[過去ログ] ☆★☆★☆南京大虐殺を語ろう 21☆★☆★☆ (1003レス)
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959: 2015/02/06(金)21:58 ID:uvl9IFSv0.net(2/2) AAS
その名前久しぶりに聞いたわ
960: 2015/02/06(金)23:05 ID:RI7fYTh60.net(2/2) AAS
>>958
12月15日に南京を退去する外国人ジャーナリストに国民党政府顧問ベイツが渡したのがベイツレポート。
ベイツレポートを編集したのがティンパーリの『戦争とは何か』。
南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集第1巻』一〇五頁
一九三八年一月五日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の「祕密扱い」の報告書簡(出典:Record of US Embassy to Chinam Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。
「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。
本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館員に手渡したものである」
961(1): 2015/02/06(金)23:37 ID:vL542zgI0.net(3/3) AAS
外国に知れ渡った南京虐殺も当時の日本国民にはまったく知らされなかった。
言論統制のためだ。
1937年7月28日付陸軍省新聞班「新聞掲載事項許否判定要領」によると、
「我軍に不利なる記事、写真」「支那兵又は支那人逮捕尋問等の記事、写真中虐待の感を与うる虞あるもの」
「残虐なる写真」はすべて掲載不許可とされている。(『現代史資料41マスメディア統制2)』みすず書房、1975年)
962: 2015/02/07(土)10:54 ID:WObj2QDC0.net(1/3) AAS
>>961
本当に肯定派はタイムマシンが好きだなあw
検閲の法的根拠は【1941年】の、臨時郵便取締令(昭和16年勅令第891号)の制定から。
検閲には、2つあり、戦前の日本がやっていた検閲は事後検閲、
そして、日本占領中の米軍が行ったのは、事前検閲。
事後検閲とは、検閲に引っ掛かった文言や写真を伏字や黒塗りにする行為。
業界では下駄を履かせるという。
例:aは、財界の大物〓から〓〓円の政治資金の〓〓を受けた。
これが事後検閲で、明らかに当局の手が加わっているのが分かる。
少々事情に詳しければ、大体の文脈が分かる。
省6
963: 2015/02/07(土)11:27 ID:9Z8p3adQ0.net(1) AAS
虐殺と、そうでない殺しとを定義も出来ないであったのなかったの言ってる時点でアウト。
外部リンク:t0.gstatic.com
ISISは敵を虐殺することを少しも悪いと思っていない。
戦時に敵を殺していないというほうも、はたまたこんなに殺したから悪だというほうも、
どちらも売国奴。そうでなければいざというときには逃げ回る非国民。
964(1): 2015/02/07(土)13:01 ID:RxwuJyPT0.net(1/8) AAS
国民には知らせなかったが、政府や軍当局者は南京虐殺事件を知っていた。
事件当時、外務省東亜局長だった石射猪太郎は、当時の日記をもとにした回顧録『外交官の一生』(読売新聞社、1950年)に
つぎのように記している。
↓
南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って、南京に帰復した福井領事からの電信報告、
続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の報告である。
憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。
制止を試みたがために、福井領事の身辺が危ないとさえ報ぜられた。
昭和13年1月6日の日記にいう。
省4
965: 2015/02/07(土)13:32 ID:hd+onajh0.net(1) AAS
反日ダーディンさえ南京落城までの日本軍は虐殺も略奪もしなかったと証言しているのに
往生際の悪い極左さんって
>>964
NYTがそんな報道したからね
966: 2015/02/07(土)14:02 ID:RxwuJyPT0.net(2/8) AAS
石射は三省事務局長会議(陸海軍省の軍務局長と外務省東亜局長で構成)で
たびたび陸軍側に警告し、広田弘毅外相からも陸相に「軍紀の粛正を要望した」としている。
さらに『外交官の一生』では、つぎのように書き、この事件を「南京アトロシティーズ」と呼んだとしている。
↓
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。
私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。
暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、
悪事は直に千里を走って海外に大センセーションを引起した。
あらゆる非難が日本軍に向けられた。
省1
967: 2015/02/07(土)14:33 ID:IrP2TMIJ0.net(1) AAS
>検閲の法的根拠は【1941年】の、臨時郵便取締令(昭和16年勅令第891号)の制定から。
これは郵便物の検閲。
戦前の出版物は、書籍については「出版法」、新聞・雑誌は基本的に「新聞紙法」、この2つの法律によって
規制を受けてきた。
明治26年から昭和15年12月までは、内務省警保局図書課が検閲を担当している。
内務省警保局 編〔昭和3年〜昭和19年刊〕
出版警察報 全40巻・補巻1・付録1
「出版警察報」は、内務省警保局(当時)が、「検閲」によって「記事差し止め」「発禁」などの処分を行った
報告をまとめた、日本側の記録である。
968(2): 2015/02/07(土)18:40 ID:RxwuJyPT0.net(3/8) AAS
1937年12月13日に南京を占領した日本軍は、
その前後に生じた多数の中国兵の捕虜を集団的に殺した。
これはまぎれもない大虐殺である。
大虐殺と言う言葉は、英語ではmassacreで、多数の人間を無差別に組織的に殺すことを意味する。
そして南京での犠牲者のなかでもっとも多いのが捕虜の虐殺によって生じたものであり、
それが組織的におこなわれたことこそが問題なのである。
969: 2015/02/07(土)19:09 ID:mvqQxf6Y0.net(1/2) AAS
捕虜なのに無差別
970: 2015/02/07(土)19:34 ID:RxwuJyPT0.net(4/8) AAS
明治・大正期には捕虜を戦時法規にもとづいて待遇するための配慮もあった。
日露戦争におけるロシア人捕虜、第一次大戦におけるドイツ人捕虜が、
国内の収容所で好遇され、日本に好意をもつようになったという例が、数多くつたえられている。
しかし日中戦争はそうではなかった。
無抵抗の捕虜を片っぱしから殺したのである。
これは国際法違反どころか、国際法以前の人間としての倫理や道徳上の問題といってもよい。
971(2): 2015/02/07(土)19:50 ID:RxwuJyPT0.net(5/8) AAS
陸軍歩兵学校が、香月清校長の序を付してだした『対支那軍戦闘法ノ研究』(1933年1月)という
秘密扱いのパンフレットがある。
そのなかに「捕虜ノ処置」という項目があり、つぎのように書かれている。
↓
捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、
特別ノ場合ノ外之ヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。
支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ、
仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的に問題トナルコト無シ
ロシア兵やドイツ兵の場合とちがって、中国兵の場合は殺してもかまわない、
というこの研究には、あきらかに中国蔑視の思想があらわれている。
省2
972: 2015/02/07(土)20:15 ID:mvqQxf6Y0.net(2/2) AAS
特別ノ場合ノ外之ヲ現地又ハ他ノ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。
973: 2015/02/07(土)21:08 ID:DezHY2Ic0.net(1) AAS
>>968
今まで「組織的に行われた」と証明できた肯定派は存在しませんw
974: 2015/02/07(土)22:18 ID:WObj2QDC0.net(2/3) AAS
>>968
>それが組織的におこなわれたことこそが問題なのである。
つまり「組織的におこなわれたと証明できなければ大虐殺ではない」と。
肯定派は自分で勝手にハードルを上げて自爆する趣味でもあるのかw
975(1): 2015/02/07(土)23:21 ID:RxwuJyPT0.net(6/8) AAS
実際には戦争のはじめから捕虜の殺害がおこなわれていた。
南京にさきだつ上海の戦闘時から、捕虜を不法に殺害した例が資料にあらわれている。
たとえば、当初上海に出動した第三師団歩兵第34連隊の戦闘詳報によると、
大場鎮付近の戦闘における「鹵獲表」に、「俘虜准士官以下122」とし、
「俘虜の大部は師団に送致せるも、一部は戦場に於て処分せり」となっている
(歩兵第34連隊「自昭和12年10月16日至昭和12年10月27日大場鎮附近戦闘詳報」防衛研修所戦史部蔵)。
976: 2015/02/07(土)23:28 ID:RxwuJyPT0.net(7/8) AAS
第13師団歩兵第116連隊の劉家行西方地区の戦闘詳報によれば、
10月下旬の「鹵獲表」に、「俘虜准士官下士官兵29」として、
「俘虜は全部戦闘中なるを以て之を射殺せり」
(歩兵第116連隊「自昭和12年10月21日至昭和12年11月1日劉家行西方地区ニ於ケル戦闘詳報」)
としている。
捕虜をその場で殺害したことが、公式の報告に明記されているのである。
977: 2015/02/07(土)23:47 ID:WObj2QDC0.net(3/3) AAS
>>975
南京事件とは全く無関係な上海での出来事ですね。
肯定派の理論が時間と空間を超越するといういい見本ですw
大部>一部
つまり122人の大部分は師団に送致されたとw
978(1): 2015/02/07(土)23:54 ID:RxwuJyPT0.net(8/8) AAS
軍や師団が捕虜の殺害を命令・指示し、組織的に捕虜の殺害がおこなわれていたことは、
他の資料からもうかがわれる。
中島師団長が「大体捕虜ハセヌ方針」と当日の日記に書いていることは、
それが軍の方針であったことをうかがわせるものである。
そして師団長のしるしているところでは、第16師団が12月13日の1日だけで、
2万4、5千の捕虜を「片付けた」ことになるのである。
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