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287: 2024/07/07(日)07:59 ID:tlePQyUwm(4/8) AAS
中立のリアル・・・・・・・188
オドアケルはローマの法を厳格に実行して、元老院と執政官の、権威の復興に務め、
西ローマ帝国の人々から大きな信頼を獲得していたので、西ローマの帝位に、付けた。
しかし自身は、今だイタリアの守護者として、軍官の地位に留まって、帝国の民政行政
については元老院とローマ人の文官に委ねていた。この時代の動きを止め国家建設には
イタリアの絶対王権に近づきたい 独裁統治の方針の、ゼノンと対立し公然と反ゼノン
派を支持するようになった。この時、皇帝ゼノンは、東ゴート族の王テオドリックとも
同盟を模索し手を結んだ。その上で、イタリア遠征して、征服したあかつきには、その
統治を約束したのであったのだ。が、何故に、そうまでしてテオドリックに近づいたの
か。実は、自分を持ち上げ働いてくれたという西ゴート族を束ね皇帝になったオドアケ
省12
288: 2024/07/07(日)08:06 ID:tlePQyUwm(5/8) AAS
中立のリアル・・・・・・・189
この時、テオドリックがイタリア遠征のために、新たに組織した集団が、後には東ゴ
ート人と呼ばれるようになった。のだが、この集団は、ゴート人を中心としつつも、ロ
ーマ人やルギー族等からなる混成集団であった。つまりゴート人とは、旧来のイタリア
の現地人であり、ローマ人は、その時防衛に駆けつけた、将軍達の手勢であった。すな
わちGOATとは「Greatest of All Time(史上最高の)」という意味のスラングの、
略称だったのである。この将軍達によって守られていながら、政策には、元老院が文民
統制(シビリアン・コントロール)の軍事抑制権を持っていたのが、ローマ帝国の走り
であり、もともと帝国と言えども、ローマは中央集権制で、議会制民衆政治を中央統治
するように完成させた社会であったのだ。その形は、各種の部族を入れた族長連邦制の
省14
289: 2024/07/07(日)08:09 ID:tlePQyUwm(6/8) AAS
中立のリアル・・・・・・・190
ヴァンダル人(ヴァンダルじん、Vandal)は、古代末期にゲルマニアから北アフリカ
に移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフ
リカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリ
カに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシアがもともとは Vandalusia
と綴り、古名旧語でヴァンダルシア、つまり、ヴァンダル王国の国民といいう事だが、
ヴァンダル=サンダル、つまり海の付近の海洋民の事だった。ところが、こうした島嶼
国やアフリカ北海岸は、元々はベルベル人が住んでいた。なのに、ゲルマン人と混成の
カルタゴ軍は、紀元前9世紀頃に、地中海東岸のティルスを本拠地としていた、中東と
アフリカ人を中心のフェニキア(トルコ人)よって、地中海内の植民都市の一つとして
省15
290: 2024/07/07(日)10:28 ID:tlePQyUwm(7/8) AAS
中立のリアル・・・・・・・191
ヴァンダル王国(470年)が出来た時、ゲイセリックは、ここにヴァンダル族とアラン
族(一部のサルマタイ人)からなるヴァンダル王国を建国した。と記述する。この王国
はローマの艦隊を接収して、強力な海軍を築いて地中海における一大勢力となり、シチ
リア島、サルデニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服している。こうした事から
、その後の新しい改革の為に、古いものを壊す、破壊主義として、積み上げのない破壊
主義者や行動に、ヴァンダワン、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなって
いる。当初ゲルマニア人に対する抵抗やそれによってもたらされた否定主義を、根底に
持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴
とした、否定行動のダダイスムに属する市民たちダダイスト達であったが、そこに戦争
省11
291: 2024/07/07(日)10:29 ID:tlePQyUwm(8/8) AAS
中立のリアル・・・・・・・192
この短期間ながらも、ヴァンダル王国(470年)が出来た事で、北アフリカは海賊の海
に代わって行く。北方民族がノルーウェーやバルト三国や、オランダ・ドイツそして、
フランス・スペインとやって来て北アフリカ沿いに広げ、カルタゴ人をシチリア島や、
イタリアまで追い込んでいくのである。その途中ゴート人の王国や、スラブ人の国に、
宗教問題があった。基本的にマニ教やミトラ教、そしてローマ系住民が信奉するカトリ
ック教への過酷な迫害である。マニ教や、ミトラ教は少数派の宗教だったため、目立っ
た反対はしても力が無かったが、カトリック教への迫害は、教会が過大な多数の信者を
抱え、指導的党首となり、毒にも薬にもなるリスクの高い政策となっていた。カトリッ
ク教会は、富裕層の宗教であり、課税すれば優良な財源にはなるが、過酷な迫害を加え
省13
292: 2024/07/08(月)10:11 ID:4kSR4dapp(1/3) AAS
中立のリアル・・・・・・・193
19世紀の研究により、ヴァンダル人は全体としてプシェヴォルスク文化に属すること
が判明した。また、リュージイ族(ルギイ)との関係も議論されており、リュージイ族
(ルギイ族)が、後にヴァンダル人と呼ばれるようになったか、もしくはヴァンダル人
は、複数部族の連合体で、リュージイ族はその一つであるスラヴ系部族だった。とする
など諸説がでた。スカンジナビア起源説によれば、のちにヴァンダル人のうちの一部を
構成することになる部族は、紀元前2世紀にバルト海を渡って現在のポーランド地域に
到着し、紀元前 120年頃からシレジアに定住するようになった、とされ、名前の類似性
からノルウェーのハリングダール、スウェーデンのヴェンデル、デンマークのヴェンド
シッセルが、彼らの故郷ではないか。という意見が出された。近世の、ゴート起源説の
省11
293: 2024/07/08(月)10:12 ID:4kSR4dapp(2/3) AAS
中立のリアル・・・・・・・194
人の起源に関しては、現代の先史学者の残された問題としている。インド・ヨーロッ
パ祖語から枝分かれしただろう鉄器時代以前、サルマタイはギリシア語であり、ラテン
語ではサルマタエとなる民族は、彼らのいた黒海北岸地域を、その名にちなんでサルマ
ティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれた。考古学的にはドン川から西カザフス
タンにいたるまでの地域をサウロマタイという名前で、よく似た民族の文化をサウロマ
タイ文化(紀元前7世紀〜紀元前4世紀)をサルマタイ文化(紀元前4世紀〜紀元前2
世紀)と規定している。この間にこの地域に住んでいた民族をサルマタイとしている。
紀元前4世紀末に、サルマタイ諸部族は、サウロマタイに代わってドン川に迫り、その
内のシラケス族は、ボスポロス王国の権力闘争に深く関与し、クバン川流域を支配下に
省12
294: 2024/07/08(月)11:00 ID:4kSR4dapp(3/3) AAS
中立のリアル・・・・・・・195
イリュリア人は自分たちの総称として「イリュリア人」と考えておらず、それぞれの
部族名を使っていた。しかし、イリュリア人の名称になった青銅器時代に、古代ギリシ
ャ人は、最初に接触した特定の部族の名称として名称を付け、言語や習慣が同じような
人々の全てにも、イリュリア人の名称が適用された。といわれる。一方でチェルノレス
文化(黒森文化)の解明では、紀元前11世紀〜紀元前8世紀頃 を最盛期として前3世紀
ごろまで黒海の西北部、ドニエステル川とドニエプル川に挟まれた森林ステップ地域を
中心に広がっていた文化とされる民族がいた。スラヴ語派の各民族、すなわちスラヴ人
の起源における決定的に中心的な文化と考えられ、後の時代のこの地域の諸文化の、絶
え間ない融合や分裂のプロセスを経て、さまざまな文化や国家に分かれた。不思議なの
省11
295: 2024/07/09(火)11:06 ID:OyWTxVKYL(1/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・196
埋葬の形態、冶金の技術、戦斧の形状、土器の特徴など、これらから、コマロフ文化
は、前の時代の、縄目文土器文化の水平分布域のうち、このあたりの地方文化から発展
したものと推定されている。さらにこれらの遺物の特徴からは、同時代のトシュチニェ
ツ文化と深くかかわっている事も見つかっている。このため一般的に、コマロフ文化は
、トシュチニェツ文化と共に、トシュチニェツ・コマロフ文化と称され、複合の一部と
みなされる場合も多い。この文化複合のうちコマロフ文化は、プロト・スラヴ人或いは
トラキア人の、集団としての発展段階の一つであろうと、推測されている。この、文化
複合の伝統は、この後の時代に続くチェルノレス文化に受け継がれている。といわれる
。1956年にマリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)は、彼女の「クルガン仮説」を「ク
省9
296: 2024/07/09(火)11:07 ID:OyWTxVKYL(2/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・197
原ギリシャ人の球状アンフォラを伴う文化は「球状アンフォラ文化」と言われ、西方
文化とされるのに対し。東方では、インド・イラン系の遊牧民文化を形成し、馬の家畜
化は、馬を使用した戦車を生み出し、クルガン文化を大きく変貌させた。クルガン文化
が、広くヤームナヤ地方全域に波及するのを促進させた。此の事は、このクルガン仮説
においては、黒海周辺のステップ全体に原インド・ヨーロッパ語族が広がっていき、後
に地域ごとに異なる方言として言語が多様に分化していった契機となった。と指摘する
。「原郷 (Urheimat) 」と考えられている場所は、地図上では、ヴォルガ川の、近郊で
あって、最初に乗馬という習慣が発生しただろうと、考えられる場所と されている。
そしてこれは、最初のインド・ヨーロッパ語族ないし、先行インド・ヨーロッパ語族の
省12
297: 2024/07/09(火)11:08 ID:OyWTxVKYL(3/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・198
日本語で、鬨(とき)の声や鬨の音とされるのは、中世の戦(いくさ、戦争や衝突)
などの勝負事で勝ちを収めたときの、勝ち鬨や、戦場で上げる声である。いわゆる勝利
の歓声である。これは、万国にあるらしく、ロシアでも「ウッラー(万歳)」と叫ばれ
る。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声とされ。凱歌(がいか、勝負事に勝ち
を収めたときに歌う喜びの歌)とは、同義あるいは一部同義とされるほど近いが、勝鬨
(かちどき)は歌ではなく、武家作法の一つと言う。日本でも鼓舞する時、エィ・エィ
・オー!!。と拳を挙げるが、実はこれは、吉田神道の、鋤鍬の儀礼による。要するに
神主が、勢いを表わす祝詞としての言葉だった。勝ち鬨に関する記述として『北条五代
記』や、『鴉鷺合戦物語』(15世紀末前後)『平家物語』『平治物語』(13世紀成立)
省12
298: 2024/07/09(火)16:58 ID:OyWTxVKYL(4/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・199
ところが「曳叡王(えいえいおう)」と言うのは、中国文献にも日本にもいないのだ
。日本には5種の和語があったとされ、天平時代、即ち奈良時代以前には、言葉は同じ
でも文字が違う物、と言うのは多かったらしい。つまり、何となくで部族間の交流が、
物々交換があったのだろう。この頃日本は、朝鮮半島から言葉と江南地区つまり宋国の
言葉、更に実は北の方から言葉もやって来た。渤海からの渤国使が来た事も、古文には
書かれている。又当然乍ら、旧来の原住民だった倭民言葉もあったし、猟をして渡って
暮らす、山窟(サンカ)文字の言葉もあった。時々、この言葉は山岳信仰の名残りとし
て、不思議な呪文にも出会う。九字護身法(くじごしんぼう)と言う奴もその一つで、
ある。この呪文は、主に修験道において「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の、
省12
299: 2024/07/09(火)16:59 ID:OyWTxVKYL(5/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・200
摩利支天(まりしてん)は、仏教の守護神である天部の一尊と言われ。梵天の子、又
は、日天の妃ともいわれる。摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれる。摩利支天(マーリー
チー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」を神格化したもので、由来は
古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場する、ウシャスという暁の女神であると考えら
れている。としている。陽炎(かげろう)は実体がないので捉えられず、焼けず、濡ら
せず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の神通力を有すとされる
。これらの特性から、日本では、武士の間に「摩利支天信仰」があった。と言う。また
斗母元君(とぼげんくん)という民間信仰(あるいは斗姥元君と太一元君)などでは、
中国の民俗宗教の女王神であり、道教においても 女神であり、仏教での摩利支天は、
省11
300: 2024/07/09(火)16:59 ID:OyWTxVKYL(6/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・201
実際に土俵も、実は徳俵が訛って 土俵と書くが、実は寄付され捧げられた、奉納の
俵を返す感謝の祭りで、天の岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になっ
たとき、神々は大いに困り、天の安河の川原に集まって会議をした。思金神の発案によ
り、岩戸の前で様々な儀式を行った。とした伝承のステージだったのである。日本神話
に登場する女神の、『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記した
アマノウズメは、「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」で、鈿(ウズ)とは普通の
飾りでなく、貴重な宝飾品で飾った飾りで、かんざしとも読むが、金や貝をはめこんだ
飾りで、「かねかざり」「螺鈿(ラデン)」とされる。天照御大神が天の岩戸に入って、
岩屋から出す為に裸踊りなどをして、「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神で
省11
301: 2024/07/09(火)17:00 ID:OyWTxVKYL(7/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・202
摩利支天が、陽炎、太陽の光、月の光を意味するマーリーチーは、どう考えても光輪
信仰、光源信仰と言う物である。これらが拝火教の流れであり、バール神を拝し崇めた
ミトラ教に通じているのは、確かだろう。北斗衆星(北斗七星)の母ともいわれる一部
で、摩利支天を、中国の道教に引き入れた神で、西王母と比肩する高位の女神である。
ともしているのは中国型式に変えたのだ。像形では、天青雲錦法服(てんせいうんきん
ほうえ)と瓔珞(ようらく:貴族貴婦人の装い)を身に着けた、花飾りのついた宝冠を
かぶった荘厳な姿として表現される。4つの頭の、正面に慈悲の菩薩相、左方にはイノ
シシ相、右方は憤怒の夜叉相、そして、後方には3つの目ライオンの相を持っており、
額の中央に1つの目がある。8本の腕にそれぞれ日、月、鈴、璽、弓矢、戟(あるいは
省12
302: 2024/07/09(火)17:15 ID:OyWTxVKYL(8/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・203
江戸時代、大黒天・弁才天・摩利支天は、貴三大天と称され,蓄財と福徳の神として
、特に商工業者の間に信仰された。江戸では上野徳大寺と雑司ヶ谷玄浄院が摩利支天を
祀ることで有名で、町人たちが大勢参詣して賑わった。と言われる。「貴」とは貴い。
の字の様に尊い中でも上位である。ここで何で歓喜天が入ってないのか。それはガネー
シャの分身とされる歓喜天は、比較的新しかったからでは無いだろうか。ヒンドゥー教
の神・ガネーシャ(群集の長)とされ象形である。それが日本では観自在菩薩とされる
。つまり観自在菩薩は生命の神で、性交の神だったのだ。大黒天・弁才天は七福神とさ
れ、摩利支天は入らない。実は鬼神であって、背後には忿怒の姿をとった三つ目の獅子
を背負う。摩利支天は、猪の背に乗っていて、亥の日を縁日とした。いわゆる願いを叶
省15
303: 2024/07/09(火)17:21 ID:OyWTxVKYL(9/9) AAS
中立のリアル・・・・・・・204
道書『道法会元』において、「法主九天雷祖大帝斗母紫光金尊聖徳天后円明道姥天尊
は、三頭六臂にて両手に日月を捧げ持ち、別の両手には弓箭、また別の両手には降魔鈴
杵を持ち、身に雷電をまとい、七頭の黒い猪の牽く金色の輦に乗る」という形象である
。斗母元君(とぼげんくん)は、道書『先天神后斗姆元尊大道九皇真経』においては、
天皇の生まれる前に、彼女は世に出で、地皇の先に西洲天竺国に住み、大神通を運び、
インドを往来する。北洲鬱単越(ほくすうったんのつ)の周御国王・辰祭従(たつさい
じ)に出会い、彼との間に9人の子(奇門遁甲の九星)の、天英、天任、天柱、天心、
天禽、天輔、天冲、天柄、天蓬)をもうけたとある。元始天王は彼女を「先天道后」と
称し、九皇の養育係としている。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる
省14
304: 2024/07/10(水)08:48 ID:gqaiWCS5v(1/4) AAS
中立のリアル・・・・・・・205
臨兵闘者皆陣列前行(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ぜん・ぎょう
)。意味は臨む兵、闘う者、皆 陣列べて前を行く。と言う意味とされ 九字の元祖で、
人によっては、最も強力な九字とされる。天台宗と神仙系が用いていた。更に仏教系は
臨兵闘者皆陣烈在前(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん。)
で、意味は臨む兵、闘う者、皆 陣烈(裂)れて(きて)前に在り。現在では 最も有名
な九字となった。九字(くじ)は、道家により呪力を持つとされた9つの漢字が元だ。
西晋と東晋の、葛洪(かつこう)が著した『抱朴子』(ほうぼくし)の内篇巻17「登渉
篇(とうしようへん)」に、抱撲子が「入山宜知 六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行
凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と、入山時に唱える 「六甲秘祝」
省12
305: 2024/07/10(水)08:48 ID:gqaiWCS5v(2/4) AAS
中立のリアル・・・・・・・206
この謎の呪文は、意味は「臨む兵、闘う者、皆 陣列べて(ねて)前を行く」。として
いる。つまり 兵士に、並んで陣を作って 前に行きなさい。と言う命令なのであり、
これは、ギリシャでもペルシャと戦う形式で、中国の戦国時代に於いても概ねこうした
横一列にならんだ歩兵で挑んで闘っていたであろう。これは、日本では無い事も無いだ
ろうが、広い平原地帯の闘い方である。日本の様な起伏の富んだ 山地の近い日本では
、山にこもり、弓の戦術や個々の闘いが多く 陣を並べて戦う。なんて方法は余りない
。逆に島津の逃げ道の様に、騎馬を使って縦一列の、それこそ相撲の様な位取り戦の総
当たり戦の戦法が一般的であろう。ではどっからこの呪文が来たのか。多分インドから
であろう。と思いきや、調べればちょっと違っている。イギリスが1623年のアンボイナ
省15
306: 2024/07/10(水)08:49 ID:gqaiWCS5v(3/4) AAS
中立のリアル・・・・・・・207
ここで困ったイギリス東インド会社は、ザミーンダーリー制やライーヤトワーリー制
などの、近代的土地所有制度を導入する事になる。ザミーンダーリー制は、地元有力等
に入札させた、税金徴収請負制度であった。ザミーンダール(徴税請負人:ペルシャ語
で地主)に由来する。この地税の徴収に徴税機構の設置、税査定、土地所有権の確定と
いった一連の問題解決に、現地のザミーンダール(徴税請負人)を対象とした、税額の
競売会を開き、最高額の入札者に徴税を委任したのであった。東インド会社と入札者の
間に5年の契約期間が、締結され、当初は英国側も上手くいったと思った。ところが、
ザミーンダールは税を払えず破産する者が続発、加えて1770年に起きた大飢饉によって
ベンガルの人口の約4分の1が減少したのだ。つまり税の徴収額は安定せず、翌年の、
省14
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