野々村元県議の今後を考える7 (992レス)
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: 2024/04/04(木)19:04
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553: [sage] 2024/04/04(木) 19:04:37.97 ID:iwBVPY3j0 鄭芝龍はそうではなかった。芝龍は明朝復興ではなく、鄭家の繁栄を第一に考え、今後の身の振り方を思案していた。すなわち、「清に降るか否か」である 抗清復明」をスローガン 兵の中には、鉄製の兜や甲などの重装備に身を包んだ「鉄人」と呼ばれた部隊が存在した。 これは、1656年末に打ち取った清将メイチャン・アクシャンの部隊装備を参考にして作られたと言われている 1662年1月、鄭成功の元に父・芝龍の処刑報告がもたらされた。享年58。清に拉致されてから15年が過ぎていた さらに鄭成功は1662年4月、南明最後の皇帝・永暦帝が清軍の攻撃を受けてビルマに逃げ込んだ、と報告を受けた。この報告をもたらした使者は、 自身が永暦帝の元を離れる時点で、清軍の呉三桂がビルマに攻め入っていたため、現在永暦帝は殺害されている可能性が高い、と語ったとされる。 実際に永暦帝が殺害されたのは1662年4月15日であり、鄭成功が生前にその情報を得ることができたかどうかは定かではない。 しかし、永暦帝の使者からの報告を受けた鄭成功は、その様子から自身のスローガンである「復明」が絶望的であることを感じたに違いない。 ただ、この先鄭氏政権は三代に渡り「永暦」の年号を用い、明の正統性を主張し続けた 鄭成功は新たにフィリピンに目を向けた。この地を併合し、台湾からフィリピンにかけて南海の海洋王国を築けば、清に対抗することも夢ではない。 当時のフィリピンはイスパニア(スペイン)の植民地となっていた。中でもルソン島には多くの華僑が移住して来ていたが、 イスパニア人から度々迫害を受けていた。鄭成功はここに目を付け、使者を派遣した 鄭成功の書簡を見たイスパニアのフィリピン総督は激怒し、マニラの華僑を追放。鄭成功の要求を拒絶し、徹底抗戦の意思を伝える書簡を7月に送った。しかしこの書簡に鄭成功が目を通すことはなかった。 この書簡が台湾に届いた時、鄭成功はすでに死去していたのである。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/mayor/1708157139/553
鄭芝龍はそうではなかった芝龍は明朝復興ではなく鄭家の繁栄を第一に考え今後の身の振り方を思案していたすなわち清に降るか否かである 抗清復明をスローガン 兵の中には鉄製の兜や甲などの重装備に身を包んだ鉄人と呼ばれた部隊が存在した これは1656年末に打ち取った清将メイチャンアクシャンの部隊装備を参考にして作られたと言われている 1662年1月鄭成功の元に父芝龍の処刑報告がもたらされた享年58清に致されてから15年が過ぎていた さらに鄭成功は1662年4月南明最後の皇帝永暦帝が清軍の攻撃を受けてビルマに逃げ込んだと報告を受けたこの報告をもたらした使者は 自身が永暦帝の元を離れる時点で清軍の呉三桂がビルマに攻め入っていたため現在永暦帝は殺害されている可能性が高いと語ったとされる 実際に永暦帝が殺害されたのは1662年4月15日であり鄭成功が生前にその情報を得ることができたかどうかは定かではない しかし永暦帝の使者からの報告を受けた鄭成功はその様子から自身のスローガンである復明が絶望的であることを感じたに違いない ただこの先鄭氏政権は三代に渡り永暦の年号を用い明の正統性を主張し続けた 鄭成功は新たにフィリピンに目を向けたこの地を併合し台湾からフィリピンにかけて南海の海洋王国を築けば清に対抗することも夢ではない 当時のフィリピンはイスパニアスペインの植民地となっていた中でもルソン島には多くの華僑が移住して来ていたが イスパニア人から度迫害を受けていた鄭成功はここに目を付け使者を派遣した 鄭成功の書簡を見たイスパニアのフィリピン総督は激怒しマニラの華僑を追放鄭成功の要求を拒絶し徹底抗戦の意思を伝える書簡を7月に送ったしかしこの書簡に鄭成功が目を通すことはなかった この書簡が台湾に届いた時鄭成功はすでに死去していたのである
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