デカルト「我思う、ゆえに我あり」を完全論破 (27レス)
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(5): 2018/02/04(日)11:26 ID:BnSXjHgEF(1/3) AAS
デカルトは、
A「我思う、ゆえに我あり」
B「疑っている我」
C「疑わしいという考え」

と、言説は様々あるが、本質的には、
「「「「我思う、ゆえに我あり」を疑ったとしても、それを疑ったと我思う、となって、ゆえに我ありとなる。」さらに、それ(中括弧でくくった概念)をも疑ったとしても、それを疑ったと我思う、となって、ゆえに我ありとなる。」さらに…となって無限に続く、

要は、
A「我思う、ゆえに我あり」について、
「「「「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに我あり」と我思う…
B「疑っている我」について、
省5
2: 2018/02/04(日)11:29 ID:BnSXjHgEF(2/3) AAS
ここで、論破する。
「しかし、本当に無限に続くのだろうか?」
はい論破。
無限まで疑い続けた人がいるのだろうか。

もしかしたら、途中で、
A「我思う、ゆえに我あり」について、
…と我思う、ゆえに我あり」と俺様悪霊が思っているのである。」
B「疑っている我」について、
…を疑っている我」を疑っているのは俺様悪霊である。」
C「疑わしいという考え」について、
省7
3: 2018/02/04(日)11:29 ID:BnSXjHgEF(3/3) AAS
ここで、この反論として、「悪霊という、思う主体が存在することは確実である。」という意見があるかもしれない。
しかし、「悪霊とは、我のことである」とは確実に言えない。決めつけてしまうことはできるが、それはそれで疑わしい。

したがって、「悪霊思う、ゆえに…」となっても、本質的に、それ(悪霊)は他人が思っていることと同じであり、「他人(例えば、街を歩いている人とか、電車で寝ている人とか)が思っている(思考している)」かどうかについては、わからない(疑わしい)。
したがって、他人(悪霊)という、思う主体が存在しているかどうかについては、わからない(疑わしい)。
したがって、「思う主体が存在する」ことも疑わしい。

したがって、疑わしい。
無限という確認ができない時点で、疑わしいのである。
デカルトのそれは、絶対確実なことでもなく、真理でもないのである。
完全論破である。
4: 2018/02/04(日)20:21 ID:IJOh0XUUQ(1) AAS
何を論破したの?
屁理屈を論破しなきゃ意味無さそうだ!!
5
(1): 2018/02/09(金)18:25 ID:dNY318hNw(1) AAS
>>1
デカルトは「我思う故に我あり」が無限に続くから真理であるといったのではなく、
「自分が考えるということ」を「とりあえず疑えないよね」として確実な真理とし
たんじゃなかったの?
特に理由なんてあったっけ?
6
(1): 2018/02/10(土)00:32 ID:TmpIL30mu(1) AAS
>>5
それを疑うことができたのだが。
7: 2018/02/10(土)20:37 ID:NypVUPWkY(1) AAS
>>6
デカルトは「反論の答弁」のなかで、私が思うこと、考えることは推論ではなく「生得観念」による直観によって導かれたものだと言っている
実際友人のメルセンヌから「『故に』なんて書くと推論だと間違えられるぞ」と言われて、「省察」の中で「我思う、我あり」と訂正している
また、「哲学の原理」の中で、私が考え、そして存在することは自明の理であって、証明することではないと言っている
さらに、「生得観念」を与えたのは神であると考え、「生得観念」の正当性を示すために、神の存在証明まで行っている

以上で何が言いたいかというと、「自分が考えるということ」はデカルトにとって自明の理、つまり「疑いようもない事実」であって>>1の言うような無限に続く云々かんぬんは全くデカルトの思想と関係がないということ

まあでも、自分の意見を言わせていただくなら、「生得観念」のような宗教じみたものは論理ではないから(デカルト自身も論理ではないと言っている)「真実」そのものとして扱うのはおかしいと思う
「私が思うこと、存在することが真であると仮定する」とした方が良いと思う
8
(1): 2018/02/11(日)19:31 ID:SCoF+mJuA(1) AAS
>>1だが、ここで謝罪会見を行う。

【謝罪会見と】デカルト論破できず【俺の真理】

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」を決して疑うことができない絶対確実なこととして真理とした。
俺は、決して疑うことができない絶対確実なことなんてないと思っていた。そのため、デカルトのそれを論破しようとした。

俺「結論を前提とする論点先取の虚偽、すなわち論理違反である。」
デカルト「そもそも論理ではなく、直観によるものである。」
俺「なるほど。では、我とは何か。」
デカルト「我とは、考えるということそのものである。」
俺「なるほど。「「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…というように無限に続くが、無限ってそもそも疑わしい。」
デカルト「最初の「我思う」は全てを対象とした「我思う」であり、
省13
9
(1): 2018/02/12(月)00:12 ID:QNB1scsBp(1) AAS
>>1である。

私には自信がある。

私は、自分を信じている。なぜなら真理を発見しているからである。

真理とは、すべての本質であり、すべてに適用でき、すべてを認めるものである。申し訳ないが、ここでは真理の公表を控えさせていただく。

世の中には、正しい、正しくないといった概念が存在する。
しかし、真理を発見し、真理に基づいて生きている私が、すべて正しいかといったらそうではない。
省8
10: 2018/03/12(月)10:43 ID:bq0wenGbt(1) AAS
>>9

「真理」の意味自体が哲学では問題になるわけだね。
たとえばハイデガーは、思惟と対象との一致を真理とする「対応説」を批判して、
ギリシャ的真理(アレーテイア)の意味は「非隠蔽性」だとする。

まあそれとは別に、宗教的真理というのもあるだろう。
私が学んでいる仏教においては、「真如」が真理であるといえる。
でも仏教の場合は、あなたのように「なぜなら真理を発見しているからである」
と言って自信をもってしまった人は、ズブの凡夫である。
その理由はどういうことなのか・・・

申し訳ないが、ここではその理由の公表を控えさせていただくw
11: 2018/03/16(金)21:47 ID:VK5wxzc8M(1/2) AAS
くだらないこと言うけど、例えば自己嫌悪に陥ってるときに、自分の思考が一切合切憎らしくなって、でそう考えること
が憎らしくて、、、そんな感じか。
昔僕も、自分の存在の根本にある思考を探ろうとしたけど、それも永遠につ図いていって、とてももどかしい感じがした。
うん、確かに。表層的に考えたら、そう循環論法に陥るね。だったら、とりあえず関数f(t)を置いてみない??論破さ
れたされないの前にさ、とりあえず頑張ってみようよ。絶対なんてありえないんだから。僕も少し考えて、まとまったら
このスレに発表する。
12: 2018/03/16(金)21:48 ID:VK5wxzc8M(2/2) AAS
このスレすげえww
13: 2018/04/12(木)07:39 ID:x3eLrBJ34(1) AAS
結論。
「我」が存在することは絶対条件である。
我思ふとは常に新ではない。
より、その二社を同一価値とすることは、われ思うを、
他の価値体系より不当に高くしているということ。よって、
すべての価値体系の等価性より、偽。
14: 2018/04/22(日)03:25 ID:4ZmAi7SvF(1) AAS
デカルトが言ってるのは、私がいま思ったり考えたりできているということは、私の精神が存在しているということに他ならない。だって、もし私の精神がここに存在してなかったら、そもそも思ったり考えたりができないじゃないか!

という、きわめて素朴なことなんだよ。思ったり考えたりできる何かは、たしかに存在している。それを私たちは精神と呼んでいる。

だからここで、いんや、わしはどこまでも疑えるぞい、とかいう屁理屈を言ったら、それはデカルトの言ってることが理解できない証拠なんだね。

で、もしデカルトに現代人が反論したいなら、次のような方法が普通だろう。よく読んで自分の書いてることとの違いを理解してね。

とても高度な人工知能が開発されたとしよう。このAIに、君はいま考えているかね?と聞くとする。するとAIは次のように答える。
省3
15: Suffering from dirty strong supersonic attacks 2018/04/22(日)04:03 ID:Xt/UxLwB3(1) AAS
 
 I'm suffering from dirty strong supersonic attacks!! Supersonic terrorisms!!
 
 The supersonic attacker is also in Yamaguchi city.
 
16: 2018/04/29(日)18:07 ID:WXpAYmU98(1) AAS
外部リンク[html]:daturyokuss.seesaa.net
17: 2018/05/18(金)11:27 ID:XACSiaOE9(1) AAS
夢の中では、自分が夢を見ているとは思っていない。
だから、自分が何かを考えたり思ったり疑ったりしている今も、これが現実であることは証明できない。
しかし、それを疑っているということを観測している何か(我というものを観測している何か)は存在している。

だからその何かは人の精神の外側にいながら人の精神を観測できる唯一の存在 = 神なのではないか
という、「我あり」の「我」は人間ではなく神を指す、神の存在の証明であるというのが現在のデカルト論の主流ってどっかで見かけた。
たしか『「われ思う」のは誰か 』って本だったと思う。
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(1): 2018/08/01(水)00:19 ID:iUttXrQN1(1) AAS
自分という存在自体幻想に過ぎないことを誰も否定できない
デカルトはこの考えが欠けているな
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(1): 2018/08/12(日)15:38 ID:CvwJbmFx9(1) AAS
>>1である。

改めて、デカルト「我思う、ゆえに我あり」を完全論破したので、>>8を撤回し、次のとおり論破内容を記述する。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり。」は真理ではない。

まず、論点先取によって論理的(客観的)に真理ではないことを証明する。

論点先取については、「我思う」の中で「我」と言っている時点で、既に我があることになる、ということである。
すなわち、「我思う。」だけでこと足りるのである。
したがって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり。」は論破される。
省8
20: 2018/08/13(月)00:13 ID:HTyyaUCYl(1) AAS
デカルト完全論破あああああっ!!!
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