【沢田泰司】TAIJI Part.118【X LOUDNESS DTR…】 (689レス)
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1: 2023/12/27(水) 15:09:35.00 AAS
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前スレ
【沢田泰司】TAIJI Part.117【X LOUDNESS DTR…】
2chスレ:legend
670: 2024/04/24(水) 21:00:46.46 AAS
♪山岸 山岸 毎日が楽しい秘密はね
山岸 山岸 毎日がhappyな秘密はね
赤塚さんのおかげだよ ジャン
671: 2024/04/24(水) 21:52:41.12 AAS
♪山岸 山岸 オカズに困らない秘密はね
山岸 山岸 右手がとまらない秘密はね
赤塚さんのおかげだよ ジャン
672: 2024/04/25(木) 11:54:31.78 AAS
赤塚さんは山岸のためにあるのか!

甲子園は清原のためにあるのか!のフレーズで
673: 2024/04/25(木) 13:52:01.91 AAS
お尻の穴が好きなのー?へんた〜い。 って言われたい赤塚さんに。
674: 2024/04/25(木) 20:27:23.20 AAS
赤塚さんのあられもない姿見たい❤(///ω///)♪
675: 2024/04/25(木) 20:30:10.80 AAS
下着姿見たい
676: 2024/04/25(木) 20:30:58.61 AAS
水着写真集欲しい
677: 2024/04/25(木) 21:01:26.59 AAS
赤塚さんのヒップたまらん
678: 2024/04/25(木) 21:05:17.35 AAS
これはシコシコ
679: 2024/04/25(木) 21:26:04.41 AAS
今日は大事な日だからヘンタイさんにかまってるヒマはないのです

柴田和志(チャー坊) 1950年5月6日〜1994年4月25日 43歳
遠藤ミチロウ 1950年11月15日〜2019年4月25日 68歳

同い年の二人は同じ日に亡くなった。
チャー坊は高校中退してアメリカへ。ストーンズのオルタモントを観て帰国。
ミチロウは大学へ。在学中は国内を、卒業後は東南アジアを経巡った。
二人ともヒッピーだった。

遠藤ミチロウのWikiさぁ、「1973年 大学卒業後、・・・」ってなってるけど、
インタビュー記事(『Musicman』2015.09.25)に「僕は大学に6年いた」ってある。
『嫌ダッと言っても愛してやるさ!』にも
「1975年(25歳) 大学卒業と同時に1年間、ネパールなど東南アジアを放浪する。」とある。

その1975年頃のチャー坊
村八分の最後のコンサート(1973年5月5日)後、サンフランシスコへ。
1974年3月、帰国。6月、ロンドン。その後、パリ、アムステルダム等ヨーロッパを周遊。
1976年、ヨーロッパ、モロッコを周遊。南米などを周遊。
同年11月、コロンビアの首都、ボゴタで身柄を拘束される。原因は薬物、身柄をパリに戻されパリより強制送還される。
680: 2024/04/25(木) 21:26:56.69 AAS
とりあえず、二人の詩人のバックボーンから。

「チャー坊(“村八分”)の生と死」(『Quick Japan』Vol.7 1996 p.84〜5)
チャー坊の兄談:
小学校、中学校の時に島崎藤村と石川啄木、これを私は好きで読んでいたわけです。それを弟が、その流れで同じように読んでたんやろね。弟はもう全然違う方向へ行きましたけどね。最後はランボオ。もうランボオの詩ばかり読んでいました。途中でね、ボードレールに行って、それからランボオに行って、ランボオに落ち着いたんですね。ランボオが四、五年前。その前がボードレールです。それから世阿弥の『風姿花伝』。あれを最初に、弟が二二、三の頃にかなり読んでましたね。

「チャー坊(“村八分”)の生と死」(『Quick Japan』Vol.9 p.93)
山口冨士夫談
《チャー坊、こういう詞、どっから出てくんだよ?》って聞いたら《いや、フジオちゃん、実はボクは(石川)啄木が好きやねん》って。
681: 2024/04/25(木) 21:27:15.92 AAS
遠藤ミチロウ(『岡山大学新聞』1983)
https://www.erde.co.jp/~masaru/okayama/279/stalin.html
――僕も吉本(隆明)好きなんだけど、僕はけっこう吉本がね、体系的なあるいは理論的な思想家だと言われながらも、文章なんかは割に雑というかラフというかね。
そうですね、あの人、割と感情的ですね。あの人の内容ってのは全部、特に文学関係についてはファーザーコンプレックスでしょう。高村光太郎論やったり。ファザコンの人に影響受けてるでしょう。実は僕もメチャクチャファザコンで。一番最初に吉本読んで感動したのが高村光太郎論なんですよ。

遠藤ミチロウ(『Musicman』2015)
https://www.musicman.co.jp/interview/19684
――音楽に繋がるような小さい頃の想い出は何かありますか?
どちらかというと文学でしたね。父親がすごい文学青年だったらしくて、石川啄木が大好きで、戦前は東京の日赤病院で働いた後、岩手の松尾鉱山の診療所で働いていたらしいんですが、そこは石川啄木の故郷の近くなんですよ。だから、知らない間に父親の文学に対する思想の影響は受けていますよね。

遠藤ミチロウ(『INTRO』2015)
https://intro.ne.jp/contents/2016/01/21_1911.html
最初に読んだのは『高村光太郎』でした。子供のときから高村光太郎が詩人でいちばん好きだったから読んだんですが、それも「父と子」の話なんですよ。高村光太郎が父の高村光雲との格闘の中で自分を形成していく、それが僕にとっては面白くて。
682: 2024/04/25(木) 21:27:33.04 AAS
ボーカル

遠藤ミチロウについて早川義夫談
「早川義夫VS中川五郎 特別インタビュー」いつの何の雑誌の切り抜きか分からないです
(最近遠藤ミチロウが来たという話から)
早川 ボク彼に対して思うに、綺麗に歌うとか、上手に歌うとか、上手にまとめようとかそういう魂胆がないでしょ。だから、そういう意味で凄いなあと思う。いわゆる叫びだもの。

チャー坊について山口冨士夫談
「チャー坊(“村八分”)の生と死」(『Quick Japan』Vol.8 1996 p.115)
『ミュージック・ライフ』七一年六月号の「人間訪問」というコーナーで、山口冨士夫は、インタヴュアーの「ヴォーカルがミック・ジャガーに似てカッコ良かったなんて人もいるけど」という問いに「ミック・ジャガーよりいいと思うけどな、俺は……」と発言(!)、「時々音程が狂うけどさ、持ってるものが(他とは)全然違う」と付け加えた上で、さらに「世界で一番すごいのは“ストーンズ”と“村八分”だ」と言い切っています。
683: 2024/04/25(木) 21:28:12.62 AAS
The Rolling Stones「Street Fighting Man」

「岸壁のストリート・ファイティングマン」(遠藤ミチロウ『嫌ダッと言っても愛してやるさ!』/初出は「TWIST&SHOUT」1981年)
このカスカスに乾いたストーンズの革命ソング(?)を初めて聴いたのは確か、一九六九年。時期が時期だけに騒然とした世の中、正義感あふれる前向き少年だったオレは自己否定の権化になって、革命の可能性とロックの可能性を一体に信じられた幸福な時代だった。「オレの名は“騒動”……」この決定的なフレーズは、サウンドの単調さがかえって扇情的に煽り立てるせいか、思い込みをますます倍化した。そうだ、何もかもぶち壊さなくては……。このときすでに、スターリン・ミチロウの下地は出来上がっていたのだ。

あっ!! from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU

1971年4月30日 大阪 スタジオ録音

歌詞についてもやりたいが、とりあえず後回し
684: 2024/04/25(木) 21:28:47.21 AAS
「粕谷さんのブログ」2017/03/17

1969年にアメリカのオルタモント州で行われたローリングストーンズのフリーコンサートを、チャー坊は観に行っていて、その帰国時に東京に立ち寄ったのだ。
「東京にもヒッピーなヤツがおるって言うから、会いに行ってん、それが冨士夫やった」
〜略〜
「チャー坊はずっと俺を睨みつけてる。服の代わりにコーヒー袋被ってるんだよ、ドンゴロス。その袋の横に穴をあけて腕を出して着てる。髪はぼっさぼさで超長い、眉毛剃ってて、めちゃめちゃヒッピーなジーンズ姿なんだ」
冨士夫が初めてチャー坊に会った瞬間の回想である。
〜略〜
「あの頃、日本にはロックバンドの前例がなかったから、ほんまに苦労した。だから、お手本を作りたかったんや」
と言うチャー坊の発想は、自身の根底に流れている『日本』への根強い意識だ。
「俺らは、日本語の五七五の言葉でやりたかったねん」
〜略〜
「余計なモノをとことん削ぎ落とすんだ。極限まで削った音を作りたかったから」
北鎌倉に住んでいるとき、冨士夫は村八分を聴きながら、いつもそう言っていた。
その冨士夫が目指した曲作りは、チャー坊の詞に曲をつけるだけではない。ギターにリズムとリードのアプローチを作り、ベースのラインを考え、ユカリさん以降のドラマーに叩き方を伝授する。いわば、詞以外の何もかもだったのだ。
「村八分は冨士夫だけが天才やった。テッちゃんはギターが弾かれへんかったし、青木もベースなんか弾かれへんし、ドラムも何もやったことない。俺も歌ったことがなかった。あいつだけや」
チャー坊も『SO WHAT』のインタビューの冒頭で、バンドの成り立ちに関して、そう明かしている。

※『SO WHAT』のチャー坊へのインタビュー 1990年1月16日
685: 2024/04/25(木) 21:29:30.92 AAS
「チャー坊(“村八分”)の生と死」(『Quick Japan』Vol.9 1996)
山口冨士夫談
p.89
・・・オルタモントで“ストーンズ”観てきたっていう話。ヘリコプターでアシッドばらまいて、オルタモントからシスコに帰っても、まだ髪の毛にはオレンジ・サンシャイン(註・もっとも効き目の強いLSD)五、六個付いてたっていう…。
p.94
“村八分”がいちばん濃かった時期っていうのは、慶応の三田祭(註・七一年一一月六日。学園紛争の余波で大荒れになり、“はっぴいえんど”のステージを“頭脳警察”が完全ジャックした)から始まるんだよ。その頃オレ達は、単なるロック・バンドとは全然違う、もっと意識的なレヴェルにいたんだ。例えば、オレ達がなんで最初の頃から化粧してたかっていうと、“ストーンズ”のハイド・パーク・コンサートのヴィデオをチャー坊と一緒に見たのがきっかけさ。キース・リチャーズが目の下にラインをグッって入れてて、ドスが効いてんだよ。あと歌舞伎とか、チャー坊の影響で興味あったから、それで化粧初めて。


ちなみにチャー坊はビートルズも観ている
「チャー坊(“村八分”)の生と死」(『Quick Japan』Vol.13 1997 p.79)
チャー坊の姉談
“ビートルズ”が初めて日本に来た時(註・昭和四一年六月二九日)、ミキオさんっていう上の弟の友達が、和志を一緒に連れて行ってくださって、往復の旅費と(コンサートの)入場料を持たせてやったのが、確か一万四千円ぐらいじゃなかったかと思いますから。“ビートルズ”のことは、そんなにいいとは言わなかったですけど。
686: 2024/04/25(木) 21:30:01.34 AAS
ザ・ローリング・ストーンズ「スティール・ホイールズ・ジャパン・ツアー」東京ドーム
1990年2月14日〜27日 全10公演 初めての日本公演

冨士夫が観たのは2回。23日と26日。

「粕谷さんのブログ」2016/12/24
僕らは2月23日の金曜日にバンドメンバーやら知り合い総出で大挙して観に行った。
想っていた通りのすばらしいステージのあと、みんなしてまたドームの外で待ち合わせた。
そこに京都からの冨士夫の仲間も合流したのだ。
つまりは、チャー坊、テッちゃん、よっチャンの顔ぶれも揃い、冨士夫、青ちゃんと合わせて、久々の『村八分』揃いぶみなのであった。

26日の月曜日、〜略〜この日の席はあまり良くなかった。
アリーナではなくスタンド席だったため、ステージがはるか遠くに見えている。
僕らはその階段席の前の方に陣取った。
687: 2024/04/25(木) 21:30:26.91 AAS
チャー坊は?
下記の2つ、なんか話が合わない気がするけど・・・
そんなことはどーでもいい
チャー坊はまたもストーンズに触発されてバンドを始める
生きるために、いや、死ぬために、かも

「粕谷さんのブログ」2017/01/25
そのとき、チャー坊はストーンズを観る為に、仲間と共に東京に出て来ていた。
10日間ものあいだ、帝国ホテルに宿をとり、ドームのストーンズ公演に通っていたのである。何ともリッチな話ではないか。
「そりゃあ、冨士夫はブツブツ言ってたよ。
帝国ホテルからコレクトコールしてきたんだもん(笑)、
会おうってさ。
わけわかんないでしょ?
めんどくせぇなぁ、とか言いながらも
相手がチャー坊じゃん、結局は会うわけなんだけどね」(※エミリさん談)
688: 2024/04/25(木) 21:30:43.84 AAS
「チャー坊(“村八分”)の生と死」(『Quick Japan』Vol.15 1997 p.108)
チャー坊の姉談
七年か八年、ブランクがありますよね。何もやらなかった時期。それが治療してた時期なんです。
 そして、とうとう先生に「あともうちょっとだ」って言ってもらえるまでに回復したんです。ところが、その時ちょうど、日本に“ローリング・ストーンズ”が来ましたよね(註・九〇年二月一四日から二七日にかけて東京ドームにて初来日公演)。和志は自分で並んでチケットを取って、東京へ観に来たんです。
〜略〜
和志が、“ストーンズ”を観て帰ってきた晩に、「ねぇ、喫茶店しない?」って聞いたんです。そしたら、朋子さんあ「イヤだ」って言ったけど、和志は「いいよ」って言ったから、私は喜んだんです。ところが、そのあくる日の朝七時ちょっと過ぎに起きてきて、「くーちゃん、俺、やっぱり音楽やるで」って言うんですよ。で、私が「いやー、もうあんたが音楽やるってことは、クスリやるっていうことなんだから、それはやめて。そんなんやったら、私はもう死んでしまうよ」って言ったんですけど、和志はどうしても音楽やるってきかないんです。そこで大きく「そんなことやるんやったら、くーちゃんはもう、あんたの面倒見ないから」って出たら、「でも俺から音楽を取ったらね、死んでんのも一緒やし」って言い返すんですよ。私も必死で「でも、あんた今までやめられたやん。ここまでやめて、あともうちょっとで後遺症も取れるんだから、やめて!」って言ったら、「じゃあ、今までのこの七年間ね、音楽やってなかった間、俺、死んでたやん!」って言われちゃったんですよ。で、私ももう返す言葉がなくなっちゃって、それからまた音楽活動を始めたんです。
689: 2024/04/25(木) 21:31:12.65 AAS
ちなみにTAIJIは3回。PATAは何回かな?
ロック・ミュージシャンで行かなかった人なんていないのかもなぁ

「BURRN!」1990年5月
――ROLLING STONESは、ライヴも観たの?
TAIJI:3回観に行きましたよ。いやぁ、凄かった。まさにアリーナ〜スタジアム・クラスのライヴという感じで…。

「PATi PATi ROCK'N'ROLL」1991年7月号 words for 8.23 TOKYO DOME
PATA:〜略〜 東京ドームでのコンサートってストーンズくらいしか観てないですからね。
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