◎●○三島由紀夫の名言・格言○●◎ (853レス)
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247: 2010/05/26(水)12:08 ID:RNVvtogC(1/11) AAS
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の
思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼む
ミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
248: 2010/05/26(水)12:09 ID:RNVvtogC(2/11) AAS
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩(平八郎)は太虚といふものこそ
万物創造の源であり、また善と悪とを良知によつて弁別し得る最後のものであり、
ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。
彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚は
そのまま太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、
壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、
その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することが
できるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば
能動的ニヒリズムの根元と考へてよいだらう。
省1
249: 2010/05/26(水)12:10 ID:RNVvtogC(3/11) AAS
仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の
母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達して
また現世へ戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へには
この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。
ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動とも
いふことができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
250: 2010/05/26(水)12:10 ID:RNVvtogC(4/11) AAS
陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。
ラショナリズムに立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
251: 2010/05/26(水)12:11 ID:RNVvtogC(5/11) AAS
われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、
太虚の一つである。この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも
口や耳を通じてひそんでゐる。
われわれが持つてゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。
もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に帰すれば、天がすでにその心に
宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
252: 2010/05/26(水)12:16 ID:RNVvtogC(6/11) AAS
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていく
ほかはない。形のあるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつて
ゆすぶられる。何故なら形があるからである。しかし、地震は太虚を動かすことはできない。
これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を語ることができるのである。
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる
行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
253: 2010/05/26(水)12:17 ID:RNVvtogC(7/11) AAS
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。
また、心の外にある虚は、すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。
この説は世界の実在はすなはちわれであるといふ点で、ウパニシャッドのアートマンと
はなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」
といふことをつねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと
思はれるのである。心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。
だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを
知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
省1
254: 2010/05/26(水)12:18 ID:RNVvtogC(8/11) AAS
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、
ともすると日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」
といふ人が無数にふえていくことが想像される。肉体の延命は精神の延命と同一に
論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、
ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、
肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり
平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを
恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
255: 2010/05/26(水)12:18 ID:RNVvtogC(9/11) AAS
死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの
心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であつて、肉体を離れるとき初めて
この死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ気持のうちに
死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に
帰ることである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
256: 2010/05/26(水)12:24 ID:RNVvtogC(10/11) AAS
ひたすら聖人に及ばざることのみを考へてゐるところからは、決して行動のエネルギーは
湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と同一視することであり、
自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを
経過した行動ならば、その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。
陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまつたく
うかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
257: 2010/05/26(水)12:24 ID:RNVvtogC(11/11) AAS
日本が貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの
一環に属することによつて西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による
抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を
革正することによつてしか、最終的に成就されない道である。そのとき革新思想が
どのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその政治的有効性の方向に
引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれは
この陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の
対立状況における精神の闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
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