[過去ログ] 末法燈明記の作者は最澄か?U (260レス)
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1: 2020/07/29(水)07:00 ID:V2bOJhqR0(1/12) AAS
前スレ 末法燈明記の作者は最澄か?
2ch.scスレ:psy

「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。
この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。
末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」
『末法燈明記』
2: 2020/07/29(水)07:23 ID:V2bOJhqR0(2/12) AAS
仏滅後千五百年以降、現代に至る「末法」の世においては、肩書だけは僧を名乗る者たちが現われる。
そのような僧籍にあるという肩書などを尊いものと見做しても、ろくなことは無い。
また末法の世で厳しく戒律を守る僧がいたとしても、超ー珍しい現象で、街中に虎が出現し、うろついているような感じになるであろう。
誰も、そんな現象があるとは夢にも思わないだろう。

二、
末法の世で厳しく戒律を守る僧がいるという話が聞こえて来ても、
それは実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされただけであって、虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない状態になるであろう。
3: 2020/07/29(水)07:53 ID:V2bOJhqR0(3/12) AAS
実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされ
ているのだと嘘を容易く見抜くようになり、ほんとうは虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない世の中になっている。
4: 2020/07/29(水)07:55 ID:V2bOJhqR0(4/12) AAS
44 名前:神も仏も名無しさん 2020/07/29(水) 00:27:24.73 ID:dUtWz0oI
私達がこうして、いろいろ言葉であーだこーだ言ってるのって
仏陀がするなって言ってたことじゃないの?
なぜ仏陀の時代にお経や仏像がなかったか、
それを考えると
2000年もの間多くの人たちが誤った教えを正しいと思い広めて来たのではないか?
そんな気も少しします。
それは私が実際に仏陀のような人(悟りを開いたと思われる人)を見たことがないからというのもある。
5: 2020/07/29(水)08:26 ID:V2bOJhqR0(5/12) AAS
正しいか間違いかは一旦置いておいて、↓の水と氷の譬えは一つのヒントになると思った。
外部リンク:chisan.or.jp

シューニャ(空)の字面上の意味は「欠く」「ゼロ」ということだが、
それで伝えたかったのは、縁起の正しい捉え方だとか。

例えば、水と氷が同じものか別ものか、連続か不連続かという疑問に白黒つけることはできず、
観点の違いで答えは変わってくる。
「空」はそういうことを伝えたいらしい。

ただそれだと、本質は存在しているけど、人間には捉えられないだけと受け取れなくもない。

よくよく考えてみると、仏教では本質はどこにもないと断言しているのだろうか、
それとも、どこかに存在するかもしれないが人間には知る由もないと考えているのだろうか。
省1
6: 2020/07/29(水)08:27 ID:V2bOJhqR0(6/12) AAS
佐保田鶴治も同様の観点から、般若心経は密教のお経であり、全部を繰り返すのは無駄であって、最後の明呪だけを繰り返せばよいとしている。

心経末尾のマントラについて、こ
>の真言は『般若大心陀羅尼』と同じ真言である。
(大正新脩大藏經 佛説陀羅尼集經卷第三 大唐天竺三藏阿地瞿多譯 般若波羅蜜多大心經(印有十三呪有九) 、
本経は654年訳出とされ、玄奘の般若心経訳出との関連は不明。
と記載
(有名な心経の法隆寺本は 577年に没したヤシという僧侶の所持した写本で609年請来とされているそうです)
7: 2020/07/29(水)10:13 ID:V2bOJhqR0(7/12) AAS
空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ―
講師:東京大学教授 斎藤 明 先生

空についての五つの誤解
空とは何でしょう? 最初に、空についての代表的な五つの誤解をみることで、空を考えるきっかけにしたいと思います。
一つ目の誤解は、「空は非存在(無)を意味するから、ある種のニヒリズム(虚無主義)である」というものです。
これは、空を何も存在しないことと誤解したうえでの批判です。
そして二つ目が、「それゆえ空の説は、伝統的な仏説のみならず、すべての言語習慣や倫理・道徳を無意味なものとする。
だから、空では倫理も成り立たない」という批判です。これもまた、空を非存在と誤解したうえでの非難なのですが、実際にはむしろ逆で、空、
つまりすべては固有の本質をもたず変化しうるという理解に立つときに、言語習慣も道徳も
修行によって凡夫が仏になることも可能になるというのがナーガールジュナ(龍樹)の考えでした。
省6
8: 2020/07/29(水)10:28 ID:V2bOJhqR0(8/12) AAS
縁起を悟ったブッダは、縁起にもとづき存在か非存在かという偏ったものの見方をしない「中道」を説き、それを根拠に「無我(心身の諸法は我をもたないこと)」
「非我(心身の諸法は我でないこと)」を自覚することの重要性を語っていました。初期の仏教では、ここにいう無我の意味で空を説いています。
また、後にみるように無我を観想する三昧を「空三昧」と呼び、「無相三昧」「無願三昧」と並ぶ「三三昧」の一つとしてその重要性を強調していました。
こうしてみると、空は大乗仏教になってから登場したわけではなく、ブッダの時代からすでにあった思想を、
さらに敷衍して「諸法は固有・不変の本質をもたない」という意味で説いたという流れであることが分かると思います。
四番目は「空は無自性、つまりすべての事物が、それ自身の固有の本質を欠くことを意味する」というものです。一見すると正解のようにも聞こえますが、
ただしこれは「空」という言葉の意味を述べているのであって、「空」という語が用いられたのは、「空でない」という誤解、つまり「事物には固有の本質がある」
という錯覚が人びとにあるからだというのです。ただしポイントは、「空」という言葉の意味に尽きるのでなく、「空」という言葉で表現された「空そのもの」が
探究され、体得されるべきである、というところにあります。このことは後に述べたいと思います。
最後の五番目の誤解は「空の思想は、唯識や如来蔵、仏性、本覚などの他の大乗思想と矛盾する」というものです。唯識説は、すべては識のみであるという思想で、
省6
9: 2020/07/29(水)10:35 ID:V2bOJhqR0(9/12) AAS
空の語源はサンスクリット語のシューンヤで、「家に人がいない」とか「王国に王がいない」というような時に使われ、
「期待される何かを欠いた」状態を示します。ですからシューンヤ自体は「空(から)の」「うつろな」「欠いている」「ない」「寂しい」などや、
数学のゼロを意味します。
この空を仏教では「AはBを欠いている」あるいは「AにはBがない」などと用いました。この場合のAには「諸法」が、Bには実体的な「自我
(アートマン)」や実体的な「固有の本質」などが入ることになります。
空ということばの使われ方を歴史的に見ていきますと、初期仏教やその後のアビダルマ仏教の時代には禅定と結びついた実践的な意味合いが強調されます。
例えば『スッタ・ニパータ』(1119)には「つねに心して自我に固執する見解をとり除き、世間を空と観察せよ。そうするなら死を乗り超えるであろう。」
とあり、先ほどの三番目の誤解の箇所でみたように、「無我(非我)観」にもとづいて五蘊など自分を構成する要素、
世間を構成する諸要素(諸法)が無我であると、空を観察することの重要性が説かれています。
やがて、自我と我所(自我の所有するもの)が空であると観察する「空三昧」、無常を知るために事物には固定した特徴がないことを観察する「無相三昧」、
省1
10: 2020/07/29(水)10:39 ID:V2bOJhqR0(10/12) AAS
『般若経』、ナーガールジュナの空
このような背景のもと、『般若経』は、実践徳目として智慧の完成(般若波羅蜜)の重要性を強調します。そしてブッダの悟りの本質もこの智慧の完成であるとし、
智慧の完成を求める者すべてを菩薩と呼びました。そして菩薩は、悟りや涅槃をも含むあらゆるものに固定した特徴を見ることがなく、すべてに無執着であるとして、
この無執着のあり方を「空」と呼びました。
『般若経』が智慧の完成とともに、無執着のあり方としての空を強調したのは、当時のインドで最有力の部派であった説一切有部が、
諸法、すなわち心身の諸要素――ひろくは事物の構成要素――には固有・不変の本質がある、と解釈することへの強い批判があったからです。
そしてこの『般若経』の空をより詳細に考察し、伝統部派による縁起解釈に対して、「縁起する、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない」と
いう空の立場から改めて批判したのがナーガールジュナでした。
冒頭の四番目の誤解でみたように、空の立場からは、すべてのものは他に依存して生起するのだから、固有・不変の本質をもった存在、言いかえるなら
固定的な存在としてあり続けることはない。氷と水の関係で考えてみますと、氷が水からできるのであれば、氷と水が別だとか同じだとか言うことはできません。
省3
11: 2020/07/29(水)10:44 ID:V2bOJhqR0(11/12) AAS
概念(戯論)からの解放
また空の立場からは、ものごとは役割に応じて名前が変わるので、いま仮に「空」ということばで「ものごとは空である、
すなわち固有の本質を持たない」と表現しているが、「空」という表現そのものが究極(=勝義)であるわけでもない、とも言います。
つまり、本来は言語表現されえない、いいかえれば、概念によって間接的に指し示すことはできても、「空であること」は直接に体得されることが期待される
ということです。とはいえ、ブッダの悟りであるその勝義的な真理(第一義諦)が人々に理解されるためには、「空」などの世間の言語表現が必要不可欠で、
それを世俗真理(世俗諦)とも呼びました。
もとより、事物に固有の本質はないが、そこに固有の本質があるかのような錯覚はある。それが錯覚にすぎないこと気づかせるために、
「空」という否定的な響きのある言葉が選びとられたとナーガールジュナは言います。ただし、空が正しく理解されるというのは、錯覚を錯覚であると気づくこと、
それによって煩悩の根源に巣くう概念化(戯論)という心のはたらきから解放されることを意味しています。
ナーガールジュナによれば、このような理解こそがひとびとを煩悩から解放し、じつはそれこそがブッダ自身の本来の煩悩論にほかならないというのです。
省1
12: 2020/07/29(水)14:54 ID:V2bOJhqR0(12/12) AAS
涅槃が言葉で説明出来ないのは原始経典でも同じでしょ?

言葉が間接的なものである以上は表現にも自ずから限界が有るし その向こう側が彼岸なんだから語り様が無い
13: 2020/07/30(木)21:56 ID:WPGcwYlOi(1) AAS
 仏陀の説く智慧とは、煩悩を断つ智慧であり、解脱・涅槃に導く等正覚の智慧なり
14: 2020/07/31(金)10:04 ID:imc6e62IS(1/2) AAS
 >如来、世に出ずるも、及び世に出でざるも、法性は常住にして、彼の如来、自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す。

諸仏の説法は、二諦によっておこなわ れる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」)

お釈迦様がその十二支縁起を悟ったことで成仏したことについて宮崎哲也は「パーリ経典に十二支縁起成道記事そのものがわずかしか見出せない」として
3つの経典のみ挙げていたが(それでもチベット律蔵と有部破僧事の2経よりは多いのだが)
長部14経「大本経」、相応部因縁相応4〜9経(以上は過去仏の縁起成道をお釈迦様が語っているのだが、
省12
15: 2020/07/31(金)10:34 ID:imc6e62IS(2/2) AAS
如来出世するも、及び出世せざるも法性は常住なり。彼の如来は自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す。〔『雑阿含経』30〕

法性
dharmat? (S)
 「実相」あるいは「真如」と同じ。事物の本質、事物が有している不変の本性を意味する。法の体性という意味で、諸法の真実如常である本性をいう。
16: [sage  ] 2020/08/01(土)13:18 AAS
ブッダシャキャムニは十二支縁起など説いていません。
二支縁起に当たる内容は説き、後代の学者等が発展させたのです。
心経を説いた大乗の菩薩も十二支縁起成立の事情を知った上で
無無明亦〜と説いたのかも知れません。

>八頌品と四ニカーヤの間には、阿含と大乗経典の間の飛躍以上の飛躍があります
というのは全くその通りで、二支→十二支縁起等への発展を巧く言い表してる印象を受けます。
四諦ですら後代の教義学者の仕事であるようで、全て体裁よく纏めたディスクールへの執着から
の離を(つまり概念でなく仏の智慧だよ、と)示唆してるのでは?
17: [sage  ] 2020/08/02(日)02:53 AAS
>道諦とは八正道のことだけではない、と確信したのは、自歓喜経を読んでいる時であった。自歓喜経というのは、
釈尊と舎利弗の会話が主たる経で、舎利弗が釈尊の教法を褒め称える内容になっている。
舎利弗は、釈尊の優れた教えは、悟りに導く「所謂道也」と言ったからである。

>舎利弗が言う道也とは七覚支であった。それを釈尊は認めた。つまり、道諦とは三十七道品のこと だったとも解釈できる。

真に菩提心を生起した求道者ならば
>形式的な概念化に囚われず、必要なこと、修行の本質を知りたいと思うであろう

少なくとも四諦八正道や十二縁起説は、ブッダが説いたものではないことはもちろん、ブッダの死後、弟子たちが記憶していた師の教えをもとに、
それを体系化したところにできたもの かどうかにも疑義があるらしい

また三十七道品に基づく正しい生活態度で日々を過ごすことで識が浄化されて行き
智慧によって無知を晴らして行ける訳です。
省2
18: [sage  ] 2020/08/02(日)05:54 AAS
頌に曰く、真言は不思議なり
観誦すれば無明を除く(本尊を観想しながら、真言を唱えたならば、根源的な無知の闇が除かれる)
一字に千理を含み(真言のわずか一字の中に、それぞれ千の理法がふくまれ)
即身に法如を証す(そうして、この身のままで真理をさとることができる)
行行として円寂に至り ぎょうぎょうとしてえんじゃくにいたり 去去として原初に入る
(「羯諦 羯諦」と行き行きて、静かな涅槃の境地に至り
「羯諦 羯諦」と去り去りて、根源的なさとりに入る。)
三界は客舎の如し さんがいはかくしゃのごとし 一心はこれ本居なり いっしんはこれほんこなり
(いまださとりを開いてないものにとっては、三種類の生存世界は、あたかも仮の宿である。
しかし、実際には、われら衆生がそなえて持っている、ただ一つの心が、本来の拠り所なのである。)
省1
19: [sage  ] 2020/08/02(日)06:08 AAS
心経の解釈には無限の可能性があります。
般若心経秘鍵の「一字に千理を含み」とは
真言だけでなく
心経全ての文字について当て嵌まる気がしてきました。
20: [sage  ] 2020/08/02(日)06:23 AAS
煩悩を断じ六道輪廻より解脱して行く預流、一来、不還、阿羅漢の四段階のさとりを通って声聞の覚りを成就する。
末那識の錯覚を消そうと努力し、個我意識が薄れ五蘊を越えプルシャをさとるのが唯蘊無我心の段階の瞑想
阿頼耶識・諸法の縁起を覚り、業の因となる種を伐採する段階が抜業因種心。縁起を独自にさとる独覚乗
>一切は因縁よりなることを体得して無知をとりのぞく。このようにして迷いの世界を除いて、ただひとり、さとりの世界を得る。
阿頼耶識・諸法が唯識のみであると覚り、仏縁・無縁乗に目覚め、(弥勒菩薩の瞑想の門・大いなる慈しみの瞑想・すべての如来の大いなる慈しみが
無量であるのを覚知する)大乗菩薩の菩提心を起こすのが他縁大乗心
第六住心=他縁大乗心−人びとの苦悩を救う
 一切衆生に対して計らいなき愛の心を起すことによって、大いなる慈愛がはじめて生ずる。すべての物を幻影と観じて、ただ心のはたらきのみが実存であるとする。
第七住心=覚心不生心−一切は空である
 あらゆる現象の実在を否定することによって、実在に対する迷妄を断ち切り、ひたすら空を観ずれば、心は静まって何らの相なく安楽である。
省6
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