【山口富士夫】 村八分〜その12〜 【チャー坊】 (978レス)
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1(3): 2014/09/21(日)08:41 AAS
日曜日の朝早く
御所の中で
夢うつつ
前スレ
2chスレ:legend
959: 08/18(月)20:21 AAS
koba-yang(Lucky Lips)&えどわあど平野「水たまり」村八分
https://www.youtube.com/watch?v=SDs2tdbJc3M
koba-yang主催「ロックの日」atわからん屋 2008.4.25(チャー坊の命日)
960: 08/23(土)19:26 AAS
>>942
朗報! 恒田義見さんのブログはこっちに移植されてました
「ROCK'N ROLL MY WAY」
Rock’nRoll My Way ? 村八分2 https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917469835.html
他は
Rock’n Roll My Way ? 村八分1 https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917470776.html
チャー坊とドンゴロス https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917783882.html
俺達は、....ドラマー達は元気にしているよ https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917681979.html
追憶のハイウエイ61 https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917689816.html
山口富士夫と夏 https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12920246614.html
961: 08/23(土)19:27 AAS
>>948 で山内テツが登場したので >>927 にちょっと追加。
ここは内田裕也と成毛滋でとにかく日本人のリズム感のなさを嘆いているくだりで、そこに山内テツと冨士夫の名前が出てくるのです。
『音楽をどう生きるか : 内田裕也対談集』1974
成毛 〜略〜 テツがね、日本人と思えないほどリズムがいいのは、あいつはこっちに来るまでベースを全然知らなかったんだね。とにかくサムライでロンドンに呼ばれて、こっちに来てから生まれて初めてベースを使って、ロンドンのベーシストたちをみて覚えたわけだよね。だから、日本みたいにさ、ギターが下手だからベースにまわされたとかさ、ベンチャーズをお手本にしてやり出したとかさ、そういうのと全然違うんだよね。だから、先天的なものと環境と両方あるでしょ。テツは、おばあさんだか、ひいおばあさんだかがアメリカ人だって言ってたけどさ、外人の血が入ってるってことも彼の場合あるわけよね。あとフジオちゃん(山口富士夫)にしても、おれが逆立ちしたって絶対にかなわないもんね。外人の血が入ってるっていうのと、純粋の日本人とじゃ、これはもうどうしようもないギャップだね、少なくともわれわれの世代においてはね。
(1973年7月16日、ロンドンでの対談)
962: 08/23(土)19:27 AAS
『音楽をどう生きるか : 内田裕也対談集』には山内テツとの対談も載っている
(1973年7月9日、ロンドンでの対談)
内田 どうして日本では、イギリスみたいにどんどんグループが出て来ないのかね。
山内 ウーン……。これまではね、まだ、いろんなレコード聞いてコピーする段階だったんだよね。それからだんだんオリジナルがふえてきたわけだけど、オリジナルを英語で作る人が多いじゃない。サムライもそうだったけどね。そうすると、日本のお客にはわかんないわけよ。だから日本でやるばあい、日本語で歌うべきだと思うね。
内田 あ、そう……。
山内 だってさ、こっちの連中はさ、英語が自分の国の言葉だから、歌うにしても心がこもってるし、自然なわけ。だから日本人が聞いても、言葉がわかんなくても通じると思うんだ。
内田 フィーリングはね。
山内 フィーリングは……。自分たちがふだんしゃべってる言葉で歌ってるんだからね。
内田 ただまぁ、グループの性格にもよると思うんだけど、日本だけでヒットして喜んじゃうよりか、ロックをやってる連中だったらテツみたいに外に出て行きたいという気持ち、みんなもってるわけよ。おれは国内だけで成功すりゃいいんだというのと、外国で一旗あげたいというのと、ふた通りあると思うんだよ。
山内 おれはむかしから出たかったんだ。サムライから入ってくれないかという話があったときも、外国に行けるというので、何も考えないでとびついたもんね。なにしろ外に出て試してみたかったから……。それまでベースなんて弾いたこともなかったのに、サムライのベースを弾くということになって、ヨーロッパに来てからベースを始めたじゃない。だから乗りも違うわけよ。日本でやってたら日本ふうの乗りになったかもしれないけどね。
963: 08/23(土)19:28 AAS
チャー坊はもうすでに日本語でやってる!
チャー坊はなんでも早いんだ!
チャー坊すごい! 村八分すごい!
(はっぴいえんどとか知らない)
意外なのはさ..「はっぴいえんど」意外だろ、チャー坊がだぜ、
「こいつだけはきまっとるな...」なんて言って、
細野晴臣の写真指差して誉めていたよ。
Rock’n Roll My Way ? 村八分1 https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917470776.html
(はっぴいえんども知らないといけないな)
964: 08/23(土)19:28 AAS
恒田さんの高校生の時の話
最後のコンサートは東さんと言う天井桟敷関係の人の紹介で
渋谷の小屋で演奏した..
で、その時幸広が「先輩の細野さんが新しいバンド作るから
メンバーを捜しているみたいだから..恒田さんの事話ときましたんで、
当日行くかもしれませんけど.よろしく」と、..
そしてその日確かに細野さんが俺達のバンドを見に来た..
じっと腕組みして見ていたから、俺もはっきりと解ったんだけど..
その後「はっぴいえんどに..」のお声が掛からなかったから..
多分はっぴいえんど向きのDRUMじゃなかったんでしょうな..(笑)。
Rock’n Roll My Way ? https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917496848.html
965: 08/23(土)19:28 AAS
>>939
ルイズルイス加部とのつながりはリゾートだけではなかった
リゾートの前
冨士夫との付き合いは京都時代もあった。ママリンゴで演奏していた時も店の真ん前の地下にライブハウスがあって、冨士夫はそこで演奏していたから、夜中まで演奏して終わった後に家に遊びに行ったりとかしたな。
気ままに生きる ルイズルイス加部/著 https://www.berrys-cafe.jp/book/n730755/78
(「この物語は自分の体験をもとに綴ったフィクションです。」となってます、一応。)
「ライブハウス」ってガロですよね?
「ママリンゴ」の場所 ↓
四条河原町にある”ママリンゴ”というサパークラブ。行ったときはオープンの1週間ぐらい前だった。河原町通りから東へ入ったあたりにある。
柳ジョージ『ランナウェイ : 敗者復活戦』集英社, 1983, 187ページ
https://dl.ndl.go.jp/pid/12438611
上記の本によると、柳ジョージ(1948/1/30生)が25歳になったあたりにデイブ平尾から電話をもらっているから、
おそらく1973年前半のうちの数か月間の話かな
恒田さんのママリンゴの思い出
ママリンゴと時さん https://ameblo.jp/timeistight1969/entry-12917787902.html
966: 08/23(土)19:29 AAS
リゾートの直後にも一緒にライブやってる?
山口冨士夫の名前一切ないけど、冨士夫のライブってことでいいのかな?
「あしあと?(以下略)」さんのブログ
山口冨士夫と情報誌「シティロード」? 1976年と1977年の「ぴあ」など
http://soleluna.seesaa.net/article/459321507.html
☆「ぴあ」1977年10月号
・1977年10月22日 下北沢ロフト「ダイナマイトセッション」 ゲスト:ルイズルイス加部
1977年10月-下北沢ロフト – ロフトアーカイブス
https://www.loft-prj.co.jp/loftarchives/shimokitazawa/1977/10/
22 Sat
ダイナマイト・セッション(b.入江寛/Dr.四ツ田ヨシヒロ/g.ジュン) <ゲ>ルイズルイス加部
967: 08/23(土)19:29 AAS
あとこれ!
1979年再結成時の村八分のベース、ルイズルイス加部の可能性もあったってことですよね!
でもリゾートは8ヶ月くらいやって新宿のロフトで最後。
それから冨士夫は横浜に引っ越してきて、すぐそばでアパートを借りていた。それでチャー坊がきて、冨士夫と一緒にバンドやろうって話もあった。だけどちょうどその時はJLC(ジョニー、ルイス&チャー)をはじめた頃で、タイミングが違っていたらどうなっていたのかな。
気ままに生きる ルイズルイス加部/著 https://www.berrys-cafe.jp/book/n730755/79 〜80
968: 08/23(土)19:29 AAS
その後もちょこちょこありますね
『ATMOSPHERE』のレコーディングを手伝ったり
2000年頃?「冨士夫から誘われたんだけど、2回ライブをやった」り
そして最後、2013年
今年の1月頃冨士夫から電話があったんだ。自分も具合が悪いけど、暖かくなったらレコーディングしたいから手伝ってって言ってた。俺も調子が悪かったけどね。それから7月頃だと思うけど、俺の友だちのひでちゃんが冨士夫のライブを観に行ったんだけど、そこでは2曲くらいしかできなかったみたいで、とても大変そうだったと言ってた。冨士夫さん、かなり具合が悪そうだったって言って心配していた。
それから1ヵ月後くらいかな、冨士夫が亡くなったってニュースで聞いた。俺もかなり体調が悪かったから何もできなかったけど、冨士夫との出会いや昔のことを思い返したりしながら、いろいろ考えさせられることが多かった。俺もいつかは亡くなるんだろうけど。
気ままに生きる ルイズルイス加部/著 https://www.berrys-cafe.jp/book/n730755/187
969: 08/31(日)18:36 AAS
聖友ホームの記事を貼ろう
『婦人生活 昭和28年2月特大号』婦人生活社編, 婦人生活社, 1953-02
https://dl.ndl.go.jp/pid/2324891
<目次>
豪華口絵画報
〜略〜
○新婚家庭カメラ訪問
○新しい焦点 進学する混血児
○女のグループ(女流文学者会)
〜略〜
新しい焦点 進学する混血児
敗戦后八年「占領の落し児」と呼ばれた最初の混血児が、今年の四月から、小学校に入学しようとしている。
その実数廿万ともいわれ、大きな社会問題を孕みながら育つてゆく、この国際混血児たちを、一日、東京都杉並の聖友ホーム(東京都杉並区阿佐ヶ谷六ノ一七九 園長床次桂子)に訪ねてみた。
ここでは純血、混血の孤児が一緒に養育され、保姆さんのオルガンに合せて、楽しく唱歌を歌つていた。献身的な三十余名の職員に護られて、すくすくと育つた孤児達は、明るく、元気に溢れ、全くといつてよい程暗い陰がない。
いよいよ進学を目睫に控えた子供達は、期待と希望に胸をふくらませ「もうすぐ学校ゆくんだヨ」「ね、何しに来たの、お写真頂戴ね ね、きつとよ。」と、何の不安もなく、大はしやぎで話しかける。ホームは、子供達の暖かい家庭なのだ。しかし、一寸外出すれば、園外の風は、未だ余りにも冷たく、好奇、不安、偏見や軽侮の眼が子供達を追いかける。
970: 08/31(日)18:36 AAS
AA省
971: 08/31(日)18:36 AAS
上記の『婦人生活 昭和28年2月特大号』は写真がメイン
この子冨士夫かな、なんて思ってしまうけど・・・
あと写真ということなら
『総合日本史 : 写真図説 第10巻』日本近代史研究会 編, 国際文化情報社, 1957
https://dl.ndl.go.jp/pid/2455367
p.796〜797「この子に罪はない=混血児の入学」
焼けだされた混血児たち 聖友ホームは4月8日に焼失した。
というキャプションで1枚
(参考)
聖友ホーム | 社会福祉法人 聖友ホーム
https://seiyuhome.org/seiyuhome/
昭和28年4月(1953年) 新築中の乳児院等全施設が火災により焼失。
972: 08/31(日)18:36 AAS
『青少年問題 第9巻第1号 昭和31年1月号』青少年問題研究会編, 1962-01
https://dl.ndl.go.jp/pid/2744926
p.56〜61
<ルポルタージュ>
明るく健やかに育つ子供たち
聖友ホームを訪ねて
編集部
〜略〜 特に、黒人との混血児は憐れである。
映画”キクとイサム”に出演した少女のように、なにか特殊な才能でもあれば、それはそれなりに希望を感じることもできるが、きわめて平凡に、一般家庭の子供と同じように生活の明け暮れを送り迎えている黒人混血児の日常は、決して明るいとばかりは言えない。”インディアンの酋長”と言われて泣きじゃくる子、真夏でも白いシャツは絶対に着ようとしない子、お風呂で皮が剥げるほど自分の黒い皮膚をこする子供など、その子自身には全く原因のない理由で不愉快な、あるいは劣等感にさいなまれる子供が、どれほど多いか。大人たちはもっと真剣にこの子たちの身になって、その将来を考えてみる必要があるのではなかろうか。〜略〜
「特に黒人混血児ですね、問題なのは。白系の子供ですと案外、国際的な養子縁組などで相当解決するケースもあるんですが黒人混血児の場合、なかなか適当な解決策が見あたらないんです」
973: 08/31(日)18:37 AAS
こう言いながら前田理事長は、この問題は、矢張りその皮膚の色の目だたない国へ送ることによって解決するのが一番いいのではあるまいか、と説明される。現実問題として、この子たちは余りにも数多い、しかも深刻なハンディキャップを背負わされすぎているからだ。
その母親の大部分は、いわゆる洋娼とよばれる女性たち、その知能指数は決して普通なみとは言えない。相手の黒人にしてもそれほど高いIQの特主(原文ママ)とはかぎらない。その二人のあいだに生まれた子供である。概して知能指数の低い子が多いのが実情なのだ。しかも、その皮膚の色は余りにも周囲の子供たちとちがいすぎている。
子供たちは、いやおうなしに烈しい劣等感にさいなまれねばならない。しかも皮膚の色は理屈や説得ではどうにもなる問題ではない。だが、こうした子供たちでも単に就職ということだけなら、なんとかしてやることもできる。現にトラックの助手になったり、看護婦さんになろうと努力している子供たちもある。
けれども、平凡でもごく普通の一市民として働き、そして結婚し、楽しく健康な家庭を築いていくという点になると、こうした黒人混血児たちの前途は、決して平坦なものではあるまい。あらゆる生活の場で、いわれなき差別や重苦しいコンプレックスが、この子たちの将来を圧しひしぐことも容易に想像される。
974: 08/31(日)18:37 AAS
だから、前田理事長は、こうした子供たちにはクリーニング、理容師あるいはラジオの部品の組立など、どんな単純な技術でもいいから、なにか技術を身につけさせ、その技術をもって皮膚の色のちがいが気にならぬ外国へ出かけられたら、それがこの子たちにとって一番仕合せな道ではないか、と主張される。養護施設出身者にとってはとかく生きることのむつかしい今日、知能指数もそれほど高くなく、しかも皮膚の色のちがいは致命的とさえ言える。確かに、こうした黒人混血児の将来を考えるとき、前田理事長の言われる方法が最も効果的で同時にこの子たちの幸福につながる道なのかもしれない。
最近の青少年非行の激増からみても、こうした運命の落し子たちが、どんなキッカケから重大な非行にはしるかもしれないことを思うと、我々は戦後一六年を経た今日、この問題について真剣に考えるべき時期に来ていると言えるのではあるまいか。
現在このホームに生活する乳児、そして子供たちは、”これが……”と思わずそう言いたくなるほど明るく、伸びのびとしている。が、その仕合せがさらにそのまま続くよう、我々は力をかし、その解決に努力しなければならない。なぜならば、この子たちは我々の世代にとっては宝であり、この子たちを、その本来あるがままの姿に正しく伸ばしていくことこそ、我々の責任であり同時に人間としての重大な義務だからである。
[東京都杉並区阿佐ヶ谷三の二五〇]
975: 08/31(日)18:37 AAS
聖友ホームからは離れるが
『混血児指導記録 二』文部省初等中等教育局, 1955.3
https://dl.ndl.go.jp/pid/13180101
第三部 混血児教育に対する意見、参考資料
混血児教育について 坂西志保
長年アメリカに住んだ経験を主にして、わたくしは黒人の混血児を主にして書いてみたいと思う。〜略〜
黒人は大体特殊な体臭をもっている。混血児も五、六才位から体臭があるときいた。もちろん、青春期になるまで全々ないものとある。子供の嗅覚は敏感であるから、保護者が気がつかないでいるような場合、教師は注意して風呂に入るとか朝身体を洗わせるようにするのが親切である。
白人の子に比べて黒は飽きやすく、根気が続かない。こどもに何か特にすぐれた点があるか注意して、自信と責任感を養ってほしい。たとえば、黒人は天性音楽、特にリズムとハーモニーについて才能をもっている。音楽や体操の時間などに自分のすぐれたものを表現する機会を与え、卑屈にならないよう気をつける。
要は、どんな処にいてもはっきりと区別できる黒人の子が、新しい環境になじみ、自分の特殊な立場をあり意識せずに成長して行くよう心がけていただきたい。数世紀にわたって不利な立場におかれたこの人種が、日本で同じ経験をしないよう、かれらの生きる権利を保護してあげたいと思う。
976: 08/31(日)18:38 AAS
『混血児指導記録 二』
精神衛生から見た混血児問題 国立精神衛生研究所児童精神衛生部長 医学博士 高木四郎
戦後の混血児問題は、世間からすこしさわがれすぎたきらいがある。〜略〜
しかし、周囲が差別視しないことが必要だといっても、それを妨げるような要素が存在していることも事実である。第一は黒色系混血児の存在で、これはわれわれにとっては始めての経験である。そして日本人の大部分は白人に対しては劣等感を持っているくせに黒人に対しては奇妙な優越感を抱いている。ここに問題がある。第二はかれらの母親に対する偏見である。かの女等にあやまちもあったであろう。しかし、「なんじらの中、罪なき者のみ、石もてこの女をうて」であって、かの女等をこどももろとも、温く受入れてやらなければならない。第三には、従来の多くの混血児とちがって、かれらの多くが経済的、境遇的に恵まれていない点である。農村などではまた特殊な問題であるかもしれない。
差別扱いをしない、ということを、ただ観念的にふりまわすだけでは何にもならない。個々の具体例を通じ、以上の点が地道に、うまく解決されてゆくことが大切であろう。これが徹底すれば、混血児問題は大して心配するには当たらないとわたくしは思っている。
977: 08/31(日)18:38 AAS
平野レミのパパ。ご自身もハーフとして差別を受けてきた。
『混血人生記』平野威馬雄 著, 日本出版協同, 1954
https://dl.ndl.go.jp/pid/1660587
混血児の母達
〜略〜
つぎに、混血児の母は、世間の人々が思っているような賎しい女ではない。パンパンや売春婦は、混血児を生むほどまぬけではない。
誰からもすてられ、天涯孤独になって、子を養う為にパンパン的なことを余儀なくしている婦人も少くはないが、かの女たちは、けっして、パンパンとして子を産んだのではない。いずれも、素人娘だったのだ。外国兵にだまされて身をまかした素人娘なのだ。だから、混血児をパンパンの子というのはあたらない。
最初は、駐留軍ベースや施設に勤務していた娘さんだったのだ。通訳、オフィス・ガール、電話交換手、メイドなどという、わりあいに智能を必要とする職業の女性で、ほとんどが女学校、大学、専門学校を出たインテリの女性である。
そうした女性が、暴行、誘惑、恋愛などによって交わり、ただ単なる甘い約束だけで子供を産んだのである。
〜略〜
978: 08/31(日)18:39 AAS
冨士夫は知能指数が高かったよ!
087『梅雨の手紙』ひとつ/山口冨士夫 | Nico-nico Guitars Blog
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/yomoyaba/yomoyaba-regular/087%e3%80%8e%e6%a2%85%e9%9b%a8%e3%81%ae%e6%89%8b%e7%b4%99%e3%80%8f%e3%81%b2%e3%81%a8%e3%81%a4%ef%bc%8f%e5%b1%b1%e5%8f%a3%e5%86%a8%e5%a3%ab%e5%a4%ab/
〜略〜
本の差し入れは月に何冊までだったのだろうか?
今となっては憶えていないのだが、
冨士夫からは常に3冊ずつ要望があったと思う。
それも、聞いたことのない哲学書や、
宗教、心理学の類いが多かった。
“こんなもん、本当に読めるのかいな?”
そう思いながら新宿紀伊国屋に行った。
そこらの本屋では売ってなかったのだから。
〜略〜
実際に知能指数が高く、
(収監されるときに適性を計るのだそうだ)
作業場ではなく製品管理の役割に付いた、
と弁護士の先生に聞いた。
〜略〜
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