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120: 2024/06/12(水)09:24 ID:zxbLDsqp+(1/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・32

 宗教改革と三十年戦争で、オーストリア帝国は、カトリック体制の強化が進んでいく
のだが、修道士会の、フランチェスコ会や、イエズス会などが出て来て、その改革は、
依存するようになり、宮廷文化が開花し、バロック建築やバロック音楽が出来ていく。
その後も、幾つもの戦争を嵩ねながら、オーストリアは、国内の体制を固め、1683年に
、オスマン帝国による第2次ウィーン包囲の危機を脱し、オスマン帝国の弱体化に乗じ
て、バルカン方面への進出を開始するのである。フランス生まれの、軍事的天才オイゲ
ン公の活躍もあって、1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国からハンガリーを
奪回を果たしたのであるが。……カルロヴィッツは、現在のセルビアの首都ベオグラー
ドの事で、オスマン帝国はオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアに土地を切り刻ま
省10
121: 2024/06/12(水)09:24 ID:zxbLDsqp+(2/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・33

 オーストリアはイギリス、オランダ、プロイセンなどと共に、対フランス同盟を結成
していた時代だった。、有利な戦いを進める事が出来て。結局、スペイン王位は、ルイ
14世の孫フェリペ5世が継承することで、戦争は終着をみたが、此の時、スペインと
フランスが敗けて、1714年のラシュタット条約では、スペイン領であった南ネーデルラ
ント(旧オランダ)、ミラノ、サルデーニャなどを獲得して実利を得て、大国としての
地歩を固めるのである。このスペイン継承戦争でのハプスブルク家同士の身内の闘いは
、その後に身内の結束は無く、同じ様な身内が戦う事を示唆していた。更にこの条約に
イギリスが全く関わっていなかったのだ。この戦争ではフランスとスペインが実質的に
敗れたので、それまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラント・ミラノ
省11
122: 2024/06/12(水)09:25 ID:zxbLDsqp+(3/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・34

 ナントはフランスの黒人奴隷貿易の拠点港で、商業も盛んであった。ブルジョワ階級
が一定の成長を遂げ、フランス革命が起きるとジャコバン派共和国政府の拠点都市とも
なった。1793年3月、南西部の農民のヴァンデーの反乱が起き、農奴軍はナント攻撃を
目標として進軍した。共和国の総督カリエが防衛するが、彼は非情で、反乱軍捕虜を、
集団で溺死させる。など残虐行為で反乱軍を撤退させ鎮圧した。この共和派の虐殺行為
が「ナントの虐殺」で、「ナントの王令廃止」を行った意図であった。自ら熱心な信者
でありカトリックの保護者と自認していたルイ14世は、「一国一宗派」にこだわった
。ナントの王令が廃止され、結果、数十万のプロテスタントが密かにフランスを逃れ、
イングランド、オランダあるいはプロイセン、スイスなどに亡命したのである。ユグノ
省15
123: 2024/06/12(水)09:26 ID:zxbLDsqp+(4/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・35

 この、鉄とガラスと蒸気機関は、やがては石油の燃料機関と電気通信を産んでしまう
。こうして、第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って 参戦したオスマン
帝国に対して、協商国側のイギリスは、侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する
中東地域に目を付けて、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んでいた。まず
、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーと、イギリス
の駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間で、「フサイン=マクマホン協定
」が結ばれていた。ここでは、中東地域のアラブ人の独立支持を約束したのである。次
いで1916年5月、秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間で「サイクス・ピコ
協定」が結ばれて、この3国協定によるオスマン領中東地域の分割が決定されている。
省14
124: 2024/06/12(水)09:59 ID:zxbLDsqp+(5/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・36

 ヨーロッパ戦線が世界戦争へと発展する前に、列強といわれる国々が帝国主義を掲げ
覇権を争う大規模な争いを展開していく。帝国主義を背景とした戦いはしかし、此の時
の背景に、各国の思惑が交差していて、「サラエボ事件」をきっかけに爆発し、瞬く間
に広まってその前段には、スペイン内乱、独立戦争が起こっていたのだ。フランスで、
共和制議会が出来ても、スペインはブルボン王朝の格式に於いて、王朝の廃止を望まな
かったし。ナポレオンは1808年に、スペインに軍隊を侵攻させたが、激しい抵抗を受け
挫折、スペイン=ブルボン朝を倒し、兄ジョセフをスペイン王とした。が尚もスペイン
の民衆は、ゲリラ戦で抵抗する。と言う構図になり、ナポレオンは、自らスペインに、
遠征し反乱制圧に向かう。鎮定するも今度は反転し1812年、ロシア遠征に向かう事にな
省15
125: 2024/06/12(水)11:16 ID:zxbLDsqp+(6/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・37

 16〜17世紀のヨーロッパ戦争は、個々には、宗教的対立でカトリック対プロテスタン
トという対立が軸となっても、基本的な性格は、王位継承権による領土問題だったのだ
。ここで問題は、プロテスタント国であるプロイセン公国は、このときカトリック国で
あった事だ。オーストリアを支援し、その功績で、神聖ローマ皇帝からプロイセン王国
となることを認められていた。しかし、その支援したオーストリアの皇太子次期王様が
暗殺されたのである。ドイツが狂う事は当然だった。プロイセン公国からドイツ連邦に
なって、これからと言う時だったからだ。これまで、米国が台頭する前は、戦争という
のは、この宗教対立を解消したフランス+スペイン連合に対して、イギリス・オランダ
・オーストリアの同盟という、ヨーロッパを二分する陣営で戦われていた。が、同時に
省15
126: 2024/06/12(水)11:18 ID:zxbLDsqp+(7/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・38

 即ち、地中海防衛のフランス海軍の優位性や独占権を認め、大西洋航海の英国の覇権
主義や海賊行為を認める。といった協定である。しかし、納まらない国がスペインであ
り、ドイツだった。モロッコ分割に、遅れて手を出し、新たな植民地帝国を目指した。
と言うドイツのヴィルヘルム2世は、フランスの同盟国ロシアが、日露戦争で苦戦して
いる形勢を見て、ヴィルヘルム2世は1905年3月31日、自らモロッコのタンジールに
上陸してスルタンと会見し、フランスのモロッコ支配を牽制し排除を願い出た。第1次
モロッコ事件(タンジール事件)である。これは「モロッコ問題」という、国際紛争と
なり、翌1906年にアルヘシラス会議が開催され、モロッコ国王も参加した上で、列強は
機会均等・門戸開放と共に、モロッコの主権尊重を取り決めた。がこれは、実質的に、
省14
127: 2024/06/12(水)11:31 ID:zxbLDsqp+(8/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・39

 第一次大戦は、このドイツの孤立から始まっている。気が付けば、ドイツは孤立して
頼る国は、隣国オーストりアしかなく、欧州の食糧庫の、東欧も取られそうになった。
1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争は
じわじわと始まった。帝国主義国家の大国の、ドイツ・オーストリアが中心の同盟国と
イギリス・フランス・ロシアを中心とした、条約提携国、即ち協商国の二陣営に分かれ
、ヨーロッパを主戦場として戦う事になった。これは、ひとえに、敵国だったロシアや
イギリスと、フランスが相互防衛協定即ち、戦う時には味方する。と言う条約による物
であった。根本的な要因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こっ
た帝国主義戦争であったが、主因としてはバルカン問題における オーストリアとセル
省13
128: 2024/06/12(水)11:41 ID:zxbLDsqp+(9/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・40

 第一次世界大戦中のスペインは、往時に植民地主義の開拓者で、国内には民族統一の
意志は既になく、国内が参戦し割れる事を恐れて、中立政策をとりました。スペインは
1914年〜1918年までの、大戦を通じて中立を保ち、国内の経済的困難にも関わらずに、
「1915年までにヨーロッパで最も重要な中立国の一つ」とみなされていた。また、スペ
インでは、共和制が宣言され、国王アルフォンソ13世に退位を迫られた時期もあり、既
に共和制の議会派と、伝統的国王に頂点をもつ王党派が、四つ組みになって、対抗し、
分裂していたのだ。スペインの歴史には、先史時代から古代、中世、近世、近代そして
現代に至るまで、さまざまな要所々々の時期に顔を表す大国である。ローマ帝国支配、
ウマイヤ朝の到来、レコンキスタ、フランコ体制など、興味深い出来事の数多くの先鞭
省14
129: 2024/06/12(水)11:42 ID:zxbLDsqp+(10/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・41

 最初のスペイン風邪のウイルスの発生は1918年3月の米カンザス州だと考えられてい
る。米国では1917年4月の参戦以来、徴兵制が敷かれ、全米中の田舎からの若者たちが
、訓練所に集められ鍛えられた。しかし、全米に数多く作られた訓練所の宿舎は、急ご
しらえの上に、詰め込みで、ウイルスが伝染する環境としては、かなり、適していた。
こうして、ウイルスを持った若者までもがやって来て、訓練を終了した順にヨーロッパ
の戦線へと、船に乗船し派遣されていった。3月の時点では、すでに25万人の米兵が、
欧州に渡り、本国では138万人が、渡航のために待機していた。が此の時、ウィルソ
ン大統領の理想である「自由と平和」を希求するはずの戦士達に、異変が起る。皮肉に
も病気の運び屋となっていた上に、船内がこの病気の培養所と化して、船旅にでたので
省11
130: 2024/06/12(水)11:45 ID:zxbLDsqp+(11/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・42

 英国でも、1918年6月に軍港の街であるポーツマスから始まり、、ロシアででも同月
に、白海のムルマンスクに派遣された米軍によってウイルスが持ち込まれた。アフリカ
でも、石炭補給の港町であるフリータウン(シエラレオネ)から、アジアではインドの
ムンバイ、コルカタ、そして中国内陸部奥深く重慶まで達していた。米兵だけが運び屋
なわけではなかった。当時の日本は軍備軍拡に向けて、ドイツに将校養成の海外視察を
させていて、留学者も多かった。そこで日本でも、洋行帰りの多い陸軍で1918年6月に
陸軍の各連隊宿舎で広がりを見せ、『大阪毎日新聞』がスペイン風邪の記事を掲載した
。また1918年の大相撲夏場所では風邪による休場が目立ち「相撲風邪」とも言われた。
世界に広がったスペイン風邪の流行は3波にわかれて進んでいた。最初の第1波での、
省11
131: 2024/06/12(水)11:57 ID:zxbLDsqp+(12/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・43

 米国では1918年10月24日に、戦費調達のための第4次自由公債の募集が計画されて、
9月から、全国で募集のためのパレードや演説会の集会が催され、大勢の人が集まった
。こうしたパレードが米国民間人にウイルスを拡散させた。と考えられてもいる。この
ウイルスでの病気も、かくして当初は小康状態になった後、次の年1919年2月には、大
きな第3波が伝播(でんぱ)して行き、米国国内では、翌1920年4月までに55万人が死亡
したのだ。また米兵の、戦場での戦死者は 11万人とされているが、その半数は戦争の
敵弾によってではなく、スペイン風邪によって死亡した。と考えられている。ところが
1920年の半ばになると、この世界を震撼させた恐怖のウイルスは、不思議にも 正に、
音もなく、跡形もなく、消え去ったのであって、人々は流行感冒のみを気にするのみ。
省15
132: 2024/06/12(水)12:00 ID:zxbLDsqp+(13/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・44

 大戦前にドイツはアフリカ進出のためにアフリカ地域のモロッコに目を付け、1905年
、1911年に、モロッコ事件を起こしている。しかし、この事件で逆にドイツは譲歩を迫
られ、フランスのモロッコを保護領、保護国化することが認められ、撤退が決まった。
こうした事で、この領土拡張の欧州侵略の矛先は、バルカン半島一点に向ってしまう。
当時の、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われており、オスマン帝国の衰退と共
にセルビアなどの小国のナショナリズムが、高揚していた。ここに稀に見る不作が生じ
ていた。知っての通り、この東欧の地は、殆どの国の食卓を飾っていた。ロシアは大国
ではあったが、近代化が遅れ、度重なる戦争で、多くの債権を出し、アメリカ同様に、
戦時国債の支払いに、小麦輸出をして賄っていた。こうして国民は食えず、地権者たる
省12
133: 2024/06/12(水)14:00 ID:zxbLDsqp+(14/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・45

 このヴィルヘルム2世の世界政策は、海軍力を増強してイギリスと対抗するだけでな
く、新たな帝国主義政策にあった。それは、ベルリンから、イスタンブル(ビザンティ
ウム)そしてバグダードを結ぶ鉄道建設構想であり、それは3B政策と言われた。これ
は、ドイツの中東進出しようとするもので、イギリスの海の航路を呼んだ、3C政策(
アフリカ〜インドの帝国主義支配)に、対抗する名称であろう。この世界政策では、西
アジアに帝国主義的進出を進めていたイギリス3C政策と対立要因となって強く対抗策
が取られる事となり、第一次世界大戦をもたらした。ナチスドイツで、ヒットラーは、
よく第三帝国と言う言葉を発したが、カイザーヴィルヘルム、すなわち、ヴィルヘルム
2世(1859年〜1941年)は、産まれながらにして、第9代プロイセン国王、第3代ドイ
省12
134: 2024/06/12(水)14:01 ID:zxbLDsqp+(15/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・46

 ビスマルクは「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ
解決される」――これが1848年、49年の大きな間違いであった――という有名な
演説を行った。この演説は「鉄血演説」、それ以後のビスマルク政策は鉄血政策と言わ
れ、ビスマルクにも鉄血宰相の名称が付けられた。しかしこの第3代ドイツ皇帝に即位
し、祖父ヴィルヘルム1世の時から仕えていたビスマルクとは、折り合いが悪く対立し
た。ドイツ統一の実質的な立役者でもあり実力者で「ビスマルク外交」といわれる絶妙
なバランス感覚の、外交手腕を発揮して、欧州に平和をもたらしていた。が、1890年、
ヴィルヘルム2世はそのビスマルクを辞任に追いやって親政を始めた。ところがすぐさ
ま行き詰まり、危機を招いてしまう。つまりドイツが望んだ、独露との再保障条約更新
省14
135: 2024/06/12(水)14:06 ID:zxbLDsqp+(16/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・47

 ドイツの戦争の主導権は参謀本部の手に委ねられ、内政は議会多数派が実権を握り、
ヴィルヘルム2世はそのいずれでにおいても実権を奪われていた。それでも、ロシアの
革命に乗り込んだユダヤ人達、つまり、民衆蜂起によってロマノフ朝を倒した革命で出
来たブルジョワ権力である臨時政府との交渉に行って、北欧東欧を、ドイツの手中に、
治める交渉に成功していた。しかし、同時に並んで、1918年、アメリカ大統領ウィルソ
ンの書簡で休戦提案(14箇条)が発表され、急速に軍の戦意が落ちていた中、さらに
11月、キール軍港の水兵反乱から社会民主党左派によるドイツ革命が勃発していた。
暴動が起こると、ヒンデンブルクとルーデンドルフらが、政権画策し社会民主党の穏健
派エーベルト代表権にまかせ、イギリス・フランスとの講和を有利にするために、ヴィ
省13
136: 2024/06/12(水)14:07 ID:zxbLDsqp+(17/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・48

しかし、ヴィルヘルム糾弾が結局実施されなかった事で、責められ蹂躙されたフランス
国民は大いに怒った。そして、国際世論も戦争責任の追及よりも、賠償金の額や領土の
獲得へと移っていくのである。知恵と勇気と、辛抱をもって努力しても、低地・平地の
諸国のように、国土の地勢が不利では、たちまち侵略にあってしまう。諸国はスイスの
ような山岳を持たず、かつドイツにとって重要な交通路にあたり、そのため厳正な中立
政策をとったのに、あえなく蹂躙された。又山の存在するスラブの地も、中立政策は、
維持することも至難だが、運にも国土の地勢にも恵まれていなければ守れない。という
ことでも、民族の自立を願い、数々の東欧諸国が産まれ、国際社会に独立を宣言してい
った。しかし、ここで、派遣されていたロシア兵が、母国に戻って、ソビエトには、更
省13
137: 2024/06/12(水)14:09 ID:zxbLDsqp+(18/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・49

 こうして、ドイツが第一次大戦を終わった後に、フランスは法外な賠償金をかけたし
、アメリカは、これ見よがしに投資資金を貸し付け 最新鋭の工場を建てて、労働者の
就業に貢献した。そして、左翼リベラルな新興資本家が、保守転向し元祖ネオコンとし
て世界を動かす。英国は、そうした技術への投資や技術進展の結集に大いに賛同して、
諜報活動をしての技術収集に邁進した。本来、ドイツでは、兵器は造れない条約だった
。しかし隠れて戦車や砲弾を、ソビエトに発注していた。先のレーニンがドイツ経由で
亡命した様にロシアとは、とても近い存在だった。その上に、この 世界の工場施策に
よって、こうした国際条約違反しても、経済封鎖とは出来なかったのである。ここで、
スペインのフランコ将軍が登場する。本名はフランシスコ=フランコ=イ=バーモンテ
省12
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