったものを国民経済の時代にまで進めてきた。
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