[過去ログ] 【日本史】GHQに焚書された書籍 (544レス)
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51: 2024/09/13(金)17:01:25.11 AAS
In augustus 1614 werd Brouwer weer vervangen door Specx, die door Both voor nog vier jaar was aangenomen omdat hij volgens hem 'aldaer bovenmaten is bemint', en Brouwer maar matig. Bovendien had Brouwer Both laten weten 'dat hij preciselijck op sijnen tijdt verlost wil wesen'.[3] Brouwer en Specx verschilden erg van inzicht wat betreft de handel in Japan en konden het niet goed met elkaar vinden.[4] Toen Brouwer vertrok nam hij achtenzestig ingehuurde Japanners mee, waarvoor hij toestemming had gekregen van de shogun. Veertien ambachtslieden, zeelieden om een snelle Japanse bark te bemannen en een aantal samoerai. Both had om 300 gevraagd, maar daar was geen ruimte voor op de twee schepen, de Rode Leeuw met Pijlen en de Hazewind.
Wel had men de gedemonteerde bark aan boord. Het rekruteren van samoerai was een idee van opperkoopman Jan Pieterszoon Coen, die hen, zoals hij in 1614 in zijn Discoers schreef, onder meer wilde inzetten bij het verdedigen van forten en bij aanvallen op de Spaanse en Portugese machtscentra Manilla en Macau. Veel samoerai waren in Japan werkloos geworden na het einde van de Japanse burgeroorlogen in de Sengokuperiode en waren op zoek naar nieuwe werkgevers. De praktijk viel echter tegen. Uiteindelijk zouden er niet meer dan enkele honderden samoerai gerecruteerd worden.[5] Ze werden beschouwd als erg dapper maar moeilijk te disciplineren.[6] Bovendien werd het in 1621 verboden door de shogun, volgens Specx omdat hij bang was dat Japan betrokken zou worden bij buitenlandse conflicten.
日本の醸造家
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ブラウワー氏はまだアローズ号のレッド・ライオン号に乗船しており、現在は主任商人の地位にあり、アンボン、バンダ、マカッサルを経由し、再びジャワ島の北海岸を経由して日本に向かった
63: 2024/09/13(金)20:12:54.11 AAS
In 1799 the VOC went bankrupt. The trade with Japan was continued by the Dutch Indian government at Batavia, with an interruption during the English occupation of Java, during which the English (Stamford Raffles) unsuccessfully tried to capture Dejima. After the creation of the Kingdom of The Netherlands (1815) the trade with Japan came under the administration of the Minister of the Colonies by way of the Governor General in Batavia. The directors of the trade (Opperhoofd) became colonial civil servants.
From 1855 the director of the trade with Japan, Janus Henricus Donker Curtius, became 'Dutch Commissioner in Japan' with orders to conclude a treaty with Japan. He succeeded in 1855 to conclude a convention, changed into a treaty in January 1856. In 1857 he concluded a commercial paragraph in addition to the treaty of 1856, thus concluding the first western treaty of friendship and commerce with Japan. His successor, Jan Karel de Wit was Dutch Consul General in Japan, though still a colonial civil servant. In 1862 the Dutch representation in Japan was transferred to the Ministry for Foreign Affairs. This change was effected in Japan in 1863, Dirk de Graeff van Polsbroek becoming Consul General and Political Agent in Japan
1799年、VOCは破産した。日本との貿易はバタビアのオランダ・インド政府によって継続されたが、イギリスによるジャワ占領中、イギリス人(スタンフォード・ラッフルズ)が出島の占領に失敗し、中断した。ネーデルラント王国(1815年)の建国後、日本との貿易はバタビア総督を通じて植民地大臣の管理下に入った。
貿易責任者(オッペルホーフド)は植民地公務員となった。1855から、日本との貿易責任者、ヤヌス・ヘンリクス・ドンケル・クルティウスは、日本との条約締結を命じられ、「日本駐在オランダ委員」となった。彼は1855年に条約を締結することに成功し、1856年1月に条約に変わった。1857年、彼は1856年の条約に加えて通商条項を締結し、日本との西洋初の友好通商条約を締結した。
160(1): 2024/09/27(金)15:44:47.11 AAS
p133
ここにおいて嘉永五年メキシコ戦争に驍名を馳せたペリー提督に十二隻から成る大艦隊を授け、武力の後援により日本を強要してその目的を達成させようとした。
ペリー提督はいまだ必ずしも日本に向かって禍心を包蔵するものではなかったが、いかにもやむを得ないので兵力に訴えてもその目的を致すつもりの決心であった。言い換えればその使命は平和的であったが徹頭徹尾平和的ではなかった。当初から喧嘩腰ではなかったが、時と場合とによっては、そうすることも辞せない覚悟であった。
十二隻の艦隊ではあったが、実際我が国に姿を現したのは前後九隻で、最初に浦賀に来たのは四隻であった。
ミシシッピー号は旗艦である。一千七百トン・三本帆柱・外輪汽船・速力七、八ノット・石炭を1週間分積載することができるもの、順風の時には帆を利用して石炭を倹約する。
サスケハナ号は途中旗艦とした外輪汽船、プリマウス号は帆船で浦賀に来た時はミシシッピーにひかれてきた。サラトガ号はやはり帆船でサスケハナにひかれて来た。時は嘉永六年六月三日午後五時頃であった。
ペリー提督は米国の強烈な希望を背負って来た。大統領フィルモアを始め、国務長官・海軍長官その他内閣諸長官は多大な希望をこの遠征隊に託していた。
だから当時の日本人が彼ペリー提督の来航を見て慌てて狼狽、これを敵視し、これを仇敵視したのは間違った見解であり観察でもあったが、だからといって後の人がペリーを日本の恩人視するのも見当違いである。
ともあれ幕府も大いに驚き、老中阿部正弘は浦賀奉行戸田氏栄及び井戸弘道に命じて浦賀の西北九里が浜で応接させ、通商のことについては明くる年オランダのカピタンを使って報告させよと言ってペリーをかえらせようとした。
ペリーは日本が二百年来の旧習を打破するには、その評議のために多少の日数を要さなければならないことを思い、まずは幕府に進呈すべき贈り物を搭載した運送船の未着と、支那長髪族の乱に伴い、同地在留の米人を保護する必要もあったので、彼は来春また来るつもりのことを約束して、六月十二日浦賀を去った。去るにのぞんで、幕府の制止をしりぞけ、強いて艦隊を率い、深く江戸湾に侵入するなど、態度はすでに日本を圧するという様子があった。
211: 2024/10/01(火)18:31:58.11 AAS
p161学習参考
(1)挿絵解説
「七卿の都落ち」は土方伯爵家蔵の澤宣嘉筆によったものである。八月十八日の政変で攘夷親征を唱えた長州は京都に留まることができず、東山の妙法院を出て、十九日午前四時、夜明け方に降る雨を冒して長州士卒四百に護られて京都の南竹田街道を過ぎた。図はこの時の光景である。午前十時頃には伏見の長藩邸で姿を変えて長州に落ちた。兵庫で楠公社に詣で、ここから船で周防の三田尻に上陸、毛利候の別邸招賢閣に入った。
「東征大総督は官軍を江戸に進めなさる」絵は戊辰戦記絵巻によったもので、この正本は宮内庁の所蔵にかかる。今、宮が天龍川にさしかかられるところ。川の両岸にはこの地の神官・農民・町民などが報国川西隊・報国川東隊の二隊を組織して宮をお迎え申した。
(2)指導要領
この教材もほとんど尋小国史に出てきた所である。ここではそれを復習し、補充する心持ちで取り扱えばよい。個々の史実もさることながら、それよりもむしろ、その中に潜在する一貫した流れを会得させることが必要であり、かつその流れの中に潜む大政奉還の精神に触れさせることが肝要である。
時代は次第に近づいて来るから、よく現代と照応して、環境整理その他の取り扱いをするとよい。
241: 2024/10/05(土)00:47:02.11 AAS
もし東京から都が移動したら東京は以前のように寂れた草っぱらになるのだろうか。
京都のように観光資源があるわけでもなく…
鎌倉みたいな古都になるのもよさそう。
270: 2024/10/07(月)22:48:52.11 AAS
ここに投稿すると、著作権が5chになるというのが気になっていて、次からは下のブログから転載したという形をとることにしました。
374: ブログ転載 2024/10/26(土)06:58:53.11 AAS
>>370訂正
どうあっても島中の政令はこれまでのように無調子の厳しさは論じ申しません。
>>373にも出てくる「無調子」の意味がよくわからない。調子無し?
391: 2024/10/28(月)16:54:10.11 AAS
肥後藩国事資料巻六中の荘村の手紙部分終わり
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