[過去ログ] 【日本史】GHQに焚書された書籍 (544レス)
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127(1): 2024/09/23(月)12:59:01.47 AAS
p109(四)国学勃興と尊皇思想
このように、天下に率先して尊皇の大義を唱えた者は、たちまち罪にされるに及んで、公に幕府の不義を唱える者は衰えたが、この思想はおさえられるはずもなく、かえって国学の勃興と共に根強く尊皇の思想が培われ出した。
さきに水戸光國が国史の勉強をはじめた頃に僧契沖がいた。契沖は寛永十七年摂津尼ケ崎の藩士下川元全の子として生まれ、十一歳で出家し、諸所を周遊したが、博学にして特に古語に詳しかった。
契沖が大阪近くの今里妙法寺にいる頃、水戸光國は万葉集の善註がないのを恨み、下河辺長流に命じ註釈のことにかからせていたが、長流はその業を終えないで卒したので、光國は、契沖が長流の親友であり、かつ学徳ともに高いのを慕ってこの人を招聘しようとしたが、契沖は辞退して行かなかった。
しかし契沖は密かに光国の志に感じ、万葉集代匠記二十巻、総訳二巻をつくってこれを光圀に献上すると、光圀は大いに喜び、白金一千両、絹三十疋を贈ってその志に報いた。すでに契沖は大阪高津に、よい土地を占って移り住み、室を円珠庵と名づけ、俗客を絶って清修自適し、元禄十四年六十二年で寂した。
この万葉代匠記は万葉註釈書のうちでも特に傑出したもので、著者の自筆本が今日に残っているから、直接契沖の学説を伺うこともできる。
この時から国学の研究が盛んになり、享保八年には荷田春満が伏見稲荷山の祠官の家に生まれ、もっぱら国史国典によって国体の真髄とそれに付随した神道とを明らかにしようとすることを主張し、国学の学校を京都に建てることにしていたが果たさずに死んだ。元文元年六十九であった。春満は国史・律令にくわしく、神代巻・万葉集に創見あり、加茂真淵はその門人である。
ふみ分けよ 大和にはあらぬ唐島の
あとを見るのみ 人の道かは ー春満ー
※日本人なら朱子学だけじゃなく日本の書籍を読もうよ!みたいな歌
省2
174: 2024/09/29(日)00:21:16.47 AAS
日章旗の由来に嶋津斉彬が船に使い始めて幕府に教えたとあったけれど、白地に赤丸なのは、島津の初期の家紋の丸ニ朱十字紋を意識してるのかな。
199: 2024/09/30(月)01:58:46.47 AAS
>>196
この調子じゃ薩摩の留学生は大政復古とか不敬罪とか鼻で笑ってそう。
247: 2024/10/05(土)18:00:05.47 AAS
p175(2)千島樺太を交換す
千島と樺太を交換するに至った順序はおおよそ次の通りである。
(1)嘉永六年ロシアのプーチャチンが長崎に来た時、千島の択捉以南を我が国、北をロシア領、樺太は他日委員を出して境界確定をするまでは雑居地ということにした。
(2)ロシア人はますます樺太の南部を侵し、安政六年にはロシアのシベリア総督ムラビエフが、自ら軍艦を率いて品川に来て、樺太全部が露領であると主張した。
(3)幕府は文久二年外国奉行竹内保徳、同松平康直を露都に遣わせ、北緯五十度をもって、境界としようと主張し、明くる年八月委員を出して実地踏査の上決定しようと約束して帰る。
(4)明くる年八月我が国は国事多端のため、約束した委員を遣わせることが出来なかったので、露委員は空しく帰った。
(5)慶応二年に至って、幕府は函館奉行小出秀実を遣わせて以前の交渉を繰り返したが、今度はロシアが相手にしなかった。
(6)明治五年外務卿福島種臣が露国代理大使ビュッオフと談判して、「樺太の五十度以北を二百万円にて買収したし」と交渉したが、彼はかえって「樺太全部が露領である」と主張した。当時黒田清隆は、北海道拓殖のことに力を尽くしていたが、樺太について実地で検(しら)べた結果、清隆は書を上って、樺太の地は極寒で小石が多く痩せた土地、利益は少ない、ここを開拓するという費用をつかって、むしろ北海道拓殖に尽くすことが勝っていることを論じた。
(7)朝廷は黒田の論議を受け入れて、明治七年八月、露国駐在大使榎本武揚に交渉させ、樺太全島を彼に譲り、千島全部を我に収め、占守海峡を国境とすることに決定し、多年の紛議ははじめて解けた。
455: ブログ転載 2024/11/13(水)15:35:51.47 AAS
p288
この表によって明治十年の貿易総額と昭和三年のそれを比較すると八十倍となっている。ちなみにこの表に現れている入超のことは今後における問題となる。
貿易品についてみれば、原料輸出・製品輸入をしていたものが、大正三年以降原料輸入・製品輸出の時代となってきた。これはたしかによい傾向といわねばならない。
貿易と共に海運の事業も大いに発達した。十八年九月日本郵船会社(資本金一千一百万円)十七年五月大阪商船会社(資本金百二十一万円)、二十年浅野迴漕部(資本金二十万円)ができたことは前に述べた。これが日清戦役後進んで海外航路を開拓し、政府はこの機会に海運業の発展を助長しようとして、明治二十九年三月航海奨励法及び造船奨励法を制定した。浅野迴漕部は東洋汽船会社として活躍し、日本三大汽船会社といわれるようになった。
我が国の海運は戦争がある毎に画期的発展をとげ、欧州大戦があって世界第三位の海運国にまで漕ぎ着けた。欧州大戦後は各国競って自国の貿易挽回と海運保護政策に出たので、我が国の海運界も不振であるが、それでも量的には第三位の威容を示している。なんでも次の表によってその状況をほぼ知ることができる。
年次 汽船(船数 t数) 帆船(船数 t数)
明治三 35隻 15498t 11隻 2454t
昭和元 7779 3662447 42161 1266601
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