[過去ログ] 【茂木内閣】自由民主党の派閥20【河破朋充】 (1002レス)
前次1-
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) 自ID レス栞 あぼーん

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
834: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)01:12 ID:mni8cZrr0(1/7) AAS
? 中世

10

応神天皇の御代に中国の文化が日本に伝わりました。
文字はそれ以前に渡来はしていたでしょうが、多くの人々の注意を引き始めたのは矢張りこの時からだと思います。
つまりそれまで文字さえ無かった国に実に素晴しい文化が伝わったのです。
こう書いて見てわたしは始めて無理もないと思いました。

取り分け喜んだのは天皇補佐の家系の若人達でした。
われもわれもと中国の「王道政治」を学び取ろうとしました。
これ等の人達の中でも断然群を抜いて輝いている三人の人達がありました。
天皇の末の皇子わきいらつこの命と第四皇子大鵲の命ともう一人は天皇御自身とでした。(此の人だけは若くはありませんが。)
省11
835: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)02:24 ID:mni8cZrr0(2/7) AAS
わけてもわきいらつこの命は、夫、帝舜の治世を常住ならしめるためには万世一系の皇統と云う云はゞレールは、
「からだ」だけでなく「こころ」にも一本敷かなければいけない、
つまりたとえて云えばτ01-α01の計画は、レールの上をトロッコを走らせる代りに、
もう一本空に線を引いて電車を走らせようと云うのである。
そのため生れて来たのだから、夫、帝舜の理想を具体化して理想的な「祭政一致」の政治を実現するにはどうすればよかろうと思って、
或る時は中国の聖賢の書を貪るように読み、或る時は深く思いを潜めた。

時の責任者応神天皇はこれをごらんになっていたく喜ばれた。
それでわきいらつこの命を立てて皇太子とし、大鵲の命にその補佐を御依頼し、するだけするとさっさと崩くなられた。

天皇家側近の人々は、
天皇が崩くなられたのだから当然皇太子が位をお就きになるものと思ってわきいらつこの命の御住いになっておられた宇治へ行って、
省14
836: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)03:14 ID:mni8cZrr0(3/7) AAS
これを聞いた群臣は成る程と先例に気付き、直ぐに宇治へ行った。また大阪へ行き、また宇治へ行きしている中にお祝の鯛が腐り始めた。
群臣の意見も二つに分れて、この儘では内乱も起り兼ねまじい有様になった。
然し何しろ大鵲の命の説はこれまでの日本のやり方であるからこれに賛同するもの多く、
この儘では大鵲の命を是非皇位に就けようと云うわきいらつこの命の願いは達せられそうもなかった。

わきいらつこの命は今こそ自分が身を引くべき時だとお考えになった。そして静かに一室にお入りになった。

命は端座して思われた。餘儀ない仕草で自ら命を断つ破目になったが、
孔子は「学んで時にこれを習う。また楽しからずや」と云っているが、
若し自分があれ程心を籠めて学んだ所を兄天皇の補佐に実地に使うことが出来たならばどんなに楽しかったであろうかと思うと、
思わず涙が一滴頬を濡らしたが命は此の期に及んで不覚なと自らお命を断たれた。

所で大宇宙の蒼穹を虹のように貫いている電線はどう走っているのであろうか。
省9
837: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)03:33 ID:mni8cZrr0(4/7) AAS
11

わたしは「春宵十話」で「新学制は根本から変えなければいけない」と云うと、
文部次官の内藤誉三郎(ないとうたかさぶろう)さんが毎日新聞へ半頁の反論を掲載した。
「新学制はデューイの教育学を基礎にしているのだから変えなくてもよい」と云うのである。
それで早速書店を探すと、デューイ(米人)の著書の日本語に翻訳されたものが十一冊あった。
わたしはそれを手を抜かないで読んだ。そしてすっかり驚いた。

「実(げ)にや世界は広大無辺、其の片隅にはこんな無茶な教育学があろうとは」

それで早速随想形式の論文「紫の火花」を書いてデューイの教育学の不可な所以を詳論して朝日新聞社から出した。
そうすると朝日新聞社はまだよく売れているのに此の本を絶版にしてしまった。
日教組が横槍を入れたのだと思う。
省6
838: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)05:57 ID:mni8cZrr0(5/7) AAS
12

弟に自殺されてしまった大鵲の命の御心境は、後に明治天皇がマザマザと思い出して、こう詠んでいられる。

 目に見えぬ神に向いて恥ざるは
  人の心の誠なりけり

大鵲の命は皇位に就て仁徳天皇となられた。
天皇はこの御製のように政務に奨励されたから天下はよく治った。
仁徳天皇にこう云う御製がある。

 高きやに登りて見れば煙立つ
  民の竈はにぎわいにけり
省12
839: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)06:33 ID:mni8cZrr0(6/7) AAS
03

丁度其の時佛教が入って来た。蘇我氏はこれを受け入れると云い、物部氏は受け入れてはいけないと云って相争った。
稍徳太子は佛教を受け入れようとお考えになって、蘇我氏に加担された。物部氏は滅んだ。

相拮抗していた二大勢力の一方が滅んだから、蘇我氏の勢力が非常に強くなった。

稍徳太子は佛教によって世を治めようとして十七條の憲法を作られた。
第一條は一つ、「和を以て尊しとす」と云うのである。

然し太子がなくなられると蘇我入鹿は上宮王家(稍徳太子の御一家、家長は山背大兄皇子)を焼き滅ぼした。
此の暴挙を憤った中大兄皇子は鎌足と謀って蘇我氏を滅ぼした。
省7
840: (ワッチョイ 8633-2XI+) 2021/10/26(火)06:58 ID:mni8cZrr0(7/7) AAS
天皇は稍徳太子に倣って佛教によって国を治めようとした。
そして多くの僧院を建てて研究に従事させた。
然し佛教の本体は観念であって認識ではないから何の成果も上がらなかった。
其の後天武天皇血縁の天皇が多く歴代天武天皇の方針に従った。
奈良七代の第三代聖武天皇は奈良に大佛(ビルシャナ佛)を作り諸国に般若心経を配布して国法に依るべき所を示された。
僧達は次第に政治に関与するようになり遂に皇統を危くする道鏡の如きものすら出た。

朝廷は佛教の弊害にこりて都を奈良から長岡に移し次で京都に定めた。
然し皇道の御稜威(みいつ)は全く地に堕ちた。其の実例に平城天皇の皇太子高岳親皇がある。
此の人は佛道がきわめたくて父皇の懇請を斥けて太子の位を捨て、中国に渡り、足らずとして印度に行こうとして、今の佛印で黒豹に襲われて亡くなった。
その志気(しいき)は壮(さかんなり)とすべきも、既に人々は上代を忘れてしまっているよい証拠である。
省6
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.281s*