[過去ログ] 【日本史】GHQに焚書された書籍 (544レス)
前次1-
抽出解除 レス栞

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
リロード規制です。10分ほどで解除するので、他のブラウザへ避難してください。
5: 2024/09/07(土)12:58:33.35 AAS
興味があるのが宣教師来日からなので

第三十四 邦人の海外發展と當時の文化/18
第三十六 外國との交通/43
第三十七 島原の亂と鎖國/55

のみランダムに転載
75: 2024/09/14(土)07:41:01.35 AAS
日蘭交流の始まりはウィリアム・アダムス達が漂着した時に朱印状を渡したのが始まりで、朱印状を受けて東インド会社がやって来た。
外部リンク[html]:www.ndl.go.jp
144: 2024/09/25(水)14:35:27.35 AAS
p120
間宮林蔵、名は倫宋、常陸筑波郡の人。享和元年北地探検の幕吏に従って松前に行った。文化五年には幕命を受け、松田伝十郎と共に樺太探検に上ったが、途中風波に襲われて一旦中止し、今度は林蔵単身樺太に渡り、西海岸を探検して樺太が島であることを発見した。今でも間宮海峡といってそれを記念している。間宮はさらに黒龍江の下流をさかのぼり、シベリアに入り、デレンに至り、土人の人情風俗を調べてかえった。
しかし昭和三年の御大典に際して、国家的功労者として贈位を申請した中に、新潟県中頸城郡米山村字鉢崎生まれの松田伝十郎という者がいる。この人によると間宮は松田伝十郎の下僚で、松田が調査したものを間宮が宣伝したものにすぎないから、松田海峡とせねばならないと言っている。
伊能忠敬は下総の人。晩学をもって有名である。五十歳の時から学を修め、天文・暦学に詳しく、特に測量の術については国内で並ぶ者なく、幕府に願って寛政十二年蝦夷地を測量して地図をつくり、翌年、伊豆・相模・常陸・房総から陸奥を測量し、次いで全国に及ぼし、前後十七年を費やして日本興地実測図を制作した。文化十四年には江戸府内図をもつくって幕府に進呈している。これら伊能の地図の正確なことは驚くべきもので、近年に至るまで本邦地図の基本となっていた。

(四)外国船打ち払いの令を下す

このような間にロシアは再び使節を遣わした。つまりラックスマンが去って十二年の後、文化元年十月九日ロシア国の使節レザノフが長崎に来て例の信牌を示して通商のことを願った。幕府は翌年三月まで待たせておいて、そうしてから、結局は「国法が禁じるところであるから」という理由でこれらを帰らせた。レザノフは素早く長崎を去り、文化三年から四年にかけて、露米商会員フホスト及びダビドフの二青年士官を使って、盛んに我が国の北辺に寇すこととした。火つけ、略奪、あらゆる恐嚇をたくましくした。
これに関して非常に国内の世論は沸騰し、ついに蒲生君平・柴野栗山などがロシアに対する主戦論となり、憂国の志士によって血涙をそそがせたのである。
181: 2024/09/29(日)03:51:40.35 AAS
p144
これとほとんど同時に開始されたのは紀州藩主徳川慶福の擁立運動で、同藩の附家老水野忠央・彦根藩主井伊直弼らがこれを主張する。一橋派はその人物を推し、紀伊派はその血縁が近いことを説く。前者には世論の後援があり、後者に幕府内庭の後援があった。
なおここで注意すべきは水戸藩の勢力ということであり、水戸藩は攘夷をもって一世を風靡するという気概がある時、慶喜を擁立するか、慶福を立てるかは、つまり水戸勢力の維持か破壊かの分岐点でもある。
このように両派互いに相異なった主張によって、各その好むところを擁立しようとした際、将軍家定もその生母本寿院も共に水戸藩に反感を有し、慶福を世子に定めることが相応しいことを伝えたので、安政五年正月十六日幕議が初めて定まった。
ここにおいて松平慶永・島津斉彬・山内豊信などが京都手入れの策を講じ、越前藩からは橋本左内・梅田雲浜その他京都に入り込み、井伊直弼はまたその人の臣長野主膳を京都に入らせて対抗運動をするということになり、問題はますます複雑化した。
ちょうどその時直弼は、攘夷によって幕府を苦しめる斉昭の子を迎えるのを望まず、家定の意を受けて、血縁の近い紀伊慶福を養って将軍世嗣ぎとする旨を、安政五年六月二十五日に公表して衆議を斥けた。慶福時に年十三。七月二十一日名を家茂と改めた。
七月五日にはこれに反対した斉昭に対して急度慎、尾張慶勝・松永(松平の誤植?)慶永に隠居・急度慎を命じ、かつ慶喜の登城を停めた。
翌六日には家定は薨じ、八月八日将軍の喪を発表し、家茂が後を継いだ。この時から直弼を非難するという声はいよいよ高くなるばかりであった。
375: ブログ転載 2024/10/27(日)05:39:36.35 AAS
中西藤之助(亀勇太せがれのゆかり)がこの時日田へ参ります事柄は、なんとしても木山為彦の輩を救い申すつもり、それゆえに退出します。
亀勇太は一同日田へ参りますはずのところ病気につき、参ることができずにいます件、大谷朝三仲間の内話でうかがい及びました。
任三の見込み通りであるならば、小寺の輩の挙動は薩長などから後押ししています。同類の勢いには見えません件を申し出ます。
併せて愚考ではこの輩、一端天草を追われます者どもの事は、その萌芽に乗じていて、おさえていません。それならば最終的に斧の柄を用いますようにもなってゆくはずと考えます。
浮浪の輩の天草の滞留などは厳重の御所持、これから後は行き届きますよう御措置がありません。それならば叶い難いと考えます。
任三はこの行いを、十に八、九は御郡代に説得致すはずなのは必定でございます。しかし万一、日田の書状が参り、急いで行くようなこの事柄もございますので、僕はかねて御郡代様御懇意のわけをもって日田へ参り天理の公義を推挙し、いつも速やかに平穏の御処置に帰しますよう、僕一己の考えをもって豊後へこっそり出かけたく考えます。
お考えはいかが御高許(評かまま)を伺います。官脚出発に直面し、草稿のまま差し上げるのを受け入れ、御覧ください。よろしく御推読なさることをのぞみます。恐惶頓首拝

四月二十八日
荘村助右衛門
坂本彦衛様
省3
429: ブログ転載 2024/11/08(金)07:21:07.35 AAS
(5)日本海の海戦

ロシア国はついに空前の難事業と目されたバルチック艦隊の東航をくわだてた。
三十八隻からなる大艦隊、大小合わせて七十隻以上、明治三十七年十月十六日、ロジェストウェンスキーを提督として、本国リバウの港を出発し、東上して、三十八年五月二十七日対馬海峡に向かって進んだ。ウラジオへ入ろうとするのであった。我が国は午前五時これを発見し、午後一時五分東郷司令長官は戦闘開始を命じて有名な信号を掲げて士卒を励まし、二時二十五分旗艦三笠はまず火蓋を切って、この日のうちに勝敗の数がすでに定まり、翌二十八日戦いを継続し、ウラジオストクへ逃げた敵艦はアルマズと称する小艦他二隻であった。しかも我が国が失ったところは水雷艇三隻だけ。敵の捕虜ロジェストウェンスキー・ネボカトフ以下六千人以上、戦死四千三百人、我が国の死傷六百五十人であった。東郷長官は神霊の加護によるもの、天祐を保持したものと感慨無量言うところをしらなかった。こうしてこの戦いは世界海戦史上不朽の名誉を残して終った。
別に我が国は陸海軍協同のもとに七月七日樺太に上陸し、八月四日全島を平定した。
468
(1): ブログ転載 2024/11/15(金)15:35:55.35 AAS
p298
彫刻の方は偶像彫刻も時代に合わないし、迷ったもののようであるが、唯一の活路は横浜開港であった。横浜が開港されると、欧米人が好奇心から、我が国の彫刻を求めるようになり、したがって我が国では各種の小彫刻があらわれた。明治十年頃まではこれ位のことで、大きな発展もなかった。明治十年の第一回勧業博覧会には象牙彫刻という新しいものが出て、十四年の第二回博覧会には、会場が雪が降ったように白く見える程であった。また我が国特有の木彫りも復興し、仏像彫刻その他に妙技をふるった高村光雲がいる。光雲の「鹿」が挿絵に出ているから、その解説において光雲を詳述する。光雲と共に竹村久一がいる。光雲の門下に米原雲海・山崎朝雲がいて名高い。
牙調家で木彫りを兼ねた人に石川光明がいた。明治三十年頃から西洋風の彫刻も行われ、材料としては大理石・銅・石膏を用いるようになり、朝倉文夫・北村四海などの名工が出ている。
建築方面では西洋建築がはじまったことは特筆すべきことであろう。明治三年龍の口に煉瓦造りが出来、五年に銀座改築、六年に工学寮ができた。この頃はまだ和洋折衷という方であったが、明治七年工部省が出来て、西洋建築の主なるものは外人の設計により、遊就館とか東大文学部本館とかが出来た。
その後ようやく日本建築家の手によって設計が出来るようになり、二十一年には東大工学部本館が辰野金吾博士によって設計された。博士は工科大学の前身である工部大学造家学科の第一回卒業生で明治十二年十一月に卒業した人である。博士の設計に関わるものはその他にも多数ある。同期の卒業生は片山博士と共に四名いたが、片山博士が二十七年設計されたものに奈良博物館がある。その後続いて邦人建築家が出て、主としてルネッサンス式の洋式建築が出来、近時丸の内ビルディングのように米国式四角な建物も出来るようになった。
この石材アーチ式の洋建築の中にあって、木造式の日本建築もまた失われないで二十五年工部大学卒業の伊東忠太を始めとし、塚本靖・関野貞その他によって古建築の真価をあきらかにし、これが修理を行うようになった。大正九年に出来た明治神宮は伊東博士の設計で千古不易の国民精神の表徴している。
その他染め織の術・陶器・漆器の製作など、いずれも洋風をいれて精妙を競うようになった。
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.020s