[過去ログ] 【日本史】GHQに焚書された書籍 (544レス)
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95: 2024/09/19(木)06:39:27.03 AAS
また元和元年護国寺を音羽に、元禄二年護持院を神田に、同年霊雲寺を湯島に建て、城中に四脚門などを建てたりした上に、当代元禄の風尚と相待って奢を極め、その費用は巨額にのぼり、幕府の財政も大逼迫をしてきた。綱吉はかつて日光山に参詣しようとしたのに、ついに用逹し難かったくらいである。
ここにおいて勘定奉行荻原重秀の建議を容れ、従来の慶長金を改鋳して元禄金の出現を見た。元禄金は慶長金と形状重量共に同じであるが質が悪くなっている。そのために金相場(銀貨に換算するときの相場)に狂いを生じ、物価は高くなって財界が不安となり、上下は大いに苦しむこととなった。
176: 2024/09/29(日)01:44:22.03 AAS
ハリスとの日米和親条約に調印した岩瀬忠震、井上清直は二人とも一橋派。

・川路聖謨…井上清直の実兄。しかし江戸開城では殉死
・松平近直…安政7年死去

・大政奉還のブレーン大久保忠寛
「政事総裁職となった松平慶永らとも交友し、第14代将軍・徳川家茂にも仕え、幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案している。第15代将軍となった徳川慶喜にも大政奉還と、諸大名、特に雄藩を中心とした議会政治や公武合体を推進した。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、若年寄・会計総裁に選出された。その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した(→江戸開城)」
「江戸開城時、遺恨を残しそうな資料を全て独断で焼却。町会所からの貧困対策の莫大な積立金を新政府側に全額委譲。新政府はこれを都市基盤整備に流用。」
江戸府民が積み立てた七分金の運用を渋沢栄一に任せた。
222: 2024/10/02(水)23:15:59.03 AAS
p11
秀吉は北条父子に対して参内して天皇に拝謁することを促したのは天正十六年五月のことであった。しかし秀吉を賎(いや)しんでこれに応じず、よって秀吉は天正十七年奏請して北条氏討伐の勅令を承り、翌年三月、秀吉自ら総勢十七万以上を率いて京都を出発し、諸城を手に入れて小田原を包囲した。
このとき北条氏直は愚将で軍評定は容易に定まらない。世にこれを小田原評定というが、結局総勢六万は龍城防守に決した。秀吉はまた長囲の策をとることとし、陣営を険しくそびえ立つ石垣山上に営み、城を俯瞰して日夜攻略を謀る。陣中ではしばしば宴を張り、茶を呑み、歌舞を催しながら、裕々たる態度をとったので、城中の将士は意気おのずからくじけ元気がなくなり、城を支えること百日以上で、氏直は出て降り小田原城は陥落した。秀吉は氏家に自殺を命じ、氏直を高野山に放った。
ここにおいて秀吉は、家康を武相・両総・伊豆・ 上野の六国に封じ、下野・安房を付属国とし、別に近江その他十万石以上をも与え、家康の故地は秀吉の一族を封じることとした。このとき奥州の伊達政宗も恐れをなして来て服従し、奥羽地方もまた平らげて、国内も早くも秀吉の威に靡かぬ者なく、天下統一の業はここにはじめて完全となった。

(七)信長秀吉の勤王精神

信長は永禄十年(二二二七)十一月正親町天皇から御料所回復の勅令を受けるや、感激して皇室のために尽くそうと決意し、永禄十一年九月二十六日京都に入り、すぐに朝廷の御料地を横領している者に還付を命じ、また京都市民に五百二十石の米を貸し、これから三割の利米を取ってこれを朝廷に献上すると、年十三石以上に達したという。
また御所の御事は一日もおろそかにしてはならないとして、日乗上人や村井民部丞貞勝に命じて工事を監督させ、紫宸殿・清涼殿などの修繕は足掛け三年を費やして元亀二年に出来上がった。
また天正十年には久しく絶えていた伊勢神宮の造営を行い、熱田神宮・石清水八幡宮の諸社をも修復し申し上げた。こうして皇室の典礼を復興し、離散した公卿も帰って来て、京都は次第に元のようになって来た。
230: 2024/10/04(金)05:58:07.03 AAS
>>6に続く
次のレスからはp162主題の五 我が国現代の学習
249: 2024/10/05(土)19:41:10.03 AAS
薩長同盟
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
パークス
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
姉小路
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
306: 2024/10/13(日)06:41:47.03 AAS
(中略)
「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化の殲滅(せんめつ)運動であったのだ。
「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊皇攘夷」を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このように古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
「尊皇攘夷」式にスローガンとしていうならば、今日からは「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」だと豹変したのである(後に福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」は、経緯、主旨が異なる)。
これほど激しい豹変を、それも昨日と今日の価値観が逆転するといった具合に短期間に行った民族というものも珍しい。
どちらの態度も、己のアイデンティティを破壊することに益するだけであることに、彼ら自身が気づいていなかったのである。
日本人は、テンション民族だといわれる。
明治維新時に植え付けられたと思われるこの特性は、大東亜戦争敗戦時にも顕著に顕れた。
その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を食いつぶすほど悪化していることに気づく人は少ない。
このことは、ほとんど近代政治家と官軍史観による教育の犯罪といってもいい過ぎではないだろう。
373
(1): ブログ転載 2024/10/26(土)06:54:32.03 AAS
中西は言う。槍柄の木になります分は御用木であり、切り出します事を堅く禁じられます。
ただ曲木あるいは老木の数抱え分、この材は槍柄に用立てません物につき、この分は御処分になります件、返答はその席にて、小寺から金子千両を借用致したい件を中西に頼談に及びますけれども、亀勇太は断りました。よってその時小山と申します者の悪口の一件は、小寺幸兵衛から亀勇太がうかがいました様子ですと言う。
鈴木は言う。小山清四郎、次いで一之助と申します者は、近年長崎に参り異館建築の請け負いを致し、幕吏の内にも所々に出入り致します者でございます。
この兄弟が相談して話す天草無調子のあの件この件は、領主直轄保護林に中傷致しましたとの治部右衛門の以前からの疑惑でございます。清四郎の一件は完全に吉田の輩の事とは別事でありますと言う。
中西と小山との確執は、先年長岡五郎左衛門が冤罪がもとで欠所を仰せ付けられました頃から、この両家は不和でございます。中西は長岡方、小山は長岡の向こう方になります者であると言う。(この三人の諸生の話でうかがいました)
鈴木は言う。小寺は完全に双方が互いに争います中で、奔走遊説致し動揺させます者と見えます。
その理由は藤田五一郎方にも参り、とりなしたからとうかがいましたと言う。
小寺藤兵衛・永島亘は完全に薩州よりの探索に相違なく見込みます件を任三は話し、それを聞きました。
鈴木は言う。この時の一件は郡代の飄忽の妄動から全ての事が起きました事柄につき、小生は日田に参り、三人の者どもは寛大の上にもなお慈悲の所置はありません。それならば叶い難い。
これによって小生は精一杯最大限入り込み尽力いたすつもりの覚悟でございます。
省5
384: ブログ転載 2024/10/28(月)16:45:16.03 AAS
なんで
528: 2024/11/24(日)19:21:35.03 AAS
>>2
【シオンの議定書】スレに『戦時生活の建設』森崎善一著を転載していて、その中にワシントン会議について書いてある部分がある。
2chスレ:whis

高等小学国史新指導書下巻にもあるように、ワシントン条約の時に日英同盟もなくなってしまった。
日英同盟の解消と日本の軍縮を併せて、アメリカは20年前から太平洋戦争に照準を合わせて計画してきた。戦勝を確実なものにするために。
そしてワシントン条約は今では絶滅動物の保護に使われていて、わざと名称を被せて過去の軍縮条約を忘れさせようとしてる卑怯もの。
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