[過去ログ] キリストのこと 信仰生活のこと  (76レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
9: いんぎかい訳 2014/09/14(日)20:09 ID:YTq4OXphe(1) AAS
ウォッチマン・ニーをgoogle翻訳で適当に訳してみる。
10: インギ改 2014/09/15(月)13:27 ID:JpPjmwN3l(1/2) AAS
私の期待は別として。それは置いていて考えたとしても、
主に対する期待をどこまでもっていけるかについて思うとき、
それをどこまで高くもっていけるかは結構肝心なことだと思う。
それは決して自分を甘やかすことではないと思うんですよね。
それを踏まえて聖書をよく読んでいくと、
主の極まるほどの甘さを堪能し、なおかつキリストの命がじつに
僕を包んでくれていることが分かります。
読んでたまに眠気が来るときもあるけど、そのつど
主を仰いで、抱きしめてもらうと本当に潤されますね。
全く回復があります。されます。
11: インギ改 2014/09/15(月)21:39 ID:JpPjmwN3l(2/2) AAS
「注意すべき者」

教師と言われる者の中でも、とりわけ人を誘導するに長けていて
なおかつはっきりとそれを命令するわけでもなく、
しかしながら言外にほのめかして、あたかも自らそうしなければならないと
思わせることにより、それをさせようとする者には注意されたし。
その実は、競争心と妬みである。「栄華の慢心」と「脱落の恐怖心」である。
12: けふ 2014/09/21(日)20:50 ID:DQSLtsvmE(1/5) AAS
いのちのことば社の信仰書を再認識
13: けふ 2014/09/21(日)20:51 ID:DQSLtsvmE(2/5) AAS
・CLC出版
・いのちのことば社
・新教出版社
・教文館
14: けふ 2014/09/21(日)20:56 ID:DQSLtsvmE(3/5) AAS
いのちのことば社の限定復刊本が割高な件。
15: いんぎかい 2014/09/21(日)21:15 ID:DQSLtsvmE(4/5) AAS
「聞くには早く、語るには遅く」を教えられている今日この頃です。
16: いんぎかい 2014/09/21(日)21:27 ID:DQSLtsvmE(5/5) AAS
「聞くには早く、語るには遅く」を教えられている今日この頃。
その「語る」とは御言葉も含まれる。自己主張は自分が作る言葉だけと
は限らない。語る事に関しては、サタンでさえ聖句を利用して語るの
だから。僕自身も言葉を語る事においては注意しよう。
遅くあろうではないか。言わなければ伝わらないだろう。損するかも
知れない。でも、そこは忍耐して語らない。
肝心なことは、僕が本当に羊なのなら良い牧者の声をちゃんと聞き分け
られるであろうということだ。もしぼくが本当に羊なのなら、御言葉を
聞いてもそれが「盗人強盗の声」なのか、「良い牧者(主イエス)の声」
なのかをちゃんと聞き分けられる。
省1
17: 2014/09/23(火)11:15 ID:5Msrqmm1E(1/4) AAS
清掃
18: 2014/09/23(火)16:58 ID:5Msrqmm1E(2/4) AAS
整理
19: 2014/09/23(火)23:24 ID:5Msrqmm1E(3/4) AAS
この苦悩は、
キリストに向かわせるということでOK。
20: 2014/09/23(火)23:24 ID:5Msrqmm1E(4/4) AAS
あとはもがかないこと。
21: いんぎかい 2014/09/26(金)01:56 ID:i63hIoxOz(1/3) AAS
ガラテヤ3章関係

@本体のキリストと影の律法をごっちゃにしてしまう危険性について

A私たちの自覚する信仰による行いというものが、
ピスティスすなわちキリストの信による御霊からくるものなのか、
それとも掟を守って自分を救おうとする私たちの思いから来るものなのかを
吟味したい。
22: いんぎかい 2014/09/26(金)02:06 ID:i63hIoxOz(2/3) AAS
ガラテヤ3章の前半

@本体のキリストと影の律法をごっちゃにしてしまう危険性について

A「私たちの自覚する信仰による行い」が次の二つのどちらから来るものなのかを吟味したい。
1.「ピスティスすなわちキリストの信による御霊からくるもの」
2.「掟を守って自分を救おうとする私たちの思いから来るもの」

Bキリストの信仰によって霊を受けたのならば、私たちはその霊によって仕上げられるということ。
23: いんぎかい 2014/09/26(金)20:43 ID:i63hIoxOz(3/3) AAS
ガラテヤ4.22-23
そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、
ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。
女奴隷の子は肉によって生れたのであり、
自由の女の子は約束によって生れたのであった。

● 創世記の記事で見る限りでは、『肉』とはすなわち
『自分に告げられた預言に対して、それにふさわしく自分を整えていくこと』を
意味する。預言が実現するために自ら努めることを意味する。
そしてガラテヤ書に書いてあるとおり『肉』によって生まれた子は奴隷の子である。

●『約束』によって生まれた子は自由の子。そしてあなた方はその自由の子で
省4
24: いんぎかい 2014/09/28(日)08:30 ID:QLMJvR0bG(1) AAS
ガラテヤ5.6
キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

● 実践に関して言えば、人間の評価するところは見に見える領域にすぎず、
それが愛を伴うものなのか、それとも(割礼から来る)肉を伴うものなのかを
人は判断できない。それは教会内にしても然りであり、
人は宣教命令だの牧会だの『愛の実践を名目』にして、
奉仕という枷(重荷)を信徒に負わせ、そのじつは新たに『割礼』をほどこして
いることに気づいていない。
そこから目に見えぬ競争心や、野心、劣等感、妬み、教会生活の疲れ等が生じるの
省5
25: 2014/09/29(月)03:59 ID:lif2xoCN+(1/4) AAS
sage
26: 2014/09/29(月)04:02 ID:lif2xoCN+(2/4) AAS
sage
27: 2014/09/29(月)04:02 ID:lif2xoCN+(3/4) AAS
sage
28: 2014/09/29(月)17:38 ID:lif2xoCN+(4/4) AAS
2
3
3
3
1-
あと 48 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.850s*