[過去ログ] 【日本史】GHQに焚書された書籍 (544レス)
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7: 2024/09/07(土)13:11:22.02 AAS
>>6参考
しかし図なし
増沢淑 著『新高等小学国史插画解説』,明治図書,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション 外部リンク:dl.ndl.go.jp
8: 2024/09/07(土)13:18:21.02 AAS
ここにおいてポルトガルスペインの宣教師が渡来して、熱心に布教したので、九州の各地はもちろん、機内では京都・大阪・伏見・堺、中国では山口・広島、南海では和歌山、東は関東から仙台・会津、北は金沢に及んで数多の信者を出すに至った。信長の頃には宣教師の数五十九、寺院数二〇〇、信徒十五万というのである。
中でも九州豊後の大友義鎭(ヨシシゲ・宗麟)、肥後の有馬晴信・肥前の大村純忠三侯のような者は、信仰のあまり遠く使いをヨーロッパに遣わすこととなった。
使いとなったのは日向の伊東の子で宗麟の遠い親戚に当たる伊藤義賢(ドン・マンショーー満所)晴信と従兄弟である千々岩清左衛門などであるが、いずれも十五六の少年であった。
一行十四人がポルトガル船イニャースリマ号に搭乗して、宣教師ソリニャーニと一緒に天正十年正月長崎を出発し、マカオ・マラッカ・ゴアを経て、アフリカの南端を回って、天正十二年八月ポルトガルのリスボンに着き、さらにスペインのマドリードに赴いて国王に謁見し、イタリアのローマに入って法王グレゴリー十三世に謁見して信書を呈し、滞在中法王が没したから次の法王セックスタス五世の即位式に臨み、その後イタリアの北方を巡って再びスペインに入り、天正十四年四月リスボンを出航、十八年六月地図・地球儀・時計などの珍奇な什器を携えて帰朝した。
この時よくこれらの少年が使節の対面を保ち、いたるところ歓迎を受けた。実にこの邦人がヨーロッパの地を踏んだ始めである。
22(1): 2024/09/09(月)14:25:09.02 AAS
p36
(四)諸大名に対する政策
大名の統御についてはさきにも述べたが、家康以来特に意をそそいだもので、親藩忠義直が封じられた尾張、?ョ宣の封じられた紀伊、?ョ房が封じられた水戸藩が最も重んじられ、これを御三家といい、将軍の羽翼とさせ、幕府の要職には譜代大名のみを用いて外様大名を用いず、やがて参勤交代の制度を定めて最も有効に統御のことに成功している。
江戸幕府では中央集権政策の一つとして、はじめ諸侯の子を人質とする法をとったが、これは戦国の余弊であるからといってやめ、時々証人としてその妻子を出させたり、または江戸においたりした。
慶長十一年一柳直盛は、その子七歳である直家を江戸に住まわせ、藤堂高虎はその前年に妻子を江戸に移してから、諸大名の子弟の人質となって江戸に至り麾下に列する者も多かった。
しかし参勤交代などはいまだ定まらず、二、三年、もしくは五、六年に一度くらい参勤した程であったが、家光が寛永十二年の武家法度でこれを規定してからは、すこぶる厳重なものになってきた。武家法度は最初十三条からできていたものであるが、家光に至って二十一条となっている。その第二条に規定したことは次のようであった。
大名小名の在江戸交替を相定める所である。
毎年四月中に参勤致さなければならない。
従者人数は近年甚だ多い。かつ国郡の費用、かつ人民の労である。
今後はその相応により少なくこれを減らさなければならない。
省3
50: 2024/09/13(金)16:58:21.02 AAS
外部リンク:nl.m.wikipedia.org
Hendrik Brouwer
Brouwer in Japan
bewerken
Via Ambon, Banda, Makassar en weer de noordkust van Java voer Brouwer, nog steeds op de Rode Leeuw met Pijlen, en nu in de rang van opperkoopman, naar Japan. Hij had een brief van prins Maurits bij zich en een lading specerijen en Kamerijks linnen om te ruilen tegen zilver. Onderweg in Soerabaya deed hij de vorst een kanon kado waar deze al vaak om gevraagd had en dat de Portugezen hem niet wilden geven. In augustus 1612 kwam hij aan in Hirado. De Compagnie had er de beschikking over een stuk grond waarop 22 woningen en een groot pakhuis stonden. Op 13 februari nam hij er de leiding over van Specx. Hij maakte de gebruikelijke hofreis naar Edo om de shogun Tokugawa Ieyasu te bezoeken. Hij gaf hem de brief van prins Maurits en een van Pieter Both, beide in het Spaans vertaald, en er werden geschenken uitgewisseld.[1]
Voor de zijdehandel tussen China en Japan zou volgens Brouwer een factorij op Formosa moeten worden opgericht. Het Fort Zeelandia (Formosa) is pas in 1624 gerealiseerd. Brouwer werkte ook mee aan de handelsbetrekkingen met Ayutthaya in het kader van de inter-Aziatische handel. Het sappanhout en de hertenvellen uit Siam waren in Japan uitermate geliefd. Ondertussen hadden William Adams en Jan Joosten van Lodensteyn vanuit Uraga een handel op Siam en Tonquin opgezet. Brouwer wees een verhuizing naar de basis van Adams, in de baai van Edo, af.
66: 2024/09/13(金)20:31:57.02 AAS
ブレスケンス号とその姉妹船カストリクム号(マールテン・ゲリッツ・フリース指揮)は、オランダ領東インド総督アントニオ・ファン・ディーメンの命令で、日本沖の北東のどこかにあると言われていた金銀諸島の探索に派遣された。また、北アジアへの航路の調査も予定されていた。1643年6月、嵐でカストリクム号から引き離されたブレスケンス号は、本州北東部の南部領山田湾に入った。新鮮な水と食料を探している間、シェープ船長率いる10人の船員が捕らえられ、藩都の盛岡に連行された。彼らは後に江戸に送られた。ブレスケンス船員にとって不幸なことに、日本に侵入しようとしていた4人のイエズス会士のグループが、ほぼ同じ時期に日本の別の場所で捕らえられていた。その結果、幕府は海岸防衛の問題を非常に心配していた。しかし、船員がカトリック教徒ではなくオランダ人であることが判明した後、幕府の不安は和らぎ、解決すべき問題は、どのような手順でオランダ人を解放するかを決定することとなった。[7]
Coyett's superiors in Batavia considered his service as Opperhoofd satisfactory. He was able to maintain an optimal diplomatic stance vis--vis the bakufu in the face of several difficulties and provocations. His status was also enhanced when he and his brother Peter Julius were ennobled by Queen Christina of Sweden in 1649.[8]
バタヴィアのコイエットの上官たちは、彼の幕府守護者としての働きを満足のいくものとみなしていた。彼は、数々の困難や挑発に直面しながらも、幕府に対して最適な外交的立場を維持することができた。1649年に彼と弟のピーター・ユリウスがスウェーデン女王クリスティーナによって貴族に叙せられたことで、彼の地位も向上した。[8
71: 2024/09/13(金)21:06:45.02 AAS
近代日本史板のフリーメーソンスレにも書いたけれど、このオランダ商館長フリーメーソンのイサーク・ティチングが、島津重豪と文通して幕府の機密を聞き出していたスパイで、田沼意次の息子がしようとしていた?日本開国計画も知っていた。
この時代に世界貿易を賭けてヨーロッパは戦っていてイギリスはオランダに負けたけれども、バテレンが日本占領しようとしてたという密告をしたオランダ人は、ただ単に日本での権益や支配権をポルトガル・スペインから奪い取りたくて自演したのかと疑っている個人的感想。
80(2): 2024/09/15(日)08:00:34.02 AAS
三跪九叩頭の礼にあるように銀獲得のために、おいおい相手国を支配するためならなんだってやる欧州人は、好意を持ってそうに見えても真意が見えないから信用できないのにやすやすとオランダ人を信用した幕府。
しかも互いの国を誹謗して他国を追い落とすけれど、開国時に各国と次々条約締結したようにいざとなれば連携バッチリなのは各国にユダヤ人がいるからなのか。
例えば、シーボルトの長男はオランダ人で、ロシア海軍の通訳になろうとして、結局在日英国公使館の通訳になり、不平等条約の最たるものとして知られる日墺修好通商航海条約協力の功によりオーストリア=ハンガリー帝国の男爵となり、維新後はお雇い外国人として40年明治政府に雇用されて井上馨の秘書として条約改正の任にあたって、不平等条約改正できた明治政府有能!みたいなプロバガンダになってるけどシーボルトが原因じゃんっていう。
「1522年(明の嘉靖元年)寧波に来舶して貿易を開いたポルトガル人は僅か二十年を経ずして居留地を追われ、逃れた厦門からも放逐された。以来ヨーロッパ人たちは武力による脅しの手段で中国との貿易を開こうと試みたが、幾度かの経験すべてが失敗に終わったため、中国皇帝の命令を甘受する方法に変更し目的を果たそうとした。1544年(明の嘉靖23年)以後、中国に来舶する欧州人たちは貿易による利益を求めて自国の名誉を棄て去り、ただ命令に従うに至った。彼らは互いに他国を誹謗して貶め、自国とだけ貿易を行うよう皇帝に懇願した[1]。その姿は、元来外国人を蛮夷視する習慣があった中国人をして、西洋人に対する傲慢心を益々増長させる原因ともなった。」
87(1): 2024/09/16(月)09:58:40.02 AAS
p71
貝原益軒はまた損軒ともいい、筑前の人で、明暦の頃木下順庵その他の門に入り、学が大成して福岡候三代に歴仕した。益軒の性格は恭しく慎み深く、経学に関するものの他は、皆仮名まじり文で書を著したから、民衆を益することが多く、その書は百種以上ある。益軒十訓のようなものは今でも有名である。正徳四年八十五で没した。
山崎闇斎は京都の人で、はじめ僧となり、次に土佐に行き谷時中について朱子学を学ぶ。
海南土佐で発達した朱子学を南学というが、闇斎は京に出て南学を弘(ひろ)めた。門下六千人、大義名分を明らかにする尊王者を後世に出した学統である。天和二年六十五で没した。
山鹿素行は通称甚五左衛門、会津に生まれ、江戸に出て修学、承応元年浅野長矩は素行を呼び寄せ、禄千石を支給し、礼遇実に十一年、万治三年辞して江戸に出ているうちに聖教要録を著して、幕府の朱子学を攻撃したので幕府が忌憚するところとなった。
素行の学は古学派に属するとも見られる。その罪によって寛文六年から十年まで赤穂に配流されたが、大石良雄などの感化を受けたのはこの間のようである。素行は許されて江戸にかえるや、経学を捨ててもっぱら兵学を唱えた。兵学派と称される所以である。
素行は当時の儒者が、儒学を尊ぶあまり、我が国をいやしみ軽んじる者もいたので、大いにこれを憂え中朝事実を著した。ここに素行独自の学説が存在する。
素行の学説は武士道論と国体論とからなっている。武士道においては忠義を説き、国体論においては神道を基調として固有の国体を力説している。
233: 2024/10/04(金)12:02:46.02 AAS
>>232訂正
癸卯
○癸丑
530: ブログ転載 2024/11/25(月)10:41:32.02 AAS
p354
三月一日建国の宣言が発せられた。宣言によれば王道政治を実施するという。王道は仁による政治、道による政治であるから、我が国の皇道と互いに通じる所もあり、また満州自らの歴史にかえったことになるのである。
我が国は前には朝鮮を生命線とし、後に満州国を生命線としていたところ、今日本と提携して楽土を建設しようとする新満州国が出現したので、我が国は他国に率先してこれを承認し、昭和七年八月八日、元帥陸軍大将武藤信義を満州派遣特命全権大使・関東軍司令官・関東長官として任命され、手厚い勅語を賜った。
かの満州事変発生以来、支那はこの問題を国際連盟に訴えたから、傍ら我が国は連盟外交に悩まされてきたが、ジュネーブにおける帝国全権松岡洋右は敢然起こって連盟脱退を宣言してかえった。同時に昭和八年三月二十八日詔書を下され、今後国民の向かうべきところを諭しなさった。すなわち連盟のために尽くすことは十三年ばかり、今次満洲国の新興に当たり、帝国はその独立を尊重し、健全な発達を促すことで東亜の禍根を除き、世界の平和を保つ基であるとする。不幸にして連盟の所見はこれと背馳するものがあり、ここに連盟を離脱するという措置をとらせた。しかしこれをもって友邦のよしみをおろそかにするものではない。国民は各その業務に励み、向かう所は正を履(ふ)み、行う所は中を執り、力を合わせて邁進することで、この世局に処して進めよとおっしゃられる。
天皇の計画はまことに宏遠、我らはこれを謹んで守り、対満・対支・対露・対米その他あらゆる困難な外交を切り抜けて、日本精神を基調とした正しい世界をつくり出さなければなるまい。
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