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(2): 妓生について 2022/05/01(日)17:25 ID:??? AAS
 
■妓生の種類

一牌・二牌・三牌・蝎甫 (カルボ)編集
李氏朝鮮時代の妓生は3つのランクに別れていた。最上の者を一牌 (イルペ)、次の者を二牌 (イペ)、最も下級な者を三牌 (サムペ) と呼んだ。

李能和によると、遊女の総称を蝎甫 (カルボ) といい、中国語で臭虫という[6][23]。
蝎甫には、妓女 (妓生) も含まれるほか、殷勤者 (ウングンジャ)、塔仰謀利 (タバンモリ)、花娘遊女 (ファランユニョ)、女社堂牌・女寺堂牌 (ヨサダンペ)、色酒家 (セクチュガ) が含まれた>[23][24]。

李氏朝鮮末期には、三牌も妓生と呼ばれるようになり[3]、これらの一牌・二牌・三牌の区別は付かなくなっていた。

▼一牌

一牌 (イルベ) 妓生は、妓生学校を卒業後は宮中に出た[3]。宮中に入れた一牌妓生は気位が高く「妓生宰相」とも呼ばれた。
また「売唄不売淫」と言う様に貞節を重んじ、身体を売る事は無いことを建て前としていたが、実際には国家が支給する給料に比べて支出が多かったため、特定の両班に囲い込まれる事で資金的援助を得る「家畜制度」 (畜は養うと言う意味) が認められていた。

これは、事実上の妾制度である。ただし、囲い込まれた一牌妓生との間に産まれた子供は、例外的に奴婢ではなく良民の子として遇する制度があった。高麗・李氏朝鮮では片方の親が奴婢・賤民の場合その子を奴婢とする制度があった。
ただし、この制度の対象となるのは男子のみで、女子は原則として、母親同様妓生となった。

また、宮中に入れなかった一牌妓生は自宅で客をとったりした[3]。また宮中に入った一牌妓生でも、30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業 (実質的には売春業) を営んだものもいた[3]。

一牌には「薬房妓生」 (医女参照[25]) や宮中の衣服関係を担当した「針婢」 (「尚房妓生」) も含まれた。

▼二牌

二牌 (イベ) は、殷勤者または隠勤子といい、隠密に売春業を営んだ女性をさし、一牌妓生崩れがなったという[3]。住宅街の中で暮らしながら隠れて売春する者が多かった。

▼三牌

三牌 (三牌妓生) は完全に娼婦であり、搭仰謀利 (タバンモリ) ともいう[3]。雑歌を唄って接客したとされる。
近代化以前は京城に散在していたが、のちに詩洞 (シドン) に集められ、仕事場を賞花室 (サンファシル) と称して、李氏朝鮮末期には、三牌も妓生と呼ばれるようになった[3]。

▼花娘遊女

花娘遊女は成宗の時代に成立し、春夏は漁港や収税の場所で、秋冬は山寺の僧坊で売春を行った[3]。僧侶が手引きをして、女性を尼として僧坊に置き、売春業を営んでいた[3]。

僧侶が仲介していた背景について川村湊は、李朝時代には儒教が強くなり、仏教は衰退し、僧侶は賤民の地位に落とされ、寄進等も途絶えたためと指摘している[3]。

▼女社堂牌

女社堂牌は大道芸人集団で、昼は広場 (マダン) で曲芸や仮面劇 (トッポギ)、人形劇を興行し、夜は売春を行った[3]。男性は男寺堂 (ナムサダン) といい、鶏姦の相手をした[3]。女性は女寺堂 (ヨサダン) といい、売春した[3]。
社堂 (サダン) 集団の本拠地は安城の青龍寺だった[3]。川村湊は女社堂牌を日本の傀儡子に似ているといっている[3]。

▼色酒家

色酒家とは日本でいう飯盛女、酌婦で、旅館などで売春を行った[3]。売酒と売春の店舗をスルチビといい、近年でもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ (酒場女)、
喫茶店 (チケット茶房) ではタバン・アガシ (茶房女)、現在でもサウナ房 (バン) (ソープランド) や「頽廃理髮所」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ (カミソリ娘) という女性がいる[3]。

■妓生房

また、ソウルには妓生房と呼ばれるものがあった。主として官庁の管理の元に営業をしていたが、遊廓に似ており、かなり厳格なしきたりを以って運営されていた。しかし地方では三牌が多く、妓生房やそれに類するものは存在しなかったとされる。
  
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