【ものぐさ精神分析】岸田秀 (55レス)
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1: 08/30(土)17:41 AAS
『ものぐさ精神分析』などで有名な日本の心理学者・精神分析学者・エッセイスト・翻訳家の岸田秀さんのスレ
36: 08/30(土)18:32 AAS
こういう場合も、崇拝者は被崇拝者に対する敵意を心のどこかに秘めているものであって、それが表に現れれば、
熱狂的なファンが憧れのスターに硫酸をひっかけたり、ピストルの弾をぶちこんだりする事件となる。
被崇拝者も本来ならば崇拝者に属するべきものを横取りした奴であることには変わりはないからである。
被崇拝者の崇拝すべき点が、崇拝者と関係のないものであれば、あるいは一般的に言えば、優者の優れている点が
劣者と関係のないものであれば、賛美するはずもないし、羨ましがるはずもないし、劣等感を抱くはずもない。
我々は自分が空を飛べないからといって、飛んでいる雀に劣等感はもたないし、桜の花が美しいからといって、
桜に劣等感はもたない(世の中にはいろいろな人がいるので、雀や桜に劣等感をもつ人もいるかもしれないが)。

劣等感は人間につきものみたいなものであるから、劣等感から決定的に解放される方法はないであろう。
もしただ一つ、その方法があるとすれば、自分より優れている人たちを自分とは関係のない別の世界の人たちと見なして、
あきらめることであろう。昔の庶民は貴族に対して別に劣等感はもっていなかったであろう。

ところが、現代は平等主義の時代で、タテマエとしてはすべての人が平等に何にでもなれることになっているから、
現代人は昔の人より劣等感に苦しんでいるのであろう。別に平等主義がいけないとは言わないが、
人々の劣等感を大いに刺激し、増大させたことはまちがいない。
また、大人と青年を比べてみると、青年は将来に希望をもち、いろいろな者になれる可能性を
まだあきらめていないことが多いであろうから、大人よりも青年のほうが劣等感が一般に強いであろう。
37: 08/30(土)18:33 AAS
しかし、すべてにあきらめてしまって劣等感をもたなくなったら人間はやることがなくなるのではなかろうか。
嫉妬は人間の最も強い感情であり、劣等感補償は人間行動の最大の動機である。人が言ったりしたりしていることの大半は、
難しい複雑なことを考えなくても、嫉妬と劣等感補償が動機ではないかという仮説を立てれば明快に説明がつく。

幼い時に話し方に障害があったが後に雄弁家になったとか、子供の時に小児麻痺で歩けなくて後にマラソン選手になったとかの話が劣等感く。
補償の例によく出されるが、別に雄弁家やマラソン選手になることが価値のあることかどうかはわからないけれども、
少なくとも、当人にとっては人生においてやることがあったと言えるだろう。人間行動のこの最大の動機は、
人生の退屈さを紛らわす効用が大いにあると言えよう。
38: 08/30(土)18:34 AAS
岸田秀の史的唯幻論
www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1210112.htm
一、史的唯幻論
ニ、ペリー来航と真珠湾
三、戦争犯罪と謝罪
四、ソ連邦の崩壊
七、コメ問題
八、資本主義はなぜ世界を制覇したか
九、続・資本主義はなぜ世界を制覇したか
十、続々・資本主義はなぜ世界を制覇したか
十一、近代国家の成立
十二、近代国家の罪過
十二、近代国家の妄想
十四、フランスの狂気
十五、続・フランスの狂気
一つ嘘をつけばその嘘がバレないようにするために嘘に嘘を重ねなければならなく
なるのは、自分に対する嘘、すなわち自己欺瞞の場合も同じである。
フランスは、それ以後その中華思想、大国意識のために身を誤り続けることになる。
つまり、国力の正しい評価ができず国力以上のことを企てて失敗したり、大国の誇りを
傷つけられるようなことが起こると、それを認めまいとしてかえって
傷を大きくするといったことを繰り返す。
十六、植民地解放
要するに、植民地は植民勢力の正義の幻想と力の幻想との二つの幻想に支えられているの
だから、この二つの幻想が崩れさえすれば植民地はたちまち消滅する。
十七、侵略者か解放者か
精神分析においては、ある主観が自己欺瞞かどうかを判定するには、行動とその行動が
もたらした現実の結果を見ればよいわけで、主観と現実の結果とが矛盾していれば
自已欺瞞だと判定して間違いないのであるが、
十八、日本人はなぜ不機嫌か 外的自己と内的自己の相剋の中で
>皆さんも、本屋に行って、岸田秀「20世紀を精神分析する」文芸春秋を買ってください。
>お願いします。
39: 08/30(土)18:35 AAS
岸田秀『日本がアメリカを赦す日』
www.sam.hi-ho.ne.jp/quimito/kisida2.html
ペリー来航から日本人の内的自己と外的自己の分裂が始まった。
これが従来の主張だった。『起源論』で、このような分裂は日本建国のころから
すでにあったと修正した。

岸田秀の史的唯幻論 ★★★
www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1210112.htm
20世紀を精神分析する 二十世紀を精神分析

狂気とは現実からの離脱であり、個人も民族も国家も都合の悪い現実から眼を起らせば、
眼を逸らした程度に正確に比例して狂うことになる。

ぽこえ帳_ 岸田秀の日本論:内的自己と外的自己
pocohechodesanmiguel.blogspot.com/2016/08/blog-post.html
「日本近代を精神分析する」の趣旨を言い直してみると、
日本という国は「長年の鎖国によって数百年に渡って平和に自閉してきたところを、ペリーによって
強姦されたことで精神分裂状態に陥った」のだそうです。
このとき日本人は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」
と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂しました。
幕末における「開国派」と「攘夷派」の対立構造はそのままこの外的自己と内的自己の関係に符合しています。
40: 08/30(土)18:37 AAS
42歳でしゃべられるようになった伊丹十三(2) 愛・正義・平和
seturi597.blog.えふc2.com/blog-entry-53.html

一神教vs多神教 岸田秀 (1_3) Terakaz.com
terakaz.com/2013/09/monotheism-polytheis/
宗教 Terakaz.com
terakaz.com/tag/%E5%AE%97%E6%95%99/

岡田斗司夫 世紀末・対談 マジメな話 岡田斗司夫 Free Download, Borrow, and Streaming Internet Archive
archive.org/details/1998_20190904_201909/page/n222/mode/1up
岸田秀

岸田秀・柳澤健『日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論』亜紀書房 2016年12月刊
mixi.jぴー/view_diary.pl?id=1958484233&owner_id=17423779

岸田秀 屈辱的現実から眼を逸らすな!
gekkan-nippon.com/?p=6876
明治維新

「日本がアメリカを赦す日」岸田秀 ★
hiroki-hayashi.hateなblog.com/entry/2019/04/02/222122

岸田秀先生からの回答
www.ccv.ne.jp/home/kyosaiji/page030.html

(10) 『日本近代を精神分析する』 (岸田秀を読む)
omoinoha.exblog.jp/23161930/
内的自己 外的自己

[書評]「精神分裂症を患っている危険な日本」 文化 hankyoreh japan
japan.hani.co.kあーる/arti/culture/27065.html
41: 08/30(土)18:38 AAS
(再録)岸田 秀+八木誠一「自我の行方」(春秋社・1500円+税)
ameblo.jp/old-ball-boy3412/entry-12873884227.html
岸田 秀+八木誠一「自我の行方」 ◉自我というものは……ものすごくたけだけしいんですよね。
あんまり人のことを言えた義理じゃないんですが。イヤンなっちゃうくらい強いんですね。
◉対談の結論は、イヤンなっちゃう、ということですか(笑)僕だって、人のことを言えた義理じゃなくて、
自我は幻想だとか相対的だとか、エゴイズムの愚かさなんて口幅ったいことを言っていますが、
自分が正当な権利と思っているものを侵害されたり、侮辱されて自尊心を傷つけられたりすると、
平静ではいられませんからね。……本当に「自我は諸悪の根源なり」ということなんですが、
それが、やめられないという人間の悲劇があるんですね。
◉ええ、全く。このままではほんとうに人類、滅びちゃいますよ。
◉……大昔の大型爬虫類がなぜ滅んだかはよくしりませんが、人類が滅びるとすれば、自我への固執、
神への固執、国家への固執のために滅びるのでしょうね。

【レビュー】ものぐさ精神分析
ameblo.jp/essential-insight/entry-12858172180.html
42: 08/30(土)18:39 AAS
「日本がアメリカを赦す日」岸田秀 - 手探り、手作り
hiroki-hayashi.hateなblog.com/entry/2019/04/02/222122
第三章「ストックホルム症候群」
現実を見ないとどうなるかというのは、非常に単純なことですよ。何度も繰り返しますが、日本軍の作戦なんて、
現実を見ていなかったから失敗したわけです。都合の悪い現実を無視して作戦を立てるから、
どれほど必勝の信念をもとうが、死を恐れぬ勇気をもとうが、身を犠牲にして戦おうが、不可避的に負けます。
現実を見るか見ないか、その差が現実の結果を決定します。

国家にしろ個人にしろ、同じことです。神経症も、幼いときの親子関係とか、自分に関する苦痛な都合の悪い現実を
見ないから起こるのです。これまで見ていなかった現実を見さえすれば、神経症は基本的に治ります。
非常に単純なことですよ。

その場合、神経症が治ったからといって、天にも昇るような素晴らしい気分で人生が送れるようになるわけではありません。
いやな現実を見るわけだから、前より不幸になるかもしれません。
しかし、生きるということは、現実を見て現実に生きることだと思います。現実を見るというのは単純なことです。
しかし、それができなければ、国も個人も、長い目では必ず失敗します。
43: 08/30(土)18:40 AAS
第四章「嘘のプライド」
日本だって、わが国は万世一系の天皇がしろしめす神の国であるとか、大和民族は同じ血で
つながっている純粋な民族であるとか、日本兵は忠勇無双で死を恐れないとか、いざとなれば、
元寇のときのように、神が助けてくれるとかの非現実的なことにプライドをおくのではなく、
現実の日本の歴史に、現実の日本のいろいろな面に誇るべきところはたくさんあるのだから、
そこにプライドをおくべきだと思います。そうなれば、いたずらに誇大妄想と卑屈のあいだで揺れ動くのではなく、
現実の日本をより誇らしいものにしようという気にもなるというものです。
それが現実的なプライドのもち方だと思います。

個人の場合でも、何か特別な価値のある人間でなければ生きるに値しないなんて考える考え方は、とんでもない間違いでしょう。
特異な天才で非常な才能に恵まれているとか、希代の英雄であるとか、
あるいは家柄がいいとかでなければ、どうして生きる価値がないのでしょうか。
何ら特別のことはない普通の人間には、どうして生きる価値がないのでしょうか。
そういう考え方は、幼児的ナルチシズムを引きずっている人に見られる考え方です。
ナルチシズムの基準から外れると、何の価値もないのです。
ありもしない理想の女という固定的なイメージに執着し、理想の女でないと自分には値しないと思い込んでいる男が、
現実にぶつかればたちまち崩れるしかない空想的な片想いしかできず、
一生、現実の女とはかかわりをもてないのと同じように、非現実的なことにプライドを求める個人も国家も、
現実には不適応になるしかありません。
普通の人が普通である自分の存在に価値を見出し、そこにプライドをおけばいいんですよ。
自分の存在価値を証明するために何か特別のことをする必要なんてないんですよ。
44: 08/30(土)18:41 AAS
岸田秀『嫉妬の時代』bot @kishidashit
嫉妬とはわれわれがやりたいけれどやれなくてがまんしていることをやった人に対する、尊敬の入り混じった憎悪の感情です。
x.com/kishidashit/status/1641376997623623681

警察権力がなぜ戸塚(戸塚ヨットスクール・戸塚宏)にそれほど嫉妬したかというと、
戦後民主主義、刑法、刑事訴訟法の改正などによって手足を縛られている権力が
潜在的にいちばんやりたがっていることを、戸塚がやったからだと思います。
x.com/kishidashit/status/1641278929511284737

昔の人は、有名人にわれわれほど嫉妬しなかったと思います。
中世の農民が貴族の贅沢な暮らしを嫉妬していたとは思えません。
あまりにも隔絶していて、比較の対象にも何もならなかったでしょうから。
x.com/kishidashit/status/1641203446031466496

能力はみんな平等ということになっているので、凡人が本来ならもたなくていい挫折感を持ち、天才に嫉妬するんです。
天才に嫉妬した凡人には、嫉妬の地獄からの出口はありません。
平等主義が、人びとの嫉妬心を猛り狂わせたというのは事実です。
x.com/kishidashit/status/1641180698001420289

一方では憎まなければならないし、他方では憎んでいることを否認しなければなりません。
嫉妬者はにっちもさっちもゆかない袋小路にはまり込みます。だから、嫉妬者の憎しみは「ウジウジ」するのです。
尊敬する人を憎んでいるため、嫉妬者は相手に怯えています。相手を畏怖しています。
x.com/kishidashit/status/1641173213135642627
45: 08/30(土)18:43 AAS
恋愛、尊敬、崇拝というポジティブな感情と、嫉妬というネガティブな感情とは一見、正反対のようですが、根は同じです。
根は同じで、その先がちょっと違っているだけです。簡単に言えば、嫉妬とは裏切られた恋、裏切られた尊敬、崇拝です。
x.com/kishidashit/status/1641029707973136385

嫉妬していることは、相手に対する自分の劣等性の動かぬ証拠です。
心のどこかで相手が勝利者であること、彼のほうが自分より優れていることを知っているからこそ、嫉妬しているのですから。
x.com/kishidashit/status/1641075010440949760

有名人がやっているようなことは、自分にだってできると思えるのです。しかし、実際にはできません。
全能感のため、がまんというものを知らなくなっているわれわれは、耐えがたくイライラします。
x.com/kishidashit/status/1640984414669914112

有名で、われわれよりはるかに収入も多い芸能人が、好き勝手なことをしていい思いをしているのが気になって仕方がないんです。
「あいつらはどんなひどい目にあったっていいんだ。悪いことをしているんだから。天罰だ」と思っているんです。
x.com/kishidashit/status/1640848510626205696

現代ではわれわれみんながはしゃぎたがっていますから、はしゃいで目立って有名になった人は、
人気の的になると同時に人びとの嫉妬を買います。いくらはしゃいでも有名になれない人が大部分ですから、
はしゃいで有名になった人や、有名になってはしゃぐ人をわれわれは羨ましくてたまらないわけです。
x.com/kishidashit/status/1640841067032612865

嫉妬の相手を引きずりおろすか、欲望の対象を引きずりおろすかして嫉妬の苦しみから逃れようとするわけですが、
尊敬を感じざるを得ない相手も、熱烈に欲しい欲望の対象も、当人の人格構造から必然的に出てきているので、
外側の事態をどうかしようとしたってダメなわけです。
x.com/kishidashit/status/1640833406765518848

嫉妬における憎しみには、相手に対するひそかな尊敬の感情が必ず伴っています。
嫉妬者は相手を憎むと同時に尊敬しています。尊敬せざるを得ないからこそ、なおさら憎むのです。
x.com/kishidashit/status/1640773013451984896
46: 08/30(土)18:44 AAS
岸田秀の史的唯幻論
www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1210112.htm
「20世紀を精神分析する」文芸春秋

十四、フランスの狂気
 すでに述べたように、個人の場合も集団の場合も、そのようなことは起こらなかったと思いたい苦痛な、
不安なあるいは屈辱的な事件が避けがたくときには起こる。そのとき、誰しもそのような事件の経験を否認し、
その記憶を抑圧し、その意味を歪曲しがちである。そうすれば、一時の気休めにはなるが、
その結果必然的に狂気に陥る。狂気とは現実からの離脱であり、個人も民族も国家も都合の
悪い現実から眼を起らせば、眼を逸らした程度に正確に比例して狂うことになる。

 どのような個人も集団も都合の悪い現実から多かれ少なかれ眼を逸らしており、
したがって多かれ少なかれ狂っているが、フランスという国家に関して言えば、
近代においてこの国が狂いはじめ、いまだに狂いつづけている端緒となった事件はフランス革命である。
大革命は誇大妄想に駆られたあげくの一大愚行であった。一七八九年のバスティユ襲撃から
一八一四年の王政復古までの二十五年間に、外国人の被害は別としてフランス人だけで
二百万人が死んで(殺されて)おり、経済的、社会的、文化的損害は測り知れない。
それだけ大きな犠牲を払って実質的に得たものはほとんど何もない。
得たのは「自由、平等、兄弟愛」というむなしいスローガンだけであった。
ここで都合の悪い現実の隠蔽と正当化のメカニズムが働く。
フランス国民はこの大きな犠牲がムダだったと思いたくなかった。愚行を犯したとは思いたくなかった。
そこで実質的成果の伴わない「自由、平等、兄弟愛」のスローガンが普遍的、
絶対的価値のある高慢な理想にまで高められ、この理想を実現するためだったとして、
すべての犠牲と愚行が正当化された。フランス国民は人類普遍の理想を最初に掲げ、
その実現へと邁進した栄光ある国民だということになった。
47: 08/30(土)18:45 AAS
 それ以降、フランス国民は空虚な理想の追求と、その理想に反した現実とのあいだに引き裂かれ、
行きつ戻りつを繰り返している。実際、「自由」は混乱と無秩序とテロルをもたらしただけであった。
フランスは現在なおがっちりした階級社会であって、「平等」が実現されたことはもちろん、
真に追求されたことも一度もない。
フランス人は自分のことを自由を愛する個人主義者だと思っていることが多いが、
現実のフランス人はその逆とは言わないまでもその点で他の国民より際立っているわけではない。
つまり、現実のフランス人は「自由」にも「平等」にもあまり関係がないが、断乎としてそのことを認めない。
それを認めれば、大革命が大いなるムダ、愚行であったこと、フランス国民が栄光ある国民
ではないことを認めなければならなくなるからである。

 革命以後のフランスの歴史はこの都合の悪い現実を見まいとするが見ざるを得ず、
またふたたび見まいとし、またふたたび現実に引き戻されるという葛藤を繰り返している歴史である。
ルイ十六世を殺しておいてナポレオンという独裁者を引き込んだというのが典型的だが、
第一共和制から第一帝制、王政復古、七月王政、第二共和制、第二帝制、第三共和制、ヴィシー政権、
第四共和制、第五共和制(実体はドゴール独裁制)へとめまぐるしく逆転するフランスの政体は
この葛藤の症状であろう。
48: 08/30(土)18:46 AAS
一神教vs多神教 岸田秀 (3_3) Terakaz.com
terakaz.com/2013/10/monotheism-polytheism3/
●ぼくは人間は本能がこわれた動物だと言っていますね。
本能とは現実への適応行動を指示する指針のようなものですから、
本能が壊れたということは、本能と現実の間にズレが生じたということです。
本能の満足と現実への適応とは、人間以外の動物では一致しており、
動物においては、本能を満足させれば、それがそのまま現実へ適応することになるのですが、
人間においては、不幸なことに、この二つのことがズレてしまったのです。
すなわち、人間は、本能を満足させれば、現実不適応になり、
現実適応を求めれば、本能は不満足に陥るのです。

ぼくは、本能の求める自己を「幻想我」と呼んでいます。
壊れた本能は現実から離れて幻想の世界に迷い込んでいるから「幻想我」です。
生き甲斐、価値観、誇り、自尊心、アイデンティティ、己惚れ、誇大妄想などは「幻想我」に由来します。
そして、現実適応を求める自己は「現実我」です。
このような本能と現実とのズレに何とか対処するために自我が形成されたと考えられます。
自我の役割は、絶対矛盾するこの「幻想我」と「現実我」との対立を何とか調整することです。

●自我というものをつくってしまって、それは厄介なものだから、なくせないまでも、
せめてその厄介さをなんとか減らそうと思って、
みんないろいろと考えるわけですね。ぼくは自我が幻想であることを知れば、
問題解決の糸口が見えてくるのではないかと思ってるんですがね。
しかし、やはり、幻想だとしても、ばらばらで切り離されていると感じられるところが
自我の最大の厄介なところで、それを何とかしようというのが宗教の働きなのでしょう。
49: 08/30(土)18:47 AAS
LIXIL|企業情報|文化活動|お知らせ&トピックス|LIXIL ブックギャラリー お勧めの本 17 「日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論」
livingculture.lixil.com/archives/culture/information/060_book/003939.html
岸田秀氏は、「人間は本能が壊れた動物であり、幻想や物語にしたがって行動する」と主張し、
『ものぐさ精神分析』がベストセラーとなった心理学者、精神分析家である。人間には怒り悲しみ喜びという感情、
劣等感やプライド、トラウマがあり、それらに駆り立てられ、私たちは行動する。一つの国とてそれは同様なのである。
本書ではこの観点から、建国以来の日本という国と、日本と関わってきた国々の歴史(思惑と行動原理)が分析されている。
そして「なぜ今日本がこうなのか」溜飲の下がる答を示してくれる。

「『なんだ、みんなメチャクチャに生きてきたんだ。だったら私もメチャクチャに生きよう』と読者に思っていただければ、
本書の目的は果たされたことになる。」本書の聞き手、ノンフィクションライターの柳澤健氏の言葉以上に、
私たちに送られる励ましのエールはないように思う。

日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論/岸田秀著・柳澤健(聞き手)/312ページ/亜紀書房/\1,800+税
50: 08/30(土)18:48 AAS
『続 ものぐさ精神分析〔改版〕 (中公文庫)』のレビュー 岸田秀 (y-o-yさん) - ブクログ
booklog.jp/users/y-o-y/archives/1/4122025192
自我を手に入れた人間は動物が本来あるべきである自然から乖離した状態になった。
「自己」という人間の根幹にあること自体「幻想」であり、人間の抱く価値観や気持ち、自己の永続性、欲望、
劣等感などの考えや感情などは「すべては幻想である」という独自の前提で一貫して書かれている。
親子関係、アメリカ、タテマエとホンネ、しつけ、文明、恋愛や性に至るまで、人間の様々な側面を明晰に解釈している。
どの話も、読んでいて「なるほど!」と納得してしまうから面白い。
51: 08/30(土)18:49 AAS
時間と空間の起源――岸田秀「ものぐさ精神分析」(1977)覚書 - 桜心理カウンセリング恵比寿:東京の精神分析的心理療法
sakura-ebisu.com/2020/07/%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%A8%E7%A9%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%B
A%90%E3%83%BC%E3%83%BC%E5%B2%B8%E7%94%B0%E7%A7%80%E3%80%8C%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%90%E3%81%9
5%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90/
岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」収録の「時間と空間の起源」についての覚書

無意識の世界に時間は不要
フロイトは無意識は否定を知らず,すべては肯定されるため,その世界に時間は不要である,
そして,意識においてはじめて時間が現れる,とした。この考え方を敷行したN.O.ブラウンは,
人間が時間と歴史をもつようになったのは,抑圧する動物だからであるとした。

悔恨が過去と時間を創出
人間の欲望は幻想と結びついているために限りがない。しかし,人間は欲望を抑圧できる。
そして,欲望を抑圧した際には「もしかしたら欲望を満たすことができていたのでは?」と悔恨が生まれる。
その欲望を抑圧した時点,欲望を満たすことができたかもしれない時点を「過去」とした。
その過去と現在の間に「時間」が構成された。つまり,悔恨が時間を産む。

時間の分割
あらゆる欲望がすぐさま満たされれば,過去と現在は区別できず,人は現在に埋没する。
しかし,満たされなかった欲望を媒介として,過去は,現在に割り込んでくる。
それを阻み,過去は過去であることを認識するために,人は時間を年,月,日,時,分と分割した。

修正される過去としての未来
また,過去をやり直すチャンスが得られるかもしれない時点として,未来を設定した。
つまり,未来とは修正される過去である。
死を恐れるのは,過去を修正するチャンスである未来が限定されるからである。
52: 08/30(土)18:50 AAS
岸田 秀 『続 ものぐさ精神分析』(中公文庫)2_2 - 週に一冊
oshimayukinori.はtenablog.com/entry/20160922/1474546440
三島由紀夫論

岸田 秀 カテゴリーの記事一覧 - 週に一冊
oshimayukinori.はtenablog.com/archive/category/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E3%80%80%E7%A7%80
53: 08/30(土)18:51 AAS
岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)8_8 - 週に一冊
oshimayukinori.はtenablog.com/entry/20150601/1433120440
<ナルチシズム論>
子供時代の全能感を、
私たちはみんな、いつまでも保持していたい

しかし、人間の幼児は、遅かれ早かれ、不本意ながらも現実を発見することになる。
人間にとって、現実とは、まずはじめ、おのれの全知全能性を傷つける憎むべきもの、
否認したいものとして現れる。
幻想我とくらべて、現実我はなんと無力でみじめで、限られた存在であろうか。
だが、現実は否認しようもない。
 人間誰しも本音を言えば、幻想我こそ保存したいのであり、現実我の保存は厄介で面倒な、
気が進まないがやむを得ない仕事なのである。幻想我への執着を思い切ることは彼にとって不可能である。
したがって、幻想我と現実我の対立を最終的に解決するには、むしろ現実我を消滅させる方が容易である。
つねに幻想我の邪魔をし、その足を引っぱり、いちいちうるさい条件を付ける現実我を消してしまえば、
高揚した全能感と無限の至福につながる幻想の自画像を永久に保存することができる。
 現実我を消し去るとは、つまり自殺することである。自殺にはさまざまな動機がからんでいようが、
わたしの見るところではこの動機がいちばん強い。
動物が自殺しないのは幻想我と現実我の分裂がないからである。
とくに鬱病患者の自殺は、この動機に発するものであって、抑鬱感情とは、
無限の高みにのぼった幻想我の観点からみじめな現実我を見たときの感情であると思う。
三島由紀夫は、派手な仕方で現実我を滅ぼして、幻想我としてのその名の不滅化を図ったのであろう。
虜囚の辱めを避けて死を選ぶのも、同じ動機からであろう。
54: 08/30(土)18:52 AAS
岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)6_8 - 週に一冊
oshimayukinori.はtenablog.com/entry/20150525/1432520034
<時間と空間の起源>

p220−4
 人間は本質的に(過ぎ去ってしまった時間にとらわれる)アナクロニズムの存在である。
人間はいわゆる固着や退行を起こしうる存在、つまり神経症になりうる存在と言い換えても、
その意味するところは同じである。
過去が過去として充足し、現在が現在として充足しているならば、時間は不必要である。
そうでないがゆえにわれわれは、犯行現場に必ず立ち戻ると言われている犯人のように、
多かれ少なかれ過去に釘付けになっていて、つねに過去をもう一度やり直したがっており、
そして、過去を過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、
過去から現在へと流れる線の延長上に未来という時点を設定したのである。

未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去にすぎない。
未来とは修正されるであろう過去である。
過去において満足されなかった欲望は数かぎりなく、悔恨の種は尽きないから、
未来は無限でなければならない。
未来が限定されること、すなわち死をわれわれが恐れるのは、
過去を修正するチャンスが限定されるからである。
死刑や死病を宣告された者の絶望とは、悔恨に満ちた過去をついにこのままに
とどめざるをえなくなった者の絶望である。
この意味において、死の恐怖を知るのは人間のみである。
 欲望の不満がないなら、時間はないということは、われわれの日常的経験に照らしても明らかである。
われわれは、やりたいことをやって夢中で過ごした時間は短く感じる。
欲望の満足を遮られて我慢しなければならなかった時間は長く感じる
55: 08/30(土)19:20 AAS
ナルチシズム論――岸田秀「ものぐさ精神分析」(1977)覚書 - 桜心理カウンセリング恵比寿:東京の精神分析的心理療法
sakura-ebisu.com/2020/07/monogusa/
葛藤の究極の解決方法として,自殺によって現実我を消滅させてしまうことが挙げられている。
死んでしまえば葛藤はなくなるが,それで幻想我を生きられるわけではない。
結局,幻想我を「生き続ける」ことは到底無理な話なのだろう。
しかし,彼が「私たちが非現実的なものに関心をもつのは,
そもそも生まれて初めて知った世界が幻想我の世界だからである」と言うように,
一度体験してしまったからには,私たちはその世界への憧憬を捨て去ることもできない。

結果,私たちは「両者の分裂」の中に身を置くしか術はなく,彼の言う通り,
「一時的解決法でごまかしながら,四苦八苦して」,
私たちは,せいぜい,飲酒や恋愛,芸術といったところで,一時的に,疑似体験として幻想我を生きながら,
現実我を生き抜くしかない。
しかしそう思うと,現在,コロナ禍でその体験を制限されている飲酒や芸術に触れる機会が激減していることは,心の健康に大きくマイナスだろう。
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