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287: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/07(日) 07:59:46.29 ID:tlePQyUwm 中立のリアル・・・・・・・188 オドアケルはローマの法を厳格に実行して、元老院と執政官の、権威の復興に務め、 西ローマ帝国の人々から大きな信頼を獲得していたので、西ローマの帝位に、付けた。 しかし自身は、今だイタリアの守護者として、軍官の地位に留まって、帝国の民政行政 については元老院とローマ人の文官に委ねていた。この時代の動きを止め国家建設には イタリアの絶対王権に近づきたい 独裁統治の方針の、ゼノンと対立し
公然と反ゼノン 派を支持するようになった。この時、皇帝ゼノンは、東ゴート族の王テオドリックとも 同盟を模索し手を結んだ。その上で、イタリア遠征して、征服したあかつきには、その 統治を約束したのであったのだ。が、何故に、そうまでしてテオドリックに近づいたの か。実は、自分を持ち上げ働いてくれたという西ゴート族を束ね皇帝になったオドアケ ル将軍が、かなりの智将で優秀な人材だったと知っていたのである。ゼノンは何時退位 が迫られるか判らない程、無能だった。東ゴート族の王テオドリックと同盟を結んだ事 も、イタリア遠征とその
統治を約束したオドアケルの力や、西ゴートで帝王になってい ながらイタリア全土を仕切ると言う 離れ技をやる有能な、オドアケルが、憎らしかっ たし邪魔だったのである。しかし、ローマ人には、いい迷惑であった。テオドリックが ゼノンの提案に合意したから尚更だ。ゴート人の多くは、テオドリックと分かれての、 議会制民主主義の初期状態の、東ローマ帝国に残ることを選択した。そのために、テオ ドリックは、彼に同意した僅かな者たちだけで、488年に モエシアを出てイタリアへ向 かう羽目になった。同地で新たな戦士団を徴募した。オドアケルに
こんなに人気や信任 があったのは、じつはオドアケルの政策が、昔のローマの議会制政治に戻した事にある 。よくルーツやアイデンティティなる言葉が使われるが、慣習に応じた厳格な行動様式 やシステムこそが、人々の幸福や安全と安心だった訳なのである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/287
288: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/07(日) 08:06:52.89 ID:tlePQyUwm 中立のリアル・・・・・・・189 この時、テオドリックがイタリア遠征のために、新たに組織した集団が、後には東ゴ ート人と呼ばれるようになった。のだが、この集団は、ゴート人を中心としつつも、ロ ーマ人やルギー族等からなる混成集団であった。つまりゴート人とは、旧来のイタリア の現地人であり、ローマ人は、その時防衛に駆けつけた、将軍達の手勢であった。すな わちGOATとは「Greatest of All Time(史上最高の)」という意味
のスラングの、 略称だったのである。この将軍達によって守られていながら、政策には、元老院が文民 統制(シビリアン・コントロール)の軍事抑制権を持っていたのが、ローマ帝国の走り であり、もともと帝国と言えども、ローマは中央集権制で、議会制民衆政治を中央統治 するように完成させた社会であったのだ。その形は、各種の部族を入れた族長連邦制の 政府とも言えた。各種部族に一定の自衛権や徴兵制度を与えて、指揮官を議会から派遣 していたのだ。従って募集や徴集兵士は、直ちに=ゴート人ではなかった者も多かった のだ。489年8月28日、イ
ゾンツォ川に到達しテオドリックの軍は、オドアケル将軍の、 派遣した正規軍と衝突、このイゾンツォの戦いでテオドリックは勝利を収め、翌月には ウェロニア(現: ヴェローナ)に到達した。ヴェローナの、オドアケル軍に勝利した軍 で、テオドリックは、続いてメディラヌム(現: ミラノ)を占拠、当地でのオドアケル 側の軍事長官であったトゥファを味方に引き入れることに成功した。しかし、テオドリ ックの命で、ラヴェンナ攻略に向かったトゥファは再度寝返り、テオドリックの軍を、 ティキヌム(パヴィーア)に後退させ、オドアケルの援軍とともに
市を包囲したのだっ た。490年 西ゴート王国の王アラリック2世の援軍を得たテオドリックは、ティキヌム を包囲したオドアケルの軍勢を放逐すると、イタリア各地を占領、逆にオドアケルが、 籠城するラヴェンナを包囲した。海上を全面封鎖され、陸戦でも戦果を挙げらず、オド アケルは、493年 ラヴェンナ司教ヨハネスの仲介で降伏したが、テオドリックは、彼を 、謀殺した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/288
289: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/07(日) 08:09:35.72 ID:tlePQyUwm 中立のリアル・・・・・・・190 ヴァンダル人(ヴァンダルじん、Vandal)は、古代末期にゲルマニアから北アフリカ に移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフ リカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリ カに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシアがもともとは Vandalusia と綴り、古名旧語でヴァンダルシア、つまり、ヴァンダル王国の国民と
いいう事だが、 ヴァンダル=サンダル、つまり海の付近の海洋民の事だった。ところが、こうした島嶼 国やアフリカ北海岸は、元々はベルベル人が住んでいた。なのに、ゲルマン人と混成の カルタゴ軍は、紀元前9世紀頃に、地中海東岸のティルスを本拠地としていた、中東と アフリカ人を中心のフェニキア(トルコ人)よって、地中海内の植民都市の一つとして 建設された。本国のティルスがアッシリアに支配されてからは、フェニキア人にとって はカルタゴのほうが本拠地となり、ここを拠点として西地中海の貿易を支配して行った 。そもそもフェニキア人
という名称は、彼らが呼んだ言葉でなく、その語源は不明で、 フェニキアがミュレックスと呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としてい たことから、「紫色」(または「緋色」)という意味のギリシア語を語源とする説が、 存在する。さらに、アッカド語でのカナンの地という呼称も、染料の地とされている。 このギリシア人が、東方(オリエント)から主に通商を目的として、西方(ギリシア) にやってきた人々海商人を「フェニキア人」と呼んだからである。この海洋民は、エジ プトが衰退すると共に、ジブラルタル海峡を渡り、アフリカ沿岸を
カルタゴに向かって 東方に移動しはじめた。当時のアフリカは、ローマ帝国にとって有数の穀倉地帯であり 、100万人の 人口を誇るカルタゴを擁していた。カルタゴはローマ帝国が保有する多数 の軍艦が停泊する重要な海軍基地であり、地中海を隔てていたもののローマの南に位置 してローマ帝国に軍事的圧力を加えるには有利な戦略的要地であった。435年 に、西ロ ーマ帝国は北アフリカのいくつかの領土を彼らに与えたが、439年 ヴァンダル族は自ら カルタゴを占領した。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/289
290: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/07(日) 10:28:44.10 ID:tlePQyUwm 中立のリアル・・・・・・・191 ヴァンダル王国(470年)が出来た時、ゲイセリックは、ここにヴァンダル族とアラン 族(一部のサルマタイ人)からなるヴァンダル王国を建国した。と記述する。この王国 はローマの艦隊を接収して、強力な海軍を築いて地中海における一大勢力となり、シチ リア島、サルデニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服している。こうした事から 、その後の新しい改革の為に、古いものを壊す、破壊主義として、積み
上げのない破壊 主義者や行動に、ヴァンダワン、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなって いる。当初ゲルマニア人に対する抵抗やそれによってもたらされた否定主義を、根底に 持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴 とした、否定行動のダダイスムに属する市民たちダダイスト達であったが、そこに戦争 や紛争によって、相手を攻撃し、否定文化の破壊の、今日のヴァンダリズムやヴァンダ ターが出てきたもの。と言える。最初の移住者のフェニキア人達も、系統的には様々な 民族と混交していた。が
、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、 現存する言語では、ヘブライ語と同じカナン諸語に属する言葉を話し、社会的であった 。先祖はセム系のアモリ人の一派が小アジアから北シリアに移住したことに始まる。と もいわれている。彼らがフェニキア語を書き表すために、発明したフェニキア文字は、 古ヘブライ文字・アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨー ロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源ともなる程広域に商売をしていた。こ れは、ファッションでは、多民族仕様のダダイスム=スイススタイ
ルとされた。が突如 、ギリシア文字が、席巻する。フェニキア文字はアルファベットのルーツとされていて 、ギリシャ語やラテン語もフェニキア文字を元とすることは知られる、 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/290
291: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/07(日) 10:29:06.17 ID:tlePQyUwm 中立のリアル・・・・・・・192 この短期間ながらも、ヴァンダル王国(470年)が出来た事で、北アフリカは海賊の海 に代わって行く。北方民族がノルーウェーやバルト三国や、オランダ・ドイツそして、 フランス・スペインとやって来て北アフリカ沿いに広げ、カルタゴ人をシチリア島や、 イタリアまで追い込んでいくのである。その途中ゴート人の王国や、スラブ人の国に、 宗教問題があった。基本的にマニ教やミトラ教、そしてローマ系住民が
信奉するカトリ ック教への過酷な迫害である。マニ教や、ミトラ教は少数派の宗教だったため、目立っ た反対はしても力が無かったが、カトリック教への迫害は、教会が過大な多数の信者を 抱え、指導的党首となり、毒にも薬にもなるリスクの高い政策となっていた。カトリッ ク教会は、富裕層の宗教であり、課税すれば優良な財源にはなるが、過酷な迫害を加え られたと反抗的であれば、国王への支持を弱めるばかりか、暴力的対抗も産まれたから だ。東ローマ帝国との対外関係も悪化させる可能性があった。そもそも、カルタゴって 言う場所は、エジプトの
近隣国として栄えた国で、今のチュニジア辺りが中心にあり、 傍には、リビアがあってカダフィ大佐が君臨した事もある土地柄である。つまり歴史上 常にヨーロッパ文化の影響を受けたのだ。従って、ローマ帝国やフェニキア人の住み着 いた事で、海賊船の拠点となった。同時に、カルタゴの人々の話していたフェニキア語 はポエニ語と呼ばれていてローマ時代までは、存続したが、やがてベルベル人のベルベ ル語や、イスラム教とともにやってきたアラビア語に飲み込まれ、消滅していったし、 その後のムスリムの南進で、大きく欧州を占領した。とは言っても
、先に示した様に、 年間の貢物の税金を払えば、そこに頭首や領主など、王権は与えていたのである。この ムスリム式のフン族の占領は、平和と科学技術を伝えたが、ここでキリスト教の利潤や 利殖を求めてはいけない。と言う教えを広げながら、教会自ら懐を広げ、儲けに没頭し 大きな教会にし、反対者を十字軍送りにした、レコンキスタ運動に入って行った。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/291
292: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/08(月) 10:11:37.61 ID:4kSR4dapp 中立のリアル・・・・・・・193 19世紀の研究により、ヴァンダル人は全体としてプシェヴォルスク文化に属すること が判明した。また、リュージイ族(ルギイ)との関係も議論されており、リュージイ族 (ルギイ族)が、後にヴァンダル人と呼ばれるようになったか、もしくはヴァンダル人 は、複数部族の連合体で、リュージイ族はその一つであるスラヴ系部族だった。とする など諸説がでた。スカンジナビア起源説によれば、のちにヴァンダル人
のうちの一部を 構成することになる部族は、紀元前2世紀にバルト海を渡って現在のポーランド地域に 到着し、紀元前 120年頃からシレジアに定住するようになった、とされ、名前の類似性 からノルウェーのハリングダール、スウェーデンのヴェンデル、デンマークのヴェンド シッセルが、彼らの故郷ではないか。という意見が出された。近世の、ゴート起源説の ブームではヴァンダル人のスカンジナヴィア起源説が唱えられている。しかし、プシェ ヴォルスク文化は、同じ一帯に広がり ポメラニア文化の直接の発展形態でポメラニア 文化は、ゲルマン系でも
スラヴ系でもなく、イリュリア系とされた。ラウジッツ文化を 基礎としている。ウクライナから西へ進出して来たスラヴ系の文化(チェルノレス文化 )の2つの文化系統が混合してできたと推定されている。ヴァンダル人から、スラヴ系 を排除するスカンジナビア起源論は、近現代のドイツや、スカンジナビア諸国の人々に よる民族主義的な政治極論の類に属し、学術的価値はない。紀元前1000年頃とされる、 古代バルカン半島西部や、イタリア半島沿岸南東部は、イリュリアと呼ばれ、住民をイ リュリア人として、ギリシャやローマの作家たちは書いた。イリュ
リア人が住んでいた 範囲は以前ユーゴスラビアだった地域や、アルバニアなどで、西はアドリア海、北はド ラーヴァ川、東は大モラヴァ川、南はヴョセ川河口まで広範囲である。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/292
293: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/08(月) 10:12:06.08 ID:4kSR4dapp 中立のリアル・・・・・・・194 人の起源に関しては、現代の先史学者の残された問題としている。インド・ヨーロッ パ祖語から枝分かれしただろう鉄器時代以前、サルマタイはギリシア語であり、ラテン 語ではサルマタエとなる民族は、彼らのいた黒海北岸地域を、その名にちなんでサルマ ティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれた。考古学的にはドン川から西カザフス タンにいたるまでの地域をサウロマタイという名前で、よく似た民族の
文化をサウロマ タイ文化(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)をサルマタイ文化(紀元前4世紀〜紀元前2 世紀)と規定している。この間にこの地域に住んでいた民族をサルマタイとしている。 紀元前4世紀末に、サルマタイ諸部族は、サウロマタイに代わってドン川に迫り、その 内のシラケス族は、ボスポロス王国の権力闘争に深く関与し、クバン川流域を支配下に 置いた。時にスキタイ(第二スキタイ国家)は、紀元前339年 アテアス(アタイアス) 王の死後から弱体化し、紀元前3世紀には、ドン川を越えて侵攻してきたサルマタイに よって征服されてしまう
。ここで、最初のイリュリア人に関する記述は紀元前4世紀に 古代ギリシャ語で書かれたペリプルスの記録に、残された部族かいくつかの部族が元来 のイリュリア人と考えられる。共通のイリュリア人の言語のイリュリア語で話されたと 仮定されている。5世紀頃にイリュリア語は絶えて、その断片はインド・ヨーロッパ語 族系の言葉である。と十分に証明された。しかしながら、イリュリア人と言う名称は、 古代ギリシャ人たちが自分たちの北方近隣に住む人々を言及して使ったもので、今日、 この人々の居住範囲や言語、文化的な均質性は不明確である。イタ
リアに古代住んでい たアピゲス族やダウニ族、メッサーピ族などのいくつかの部族は、地理的な「イリュリ ア」からイタリア半島に渡ったと考えられ、恐らくサルマタイの支族で混血となったも のと思われる。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/293
294: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/08(月) 11:00:57.36 ID:4kSR4dapp 中立のリアル・・・・・・・195 イリュリア人は自分たちの総称として「イリュリア人」と考えておらず、それぞれの 部族名を使っていた。しかし、イリュリア人の名称になった青銅器時代に、古代ギリシ ャ人は、最初に接触した特定の部族の名称として名称を付け、言語や習慣が同じような 人々の全てにも、イリュリア人の名称が適用された。といわれる。一方でチェルノレス 文化(黒森文化)の解明では、紀元前11世紀〜紀元前8世紀頃 を最盛期
として前3世紀 ごろまで黒海の西北部、ドニエステル川とドニエプル川に挟まれた森林ステップ地域を 中心に広がっていた文化とされる民族がいた。スラヴ語派の各民族、すなわちスラヴ人 の起源における決定的に中心的な文化と考えられ、後の時代のこの地域の諸文化の、絶 え間ない融合や分裂のプロセスを経て、さまざまな文化や国家に分かれた。不思議なの は、青銅器時代から鉄器時代への変遷期の文化で、両方の時代の特徴が見られる。と言 う事だ。その南のコマロフ文化から発展したものと推定されている。地理的には、トシ ュチニェツ文化の東部地
域と一致し交差する。コマロフ文化は、ロシアのドニエストル 川中流域に、紀元前1500年から紀元前1200年にかけて存在した青銅器時代文化とされる 。20戸あまりを一つの集合群落で、それぞれ一部屋からなる家屋が、集まった村落跡が 発掘されている。が、その他の住居跡はあまり見つかっていない。主な遺跡は、墓地。 土葬で、木材や石材で蓋がしてあり、それを、覆ってクルガン墳墓が築かれているので 、日本の石室遺跡に近い。しかし、平らな火葬墓も見つかっているので、火葬もしてい た様だ。ストーンサークル(環状列石)もあるほか、壺などといっ
た土器の、丸い底部 やクルガン墳墓の底部などといったものには、太陽を模したと思われる意匠が施されて おり、これは、太陽信仰があったことを示唆している。とも言われている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/294
295: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 11:06:37.14 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・196 埋葬の形態、冶金の技術、戦斧の形状、土器の特徴など、これらから、コマロフ文化 は、前の時代の、縄目文土器文化の水平分布域のうち、このあたりの地方文化から発展 したものと推定されている。さらにこれらの遺物の特徴からは、同時代のトシュチニェ ツ文化と深くかかわっている事も見つかっている。このため一般的に、コマロフ文化は 、トシュチニェツ文化と共に、トシュチニェツ・コマロフ文化と称され
、複合の一部と みなされる場合も多い。この文化複合のうちコマロフ文化は、プロト・スラヴ人或いは トラキア人の、集団としての発展段階の一つであろうと、推測されている。この、文化 複合の伝統は、この後の時代に続くチェルノレス文化に受け継がれている。といわれる 。1956年にマリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)は、彼女の「クルガン仮説」を「ク ルガン考古学」と言語学を結びつけて、原インド・ヨーロッパ語を話す 人々の起源に 位置付けて提唱した。ギンブタスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った文化 を、「クルガン文化」と
呼称し、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへ伝播していった事 をつきとめた。クルガン墓標が、原インド・ヨーロッパ語族のものである。という強い 主張のクルガン仮説は、黒海の周りに広がる「ポントス=ステップ全体」に漸進的に、 広がっていくクルガン文化を想定している。そのうち、「クルガンIV期」とされるのは 、ヤームナヤ文化(若しくは「竪穴墓」文化)に比定される時期である。ステップを越 えて広がるクルガン文化は、高度に発展した文化となり、紀元前2500年前後では、西方 では、バルカン半島に住み着くことになる。 http://maguro.2ch.
sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/295
296: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 11:07:06.36 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・197 原ギリシャ人の球状アンフォラを伴う文化は「球状アンフォラ文化」と言われ、西方 文化とされるのに対し。東方では、インド・イラン系の遊牧民文化を形成し、馬の家畜 化は、馬を使用した戦車を生み出し、クルガン文化を大きく変貌させた。クルガン文化 が、広くヤームナヤ地方全域に波及するのを促進させた。此の事は、このクルガン仮説 においては、黒海周辺のステップ全体に原インド・ヨーロッパ語族が広
がっていき、後 に地域ごとに異なる方言として言語が多様に分化していった契機となった。と指摘する 。「原郷 (Urheimat) 」と考えられている場所は、地図上では、ヴォルガ川の、近郊で あって、最初に乗馬という習慣が発生しただろうと、考えられる場所と されている。 そしてこれは、最初のインド・ヨーロッパ語族ないし、先行インド・ヨーロッパ語族の 核をなす民族の発生した 紀元前5千年紀に対応するもの。とも考えられている。この 仮説は、インド・ヨーロッパ語族の研究に重要な影響を与えた。支持する研究者たちは 、クルガン文化には、紀
元前5千年〜紀元前3千年にステップやヨーロッパ南東部に、 存在した原インド・ヨーロッパ語族の民族的特徴が反映されている。としている。クル ガンT期は、ドニエプル川流域からヴォルガ川流域の地方で、紀元前4千年紀の前半に 起こる。サマラ文化、スレドニ・ストグ文化、クヴァリンスク文化、セログラソフカ文 化を含んでいる。特に、スレドニ・ストグ文化ではクルガンを築かないものの、人類に よる馬の家畜化の起源と考えられている。クルガンII期から III期は、紀元前4千年紀 の後半にあたる。それぞれスレドニ・ストグ文化、マイコープ文化
が含まれる。マイコ ープ文化は盛んにクルガンを築く。クルガンIV期ないしヤムナ文化、は紀元前3千年紀 前半に当たるこの文化は、ウラル川からルーマニアまで至るステップ全体に拡大した。 そして、三つの拡大の波があったと考えている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/296
297: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 11:08:10.03 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・198 日本語で、鬨(とき)の声や鬨の音とされるのは、中世の戦(いくさ、戦争や衝突) などの勝負事で勝ちを収めたときの、勝ち鬨や、戦場で上げる声である。いわゆる勝利 の歓声である。これは、万国にあるらしく、ロシアでも「ウッラー(万歳)」と叫ばれ る。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声とされ。凱歌(がいか、勝負事に勝ち を収めたときに歌う喜びの歌)とは、同義あるいは一部同義とされるほ
ど近いが、勝鬨 (かちどき)は歌ではなく、武家作法の一つと言う。日本でも鼓舞する時、エィ・エィ ・オー!!。と拳を挙げるが、実はこれは、吉田神道の、鋤鍬の儀礼による。要するに 神主が、勢いを表わす祝詞としての言葉だった。勝ち鬨に関する記述として『北条五代 記』や、『鴉鷺合戦物語』(15世紀末前後)『平家物語』『平治物語』(13世紀成立) の、記述に戦後の勝ち鬨に関しては、「勝ち時(鬨)は一度、始め強く、終わり細かる べし」と、記して作法についての記述がとしている、「戦初めの時に『鬨を三度』出し 、風魔小太郎が部下と共
に敵地に侵入し、あちこちで、勝ち鬨をあげて敵兵を混乱させ る作戦をとった。」と記される。他の例として、大将が三度弓杖(ゆんづえ)で地面を 叩き、「えい、えい、えい」と三声の鬨をあげ、家来が声を合わせ、「応(おー)」と 応える。とあるので。選挙出陣式の際の「えい、えい(二声)、おー」は誤った用法と されている。つまり、「えい・えい・えー」「オー」が正式な神式だが、武家での処方 で、ほしょったのである。「勝凱をつくることは、軍神を送り返し、奉る声なり」と記 述され、信仰と繋がっていた。『訓閲集』の表記では、「えい」も
「おう」も異なり、 「曳(大将が用いるエイ)」「叡(諸卒が用いるエイ)」「王」の字を用い、軍神を、 勧請する際、「曳叡王(えいえいおう)」と記し、大将が「曳」と発した後に、諸卒が 「叡王」とあげるとし、声に関しては、「初め低く、末高く張り揚げる」と記している http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/297
298: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 16:58:45.68 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・199 ところが「曳叡王(えいえいおう)」と言うのは、中国文献にも日本にもいないのだ 。日本には5種の和語があったとされ、天平時代、即ち奈良時代以前には、言葉は同じ でも文字が違う物、と言うのは多かったらしい。つまり、何となくで部族間の交流が、 物々交換があったのだろう。この頃日本は、朝鮮半島から言葉と江南地区つまり宋国の 言葉、更に実は北の方から言葉もやって来た。渤海からの渤国使が来た
事も、古文には 書かれている。又当然乍ら、旧来の原住民だった倭民言葉もあったし、猟をして渡って 暮らす、山窟(サンカ)文字の言葉もあった。時々、この言葉は山岳信仰の名残りとし て、不思議な呪文にも出会う。九字護身法(くじごしんぼう)と言う奴もその一つで、 ある。この呪文は、主に修験道において「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の、 九字の、呪文と九種類の印によって除災や護身や戦勝、等を祈る作法であるとされる。 この行為は九字を切るとして、字切り(くじきり)とも表現され、仏教(密教)で正当 な作法ではなく伝承作法
となっている。実はこの九字切りは、仏教と関係ない神道に、 影響した道教の六甲秘呪という 九字の作法が修験道に混入して、更にその他の様々な ものが混在した日本独自の作法となった。日本での九字作法は、独股印を結んで口で「 臨」と唱え、順次大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印 、宝瓶印(別称:隠形印)を結んで、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を唱え る。次に「刀印」を結んで四縦五横の格子状に線を空中に書く。とされる。九字は中世 には護身、戦勝の利益があるとして、武人が出陣の際の祝言に用い
て、やがて、忍者の 保身の呪術としても使われた。日本で忍者が結ぶ印の基になり、戦場に臨む武士が行う 修法「摩利支天の法」(まりしてんのほう)が存在し、摩利支天は武士の守り本尊とし て鎌倉時代から武士に人気があった。と、伝えられている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/298
299: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 16:59:15.01 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・200 摩利支天(まりしてん)は、仏教の守護神である天部の一尊と言われ。梵天の子、又 は、日天の妃ともいわれる。摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれる。摩利支天(マーリー チー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」を神格化したもので、由来は 古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場する、ウシャスという暁の女神であると考えら れている。としている。陽炎(かげろう)は実体がないので捉えられず
、焼けず、濡ら せず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の神通力を有すとされる 。これらの特性から、日本では、武士の間に「摩利支天信仰」があった。と言う。また 斗母元君(とぼげんくん)という民間信仰(あるいは斗姥元君と太一元君)などでは、 中国の民俗宗教の女王神であり、道教においても 女神であり、仏教での摩利支天は、 道教化された神とも言われているが、仏教より民間信仰が早いはずで、これは仏教界の 偽りであろう。基本、司命の神で、大梵天に住んで、日・月・星辰を統治した。大梵天 は、色界十八天の中の、
第3天界で、初禅三天(大梵天・梵輔天・梵衆天)の中の最終 最高位の住所である。山岳宗教での住まいを本院坊とか宿坊とか言うが、双方修行の宿 で、本院坊は文字通り本院の来僧のみの宿で、宿坊は一般の参拝者の宿となる場所だ。 又星宿とも言われ、祭りの宿とした。ここで、祖霊祭にさいしては、よく死んで星にな る。と言う事から星を司る、辰を祀る。吉田神道に於いて、土俵というのは四角い場を 云い、我々が土俵と言うのは、龍神なのでしめ縄なのだ。「正辰祭(せいしんさい)」 は「祖霊」を祀られる、両親や近親、あるいはその家の始祖、中興
の祖などに対し御盆 の様に帰幽当日(祥月命日)に霊前と墓前で行う霊祭といい、つまり土俵は「たつ」と 呼ばれていたのである http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/299
300: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 16:59:43.99 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・201 実際に土俵も、実は徳俵が訛って 土俵と書くが、実は寄付され捧げられた、奉納の 俵を返す感謝の祭りで、天の岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になっ たとき、神々は大いに困り、天の安河の川原に集まって会議をした。思金神の発案によ り、岩戸の前で様々な儀式を行った。とした伝承のステージだったのである。日本神話 に登場する女神の、『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿
女命と表記した アマノウズメは、「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」で、鈿(ウズ)とは普通の 飾りでなく、貴重な宝飾品で飾った飾りで、かんざしとも読むが、金や貝をはめこんだ 飾りで、「かねかざり」「螺鈿(ラデン)」とされる。天照御大神が天の岩戸に入って、 岩屋から出す為に裸踊りなどをして、「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神で あり、日本最古の踊り子とされた。『古事記』では「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、 神懸かりして、胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」とい う、アメノウズメがうつ
伏せの槽(うけ:桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし 、裳の紐を女陰まで押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかしストリップショー を行われた事が書かれている。『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉 を振り、と言う力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。と ある。日本書紀では「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ:ヘ ソ)の下に推し垂れて、租藁衣て向きて立つ。」つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を 臍の下まで押したれて、あざわらいながら(猿田毘古に)向かって
言ったとある。その 後、名を問い質すと、その神は国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎え に来た。と言った。ようである。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/300
301: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 17:00:45.82 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・202 摩利支天が、陽炎、太陽の光、月の光を意味するマーリーチーは、どう考えても光輪 信仰、光源信仰と言う物である。これらが拝火教の流れであり、バール神を拝し崇めた ミトラ教に通じているのは、確かだろう。北斗衆星(北斗七星)の母ともいわれる一部 で、摩利支天を、中国の道教に引き入れた神で、西王母と比肩する高位の女神である。 ともしているのは中国型式に変えたのだ。像形では、天青雲錦法服(て
んせいうんきん ほうえ)と瓔珞(ようらく:貴族貴婦人の装い)を身に着けた、花飾りのついた宝冠を かぶった荘厳な姿として表現される。4つの頭の、正面に慈悲の菩薩相、左方にはイノ シシ相、右方は憤怒の夜叉相、そして、後方には3つの目ライオンの相を持っており、 額の中央に1つの目がある。8本の腕にそれぞれ日、月、鈴、璽、弓矢、戟(あるいは 剣・縄や降魔杵)を持ち、内2本の腕には印を結ぶ。蓮華座上に坐っている。または7 頭の豚が引く二輪戦車に乗った。道教の神々の中ではとても珍しい容姿で女神の阿修羅 像の様なものである。日
本では八面六臂(はちめんろっぴ)の八つの顔と、六本の腕で 、一人で数人分もの活躍をすること表わす言葉がある。斗母元君(とぼげんくん)は、 少なくとも唐代に仏教の摩利支天(まりしてん)と習合し、同一視された。摩利支天は 、梵天の原初的なエネルギーの中心にあとした北斗七星や、道教の母としても描かれて いる。摩利支天の戦車は、7頭の猪が引いている。これは猪=豚であり、家畜生活の原 型ともとれる。道教の教義において、彼女は、九天玄女や西王母と同じく、不朽を代表 する「赤子(せきし:赤ちゃん=生命)」の母であり、「道(どう
:中芯・中央)」と は、人体の中心として奉られた。これは、老子黄帝の誕生と起源についての神話と関連 付けられている。道教神話では、黄帝の母である附宝は、北斗七星の稲妻を見て目覚め させられ、そこで彼女は黄帝を身籠もった。などとしている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/301
302: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 17:15:50.01 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・203 江戸時代、大黒天・弁才天・摩利支天は、貴三大天と称され,蓄財と福徳の神として 、特に商工業者の間に信仰された。江戸では上野徳大寺と雑司ヶ谷玄浄院が摩利支天を 祀ることで有名で、町人たちが大勢参詣して賑わった。と言われる。「貴」とは貴い。 の字の様に尊い中でも上位である。ここで何で歓喜天が入ってないのか。それはガネー シャの分身とされる歓喜天は、比較的新しかったからでは無いだろうか
。ヒンドゥー教 の神・ガネーシャ(群集の長)とされ象形である。それが日本では観自在菩薩とされる 。つまり観自在菩薩は生命の神で、性交の神だったのだ。大黒天・弁才天は七福神とさ れ、摩利支天は入らない。実は鬼神であって、背後には忿怒の姿をとった三つ目の獅子 を背負う。摩利支天は、猪の背に乗っていて、亥の日を縁日とした。いわゆる願いを叶 える、亥の刻参りの神である。徳大寺、聖徳太子作といわれる開運大摩利支天を安置し ているので、仏教以前に伝わり、仏教と同化して行った。と考えるのが妥当であろう。 この容姿は「道の体」を
象徴している。とも言う。両手に捧げ持つのが右に憤怒の夜叉 相で、太陽を掲げ璽(じ)の箱を持つつまり印鑑である。左方にはイノシシ相で月を掲 げ鈴や鐘を持つ。後方にはライオンの相で弓と縄や剣或いは降魔杵(こうまきね)を持 つ、そして正面には慈愛の相での印を結んで蓮華座に座るのだ。「道の体」とは陰陽5 行すなわち、隣との相生(そうじょう)関係と、向合うものの相克(そうかつ)関係で の五行(水金土火木)の思想である。月と日、鈴や鐘と璽(じ)や印鑑である。更に、 弓に対して剣や縄である。2つの事象は陰陽の2つの気(両儀)に
反応して、太極を成 す。と言う印を持った慈母像で、背面の獅子顔と、表に引き連れる猪は、どう見ても、 生活を表している。4つの頭が直立し、四象を生じ、8つの腕が垂れ下がって、八卦を 生む。その為、斗母元君=摩利支天は、豚を飼い、金属を持った遊牧民族の、生活神で あったろう。印鑑や璽(じ)は、契約を意味し、対する鐘や鈴は、襲う動物を追い出す 物だ。後ろにいるライオンは、その家を護って徘徊する猫であろう。つまり鼠やイタチ 等の小動物から遊牧民の暮らしを護るものだ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/
302
303: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/09(火) 17:21:54.77 ID:OyWTxVKYL 中立のリアル・・・・・・・204 道書『道法会元』において、「法主九天雷祖大帝斗母紫光金尊聖徳天后円明道姥天尊 は、三頭六臂にて両手に日月を捧げ持ち、別の両手には弓箭、また別の両手には降魔鈴 杵を持ち、身に雷電をまとい、七頭の黒い猪の牽く金色の輦に乗る」という形象である 。斗母元君(とぼげんくん)は、道書『先天神后斗姆元尊大道九皇真経』においては、 天皇の生まれる前に、彼女は世に出で、地皇の先に西洲天竺国に住み、
大神通を運び、 インドを往来する。北洲鬱単越(ほくすうったんのつ)の周御国王・辰祭従(たつさい じ)に出会い、彼との間に9人の子(奇門遁甲の九星)の、天英、天任、天柱、天心、 天禽、天輔、天冲、天柄、天蓬)をもうけたとある。元始天王は彼女を「先天道后」と 称し、九皇の養育係としている。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる のは天界の山に須弥山(しゅみせん)がある。この東に弗婆提(ほつばだい)があり、 西に瞿耶尼(くやに)、南に 閻浮提(えんぶだい)北に鬱単越(うったんのつ)の 四 大洲があるとされれてい
る。ひとつの島の大きさは 8,500万km2〜2億4,000万km2で地球 の陸地、つまり四大大陸である。宗派によっては、東勝身洲(とうしょうしんしゅう: 弗婆提)、南贍部洲(なんせんぶしゅう:閻浮提)、西牛貨洲(さいごけしゅう:瞿陀 尼 )、北倶盧洲(ほくくるしゅう:鬱単越)と 日本語風に略して解説される。四大洲 には、それぞれ、二つの中洲と500の小洲が付属して四大洲と中洲には 人が住み、小洲 には人が住んでいない島がある。と伝えた。日本は南贍部洲に住んでいるとされ、南贍 部洲に所属する中洲の一つは、羅刹の住んでいる遮末羅洲(しゃま
らしゅう)とも解説 されている。摩利支天が北斗の母親と言うのは、遊牧民が、この北極星を中心に物事や 季節、方向方角を見て暮らしていた。豚を飼っていたので、当然屠殺の、感謝の儀式も あって、これは、ユダヤ民族に通じる習慣でもある。暦に干支を取り入れた時各国に豚 や猫は入ったり入らなかったりする。つまり神とするのか神の使いとするのか。分かれ たのであろう。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/303
304: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/10(水) 08:48:00.94 ID:gqaiWCS5v 中立のリアル・・・・・・・205 臨兵闘者皆陣列前行(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ぜん・ぎょう )。意味は臨む兵、闘う者、皆 陣列べて前を行く。と言う意味とされ 九字の元祖で、 人によっては、最も強力な九字とされる。天台宗と神仙系が用いていた。更に仏教系は 臨兵闘者皆陣烈在前(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん。) で、意味は臨む兵、闘う者、皆 陣烈(裂)れて(きて)前に在り。現
在では 最も有名 な九字となった。九字(くじ)は、道家により呪力を持つとされた9つの漢字が元だ。 西晋と東晋の、葛洪(かつこう)が著した『抱朴子』(ほうぼくし)の内篇巻17「登渉 篇(とうしようへん)」に、抱撲子が「入山宜知 六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と、入山時に唱える 「六甲秘祝」 として、「臨兵鬥者皆陣列前行」がある。と言ったと記されて、以後古代中国の道家に よって行われた。これが、日本に伝えられ、陰陽道、密教や修験道等で主に護身の為の 呪文として行われ
たようだ。詳しくはこの種のこの文句を唱えながら、手で印を結ぶか 指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守るものだ。と信じられてき たようだ。但し『抱朴子』の中では、手印や四縦五横に切るといった所作は記述がない 。その為、所作自体は、後世の日本の付加物である。とされる(九字護身法)。また、 十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一 文字の漢字は特化させたい効果に、よって異なる。と言う。葛洪は仙道思想の中での、 個人の行為(精神活動をも含む)の如何によって神仙になれ
るかどうかが決まる「神仙 可学論と、人の努力によってはどうしようもない神仙の壁を想定している。とした仙命 論とを書いて、この矛盾ともいえる両観念の並存について、その整合的説明を試みては いるが、人によりその意味付けは、各自受け取り方が異なっている。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/304
305: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/10(水) 08:48:35.03 ID:gqaiWCS5v 中立のリアル・・・・・・・206 この謎の呪文は、意味は「臨む兵、闘う者、皆 陣列べて(ねて)前を行く」。として いる。つまり 兵士に、並んで陣を作って 前に行きなさい。と言う命令なのであり、 これは、ギリシャでもペルシャと戦う形式で、中国の戦国時代に於いても概ねこうした 横一列にならんだ歩兵で挑んで闘っていたであろう。これは、日本では無い事も無いだ ろうが、広い平原地帯の闘い方である。日本の様な起伏の富んだ 山地
の近い日本では 、山にこもり、弓の戦術や個々の闘いが多く 陣を並べて戦う。なんて方法は余りない 。逆に島津の逃げ道の様に、騎馬を使って縦一列の、それこそ相撲の様な位取り戦の総 当たり戦の戦法が一般的であろう。ではどっからこの呪文が来たのか。多分インドから であろう。と思いきや、調べればちょっと違っている。イギリスが1623年のアンボイナ 事件以降、インドネシアを断念して、インドへの進出を開始したのだが。イギリスの東 インド会社は、ムガル帝国を形骸化させていく。カルカッタ、ボンベイ、マドラスを、 拠点に本格的にインドの
植民地化をすすめ、征服王朝を築くべく征服後にそこに本国の ヨーロッパ体制、つまりムガル帝国の中央集権を盗る形を採ったが、実は大きく違って いたのである。ベンガル地方と北インドに足がかりを築いたイギリス東インド会社は、 地税の徴収にあたって徴税機構の設置、税査定、土地所有権の確定という問題に、直面 するのだった。我々はカースト制度の発祥地で、行政や王権がピラミッド型に支配権が 確立されていたと思いがちだが、ここには無かったのだ、あくまでもマハラジャと言う 族長とインド宗教ヒンズー内のカースト制度であって、我々の知る
帝国の形式ではない のである。「シパーヒーの乱」「セポイの反乱」などあったが、あくまで民族的な抵抗 運動であって、反乱参加者の出身・身分は多岐であり、兵士などでは無かったのだ。中 東にペトラ=岩山と言う遺跡がある、シ−ク=谷道と細い道を行ってたどり着く、パル ティアやローマ或いはエジプトなど大国の中で強かった。何故か。ローマ軍は海戦と、 山岳戦に弱かったからだ。つまり平地で陣を敷き並んで兵を進める事しかしなかったの だ。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/305
306: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です [] 2024/07/10(水) 08:49:08.43 ID:gqaiWCS5v 中立のリアル・・・・・・・207 ここで困ったイギリス東インド会社は、ザミーンダーリー制やライーヤトワーリー制 などの、近代的土地所有制度を導入する事になる。ザミーンダーリー制は、地元有力等 に入札させた、税金徴収請負制度であった。ザミーンダール(徴税請負人:ペルシャ語 で地主)に由来する。この地税の徴収に徴税機構の設置、税査定、土地所有権の確定と いった一連の問題解決に、現地のザミーンダール(徴税請負人)を対象
とした、税額の 競売会を開き、最高額の入札者に徴税を委任したのであった。東インド会社と入札者の 間に5年の契約期間が、締結され、当初は英国側も上手くいったと思った。ところが、 ザミーンダールは税を払えず破産する者が続発、加えて1770年に起きた大飢饉によって ベンガルの人口の約4分の1が減少したのだ。つまり税の徴収額は安定せず、翌年の、 税額と徴税者が不確かで、ザミーンダールと農民(ライーヤト)の間に土地開発の気運 は、全く起こらなかった。18世紀ではイギリスは土地の主権が個人や企業にあったが、 フランスでは、重農主義
が唱えられて、インドにおける土地所有権の共有主義が、まだ 残っていてポルトガルの東インド会社では上手く行っていたのであった。そこで、次に 行ったのが、秀吉の様な太閤検地である。ライーヤトワーリー制度とは、イギリス統治 下で実施されていた土地所有・徴税制度で「ライーヤト」は、ペルシア語で「耕作者」 を意味する。イギリス東インド会社はカーナティック戦争、マイソール戦争と並行して 、獲得した土地で様々な徴税方法を試行錯誤してやった。先行した地主(ザミーンダー ル)の税の滞納で、ザミーンダーリー制度への批判が高まり、税額
が固定されたザミー ンダリー制度では、土地から上がる収益が増加しても、東インド会社は恩恵を受けられ かった。先の請負制で、金額が決まっていたからだ。そこで変動に応じたものに変えた 。政府は耕作者(ライーヤト)を土地所有者と規定し、ライーヤトと地税の徴収契約を 直接結んだ。つまり、徴税請負人や大地主などの中間階級層は置かずに、ライーヤトワ ーリー=農民と直接交渉したのだ。形式的には農民に近代的な土地所有権となった。 http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1712207618/306
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